第六話 秘密を知る
汎諳が手に取ったのは、厚さ三寸(約九cm)はありそうな、とても分厚い書物だった。
子どもなら、片手で持つことも難しいだろう。
書物に書かれていたのは、すべて珍しい術や、少し意図からずれてかかった術などについて。
それらの術の状態の詳しい内容のほかに、一部ではあったが解き方と思われる内容も見受けられた。
しかし、すぐに読み進めることはできない。
なんと古代語の、さらに文語で書かれていたのだ。
かろうじて、導入部分は現代語の翻訳があるが、本文は古代語でしか書かれていない。
辞書も必要になりそうだったため、汎諳はぼんやりしている秀二郎を促して、貸し出しを願うため里長の元へ向かった。
特に条件もなくあっさりと許可をもらえたが、貴重な書物であるはずだ。
汎諳は、一応何かあったら書物が里長の家の書庫に戻るよう術をかけてから帰った。
数日後の昼、書物に被りついている汎諳の前に、心配そうな表情の秀二郎がやってきた。
「汎諳、大丈夫か?」
自分が何もできず待つだけという状況に、秀二郎も疲れてきているようだ。
汎諳は、できるだけ柔らかく微笑んで見せた。
「大丈夫よ。このところはきちんと休んでるし、無理はしないようにしてるから」
くたびれきってはいない様子に、秀二郎も少し表情を緩めた。
当たり前のように汎諳の家に上がりこんできた秀二郎は、懐に持っていた団子を二人の間に広げた。
毎日のように秀二郎が来てくれるので、少しは休憩を取れているのも、汎諳にはありがたかった。
「そうそう、今日の夜、時間取れるか?また、弧艽の兄貴のとこに行く予定なんだ」
「あぁ、そうね…私も行くわ」
汎諳は、二つ返事で頷いた。
夜、前のときのように入り口付近で汎諳が待っていると、秀二郎が馬に乗ってやってきた。
今日はお土産を特に持っていないらしい。
「稲荷山に供え物をするときには、ついでに持って行くけどな」
「そっか。じゃあ、今日は私のお酒だけね」
「飲みすぎるなよ」
「分かってるわ」
秀二郎の前に抱えられたまま、汎諳は頷いた。
弧艽たちは、全員で九人だ。
今日は、都合がつかなかったのか四人しかいない。
そのときによって、集まる人数は変わるらしい。
「弧艽兄ぃ、狸凛姉ぇに会えた?」
「…おぅ、渡しておいたぞ。なんで俺のとこにだけ来たのかって八つ当たりされた。会いに来いって言ってたから、行ってくれ。また殴られるのは嫌だ」
「うん、行きたいのは山々なんだけどね。って、殴られたの?ごめん。ちょっと今手が離せなくて。今日来たのも、秀二郎のことがあって」
「秀が?なにかあったのか?」
汎諳は、弧艽に秀二郎がかけられている術について説明した。
「だから、このところは術を解くために本漬けになってるわ」
弧艽は、酒を煽り、納得したように頷いた。
「なるほど、そんな術が…だから、あいつらもすんなり仲良くなったんだろうな」
「もともとの資質も充分だけどね。増幅されてるみたいよ」
「おれが思わず手当てしたのも、そのあたり関係ありそうだな」
「そうかしら?弧艽兄ぃって、結構出たがりじゃない」
「そんなことはない、はずだ」
汎諳と弧艽が話していると、向こうで話していた秀二郎たちが寄ってきた。
「何の話だ?」
秀二郎の目が穏やかでないのは、多分気のせいではない。
彼の話なので特に聞かれて困るわけではないが、汎諳は驚いて少し答えに詰まった。
弧艽は、二人を面白そうに見て答えた。
「おれたちの、ちょっとした秘密についての話だよ」
「…え?」
おれたち、という言葉に、秀二郎は顔色を変えた。
これは明らかに誤解している。
汎諳が非難するように渋面を向け、弧艽に抗議しようと口を開けた。
しかし、その前に弧艽がとても面白そうに眼を細めて言葉を続けた。
「秀、全然気づかないんだもんなぁ。」
「…なんの、話だよ」
「おれたちが、稲荷山のお狐様だってことに」
「こきゅ…え?お、おきつね?は?こ、弧艽の、兄貴?え、え、何、言ってんの?酔っ払いなのか?寝ぼけてんのか?」
思いもよらないことを告げられて混乱した秀二郎の様子を見て、弧艽は声を立てて笑った。
「はっはははははははは!!!まじおもしれぇ!何その反応。秀、良いな!」
げらげらと笑う弧艽は、その勢いでぽん!と尻尾と耳を出した。
「おっと」
「!!??!?!?!?」
ぱくぱくと口を開け閉めする秀二郎。
困ったような面白いような表情の汎諳は、秀二郎に向かって言った。
「ねぇ、ここ稲荷山でしょう?ここの神は、弧艽兄ぃなのよ。ほかの人たちは、眷属っていうのかしら。あえて言うなら弧艽兄ぃの家族みたいなものね。だから…」
「みんな、…お狐様…??」
唖然と言う秀二郎に、弧艽たちは面白そうな顔で頷いた。
「そうそう、我々はお狐様である」
ふんぞり返って答えたのは弧艽。
「お狐様である!」
「である!」
同じく答えたのは、一太と六助。
彼らは、どちらかというと弟のように、秀二郎の後を追っていることが多い。
