第五話 調べる
秀二郎には分からない言葉で、呪文のように唱えては、香木で印を結ぶ汎諳。
時折、何も持たない左手でも印を結んでゆく。
しばらくして、秀二郎は体の中に何かが入り込んでくるような気がしたが、先ほどの汎諳の言葉を思い出して耐えた。
四半刻も過ぎただろうか、入り込んできた何かが体の中を這いずり回るのに耐えていたが、秀二郎はほとんど限界だった。
座っているのに体を起こしているのも辛くなってきたころ、ようやくそれは終わった。
体中から汗がふき出していて気持ち悪い。
汎諳も、同じように額から汗を滴らせていた。
汎諳は、はぁ、と大きく息を吐いた。
「…分かったのか?」
秀二郎が聞くと、汎諳はこっくりと頷いた。
「ただ、その…」
「なんだ?」
「原因を取り除くのが、ものすごく非常にとんでもなく大変そう…」
「……」
予想はしていたが、術を探ることで過去を見て、はっきり分かった。
秀二郎が助けた猫たちは、北東にある朝日山の守り神だったのだ。
しかも、その代替わりに立ち会ってしまったらしい。
たまたま先代が弱ってしまって引継ぎが上手くいかなかったところへ、秀二郎がやってきて、はからずもその強めの力を分けることで手伝う形になったようだ。
そして先代は、亡くなる前に、礼のつもりで秀二郎に術をかけた。
物之気に好かれやすいという、祝福のような護り術だ。
術を解くのは、術をかけた者が行うのが一番確実だが、すでに亡くなってしまっている。
何よりも、秀二郎が取り込んでしまったことで、術が変形しているのだ。
普通の術解きどころが、呪い解きの術も通じそうにない。
どうしたものか、と悩む汎諳を見て、秀二郎は辛そうに顔を歪めてうつむいてしまった。
そして、静かに口を開いた。
「…しばらく、俺がどこかへ行けば、村への被害は抑えられるのか?」
汎諳は、それを聞いてふるふると首を振った。
「根本的な解決にならないわ。でも、そう、抑えるだけなら…それなら、すぐにでも何とかなるかも」
そして、にっこりと微笑んだ。
秀二郎は驚いて顔を上げ、汎諳を見つめた。
「秀二郎は、今言い交している人はいる?男女の仲として決まった人、ってことだけど」
「えっ…」
唐突な質問に、秀二郎は虚を突かれたように呆けたが、すぐに理解したようだ。
「それは…まだ、いない」
しかし、白猫の術を抑えることとどう繋がるのか分からないらしく、不思議そうに答えた。
汎諳はふむ、と頷いた。
「じゃあ、抑える術をかけるから、猫にでも引っかかれたと思って方法には目をつぶってね」
「えと、…分かった」
汎諳は、目線を秀二郎から外していたものの、難しい顔をしてはいなかった。
きっと辛いものではないのだろうと見当をつけ、秀二郎は了承した。
すると、汎諳は二人の間にあった水盆を横へ置き直し、胡坐を組む秀二郎の目の前で膝をついた。
腰は下ろしていないので、秀二郎は頭一つ分ほど汎諳を見上げる形になった。
息が触れる距離だ。
そのまま、汎諳は秀二郎の顔を両手で押さえて上を向かせた。
「は…はな、ん?」
うろたえる秀二郎を気にすることなく、汎諳はそっと顔を近づけ、ゆっくりと唇を重ねた。
術を探っていたときのように、触れている唇から何かが秀二郎の体に入ってくる感じがした。
ただ、さきほどのような不快感はない。
何より、汎諳の甘い香りと体温が近く、思わず秀二郎は汎諳の腰に両腕を回した。
秀二郎の腕に、ぐっと引き寄せられたが、汎諳は抵抗せず、重ねた唇を離すこともない。
それよりも、より近づいたことで、秀二郎の中にある猫神の術が分かりやすくなったことの方が重要だった。
触れたまま薄く口を開くと、秀二郎も同じように口を開けたので、肌だけでなく粘膜に直接触れる。
鼻息が少しうるさいが、気にせずに術を探る。
秀二郎の術力に絡みつくようにかけられた猫神の術。
それを、秀二郎の術力の一部と一緒に、どうにか汎諳の術でまとめあげ、隔離して封をした。
口を離して息をつくと、秀二郎が追いかけてきて、音を立てて口を吸われた。
汎諳は、自分が膝立ちのまま秀二郎の腕に閉じ込められているのを確認して、驚いたあとで少し困った顔で秀二郎を見た。
しかしそれは一瞬のことで、そっと両手を秀二郎の頬から離し、目を見つめたままもう一度術が隔離されていることを確認した。
「…もって十日ね」
汎諳は真剣な表情で、秀二郎に言った。
やはり、秀二郎が取り込んでしまっているため、思ったよりも封がしっかりとできない。
普通なら肌に触れれば完全に封印できるのだけれど、と言う汎諳を、秀二郎はぽかんとした表情で見上げていた。
秀二郎の腕からするりと抜け出し、汎諳はさらに言葉を続けた。
「術は覚えたから、とにかく調べてみるわ。十日以内に解除する方法が見つからなかったら、また抑える術をかけ直すから」
一瞬見せた恥じらいは跡形もなく、真剣な『術師』の顔で説明する汎諳。
秀二郎は、喉まで出かかった不満を飲み込んで頷いた。
それから七日経った。
汎諳は、術師としての仕事を午前だけでこなし、あとは家に閉じ籠っていた。
日に日にくたびれていく汎諳を見て里長夫妻が心配し、秀二郎に汎諳の好物である白玉きな粉を持たせて様子見に行くようにと言った。
何となく気恥ずかしくて顔を合わせづらく、このところは朝会えば挨拶するくらいだった。
だからといって断るのも理由を追及されそうだし、心配はしているので、秀二郎は大人しく両親の指示に従った。
玄関から土間に入り、汎諳へ声をかけるが、返事がない。
一応大きめの声で断って、土間から上がって室内へ入っていくと、術師の仕事場にしている部屋へ行く廊下の途中が跳ね上げられていた。
ぽっかりと開いた穴から、下へ降りる梯子がかかっていた。
地下にいるのだろうと、秀二郎は遠慮なく降りていった。
降りきると、土壁の地下室になっていて、敷地と同じくらいの広さの部屋の中にはすごい量の書物が保管されていた。
術がかけられているのだろう、ひんやりとしながらも乾燥した空気だ。
秀二郎の家にも似たような書庫があったな、と思いながら奥へと進んだ。
汎諳は、読み終えたらしい書物を横に積み上げ、今も一冊を必死に読んでいた。
「汎諳、ちょっとは休めよ」
秀二郎が後ろから声をかけたが、まったく気づかない。
昔も今も、書物を読みだしたら集中しすぎて周りが見えなくなるのは変わらない。
秀二郎は、ため息をついて汎諳の肩に手を置き、軽くゆすった。
目の下に隈を作った顔で、ゆっくりと振り返った汎諳を見て、とにかく休め、と強引に連れ出した。
白玉きな粉を出して見せると、汎諳は少し微笑んだ。
汎諳を座らせ、秀二郎が茶を淹れた。
白玉を食べ、二人でお茶をすすると、汎諳の瞳に光が戻ってきた。
自然と、秀二郎にかかっている術の話になった。
「昔、歪められた術の話をどこかでちらりと読んだ気がするのよね」
と汎諳が言った。
ちらっと見た記憶はあるが、どんな書物だったのか、どこで見たのかまでは思い出せない。
ただ、まだ術院へ入る前だったことは覚えている。
そこで、片っ端から家の書庫を探しているらしい。
十年以上前のことで、うろ覚えだけにもどかしく、家で見たのかどうかも分からない。
「それを読んだとき、誰かと一緒にいたような気もするし…」
考え込む汎諳に、秀二郎が思い出したように言った。
「それ、俺んちの方の書庫じゃないか?」
「え?」
昔、自分の家の書庫には他人では開けられない鍵が付いているんだぞ、と汎諳に自慢したくて連れて行って、父親に雷を落とされた記憶がある。
里長の家に住む血族だけが開けられる、特殊な鍵で、開け方を教わったばかりだったのだ。
汎諳は驚いて、秀二郎の襟元を両手でひっつかんだ。
「それ!そうかも!!連れてって!!!」
勢いに押され、秀二郎はからくり人形のように何度も頷いた。
二人で秀二郎の家へ向かい、里長に書庫の閲覧の許可を願い出た。
汎諳が秀二郎にかけられた術を調べていることは報告していたので、すぐに許可をもらえた。
「うん、この雰囲気覚えてる。多分この書庫だわ」
汎諳は生気の戻った目で書物の並んだ棚を見まわし、読んだはずの呪い解きの書物を探すために書物の海へ挑んでいった。
さすがに一日で見つかるわけもなく、汎諳は次の日も昼食をとってすぐに里長の家に来た。
書庫を開けるためについてきてくれた秀二郎をじっと見て、汎諳がついて来てほしい、と言った。
秀二郎は二つ返事で頷き、扉を開いて書庫の奥までついて行った。
「それで、何を手伝ったらいいんだ?」
しかし、汎諳は首を横に振った。
「ううん、手伝いじゃなくて…ちょっと、抑えている術が、思ったより早く解けかかってるの」
困ったように眉を下げた汎諳は、ほんのりと頬を染めて言った。
それを見た秀二郎は、に、と左の口角を上げて汎諳へと手を伸ばした。
ゆっくりと汎諳を引き寄せて、顔を近づけながら、秀二郎が口を開いた。
「これでいいのか?」
汎諳は、慌てることなく答えた。
「だめよ、それじゃあ術をうまくかけられないわ。秀二郎は、おとなしく座って待っていてくれないと。結構複雑だし難しい術なのよ?ほら、座ってちょうだい」
術師の顔で言うが、その頬はいまだ赤い。
そんな汎諳に、秀二郎は素直に従って腕をほどき、床に座り込んで上を向いて、目を閉じた。
秀二郎の頬に暖かい手が添えられて、唇が合わさった。
すぐに深い口づけとなり、秀二郎は当然のように汎諳の腰に腕を回した。
何も知らない人には、恋人の逢瀬にしか見えないだろう。
前回よりも気持ち早くそれは終わり、汎諳は術を確認するために秀二郎をじっと見つめた。
「…ん、大丈夫ね」
よし、と頷く汎諳。
「なぁ汎諳、俺―」
熱っぽい瞳で汎諳を見上げる秀二郎が何か言いかけたのだが。
「あ!!あった!これだわ!」
汎諳は秀二郎の後ろの棚を見て、はっとして手を伸ばした。
だが、秀二郎は汎諳を抱き込んだまま汎諳から手を離さず、二人は秀二郎を下敷きにしてどさりと倒れこんだ。
「あぁっ、ごめん!」
「いや、俺の方こそ悪い…」
背中を打ったものの、汎諳が無事なようなので表情をゆるめた秀二郎は、汎諳の香りを堪能した自分に気づいて言葉につまった。
汎諳はそんな様子に目もくれず、見つけた書物を手に取るために、秀二郎の腕から抜け出してしまった。
秀二郎は、名残惜しげに空になった両手を眺めていた。