「え、ほんとに気づいてなかったのか?」
驚いたように聞いたのは、三之森で、秀二郎が親友だと言っていた。
実際、三之森には、夜だけでなく昼も会うことがあり、色々と相談することもあるらしい。
彼らは、それぞれ狐になったり尻尾や耳だけを出して見せたりした。
汎諳は何も言わなかった。
術師としては、神の意志を邪魔する理由がない。
昔からの友人としては、隠しごとをしない方が、心が楽だ。
つまり、どちらにしても意見するつもりはなかったので、秀二郎が受け入れてくれることを祈って、黙って見守ることにしたのだ。
秀二郎は、しばらく呆然と見ていた。
しかし、楽しげに飲みしゃべる弧艽たちを見て、再起動したころには色々飲み込んだらしい。
三之森が秀二郎の肩を叩いて、別に何も変わらないんだから気にするな、と元気づけて?くれたことも後押しになったのだろう。
そして弧艽たちに聞いた。
「普通、術師でない人には神様は見えないもんだろ?なんで俺には見えてるんだ?」
「あぁ、それな…見えるように化けてるんだよ。まぁ、秀の場合はちょっと力が強いからな、厳重に化けなくても見えてるらしい」
「厳重に化けるって…」
「要するに、力の少ない奴らが近くに来たら、秀と汎諳だけがいてしゃべってるように見えるってわけだ」
「まじか…」
「手を抜いてるから、かなり楽だぜ?」
ははは、と笑う弧艽。
ほかの人たちとも話を再開して、秀二郎はやっと笑った。
「また来いよ。今度はこんにゃくと厚揚げの煮物が食いたい」
「こんにゃくと厚揚げね、分かったよ。まったく、厚揚げは分かるけど、なんでこんにゃくが好きなんだ?」
「知らん。三之森に聞いてくれ」
「え?三之森、お前こんにゃく好きなのか?」
「おう。出汁の染み込んだこんにゃくって旨いのな。頼むぜ親友」
「お前ほんとにお狐様なのかよ。まったく…分かったよ、親友」
秀二郎は、弧艽と三之森の要求に呆れたように答え、馬に乗りこんだ。
次いで、汎諳も秀二郎の前に乗り、弧艽たちに手を振った。
村へと帰る道中、秀二郎が汎諳に聞いた。
「なぁ、…汎諳はずっと前に会ったときから、弧艽の兄貴たちがお狐様だって知ってたんだよな?」
「えぇ。黙っててごめんね」
「いや、聞いても信じなかったと思うし…気にするな」
さらりと流す秀二郎は、それよりも気になったことがあったらしく言葉を続けた。
「なあ、汎諳、聞いておきたいことがある」
「何?」
「…あのな、…弧艽の兄貴と、その…」
「弧艽兄ぃ?」
秀二郎は言いにくそうにしながらも、なんとか口を開いた。
「もしか、して、言い交し、して、とか…」
それを聞いて汎諳は驚き、身を捩って秀二郎に振り返った。
腕の中なので顔が近い。
揺れるけれど、表情はしっかりと見える。
「なんでそう思うの?弧艽兄ぃよ?そういう感情は抱けないっていうか…」
「そう、なのか?」
どうやら信じきることはできないらしい。
「人によっては、神様と結ばれる術師もいるらしいけど」
「え?」
秀二郎は焦ったように聞いた。
「実際、人と神の間に生まれた術師が知り合いにいたからね。でも、人によって、よ。私は弧艽兄ぃと言い交したりしてない」
「本当に?言い寄られてもないのか?」
「なんで言い寄るのよ。だいたい、弧艽兄ぃにはずっと前からの想い人が…」
「えぇ?!」
「え、やだ、忘れて。今のは聞かなかったことにして」
「それは、ちょっと無理が…」
「とにかく、親しい感情はあるけど、親戚のお兄さんみたいな感じ。昔っからあの姿で変わらないしね」
「そうか」
「眷属のひとたちもあのまんまだったわ」
「そうか」
秀二郎は、汎諳の言葉を聞いて嬉しそうに頬を緩めた。
汎諳はそれを確認してから、前を向いて体を後ろに預けた。
「そういえば、昔遊んでもらったときにね、お兄ちゃんになってってお願いしたことがあったんだけど、断られたわ」
「なんでだ?」
「んー、私が簡単に追い越しちゃうからだって」
「追い越す?」
「そう。弧艽兄ぃたちは、存在が人とは違うの。だから、私たちみたいに歳をとったりしない」
「え…じゃあ、いつまでも?」
「あのままよ。ただ、姿を変えられるから、歳をとったように見せることはできるんでしょうけど。普通はそこまでしないわね」
「そうなのか…」
「家族に置いていかれると悲しいから、だめだって言われたわ」
「…。なら、人と結ばれた神っていうのは」
「うん、連れ合いが亡くなったら眠る気でいるらしいわ。今は一緒にいるって聞いたけど」
汎諳は、術院で会った先輩のことを思い出した。
彼女は人と神の間に生まれた術師だった。
「どうやって子を成したんだ?存在が違うんだろう?」
「存在は違うわね。だけど、神が人に合わせることはできるらしいわ」
「神が、人に…」
「そう。ほら、秀二郎に姿を見せたみたいに」
「…なるほど」
夜更けの山道を、二人でしゃべりながら馬に乗って水里に帰った。
物之気たちは大人しく、穏やかな空気が流れていた。