第二話 里に着く
水里の懐かしい空気がはっきりと分かるようになってきたころ、汎諳の感じていた違和感がはっきりとしてきた。
記憶にある、人々も山川も動物たちも、ゆったりと生きていたはずなのだが、今は何とはなく居心地が悪いようで、落ち着きがない。
人や動物ではない、物之気と呼ばれる存在が、何かに急かされているように動き回っていた。
物之気たちは、さまざまなものに宿り、さまざまな形をとっている。
宿るものは木や草や水、土であったり、一つの山や川であったりと、常人にはその境界が分からない上に、その存在を感じることはない。
物好きな物之気が姿を見せることはあるが、通常は物之気の存在を見聞きすることはないのだ。
術師には常に彼らが見え、意思疎通もできる。
術院では、物之気とは『ものの魂』であると教わった。
魂が意志を伝えるために形をとったものが物之気らしい。
通じるかは別として、自分の意志を伝えられる動物には、物之気が宿ることはない。
そして、ある一定の範囲内の物之気をまとめている者のことを神と呼んでいる。
どういうわけか、神は動物の姿を取っており、眷属も同じ動物の姿で、神の住処の近くには同じ動物が住み着いていることが多い。
神ともなると、わざわざ人のそばに来ることの方が珍しいため、術師でも会いに行く必要がある。
物之気たちや神の意思を人々に伝えたり、逆に人々の意向を神や物之気に伝えたりする存在が、術師なのである。
もちろんそれだけではないが、ときには術を駆使して、双方の間を取り持つのが、流術師として一番重要な仕事だ。
さらに先へと進むごとに、喧騒感のようなものが強くなってきた。
青年が手綱を握っている馬も、気を抜けばいつ暴走するか分からないほどだ。
汎諳はほとんど無意識に、馬の首元に手を当てて術を使い、安心させるように撫でていた。
それを知ってか知らずか、青年は馬を無理に落ち着かせようとはしなかった。
しばらくして、突然道を何かが横切った。
馬は驚いて暴れそうになったが、青年は落ち着いて、片手で汎諳を支えて、逆の手で手綱を持ったまま馬の首をやさしく叩いた。
「ただの狸だって。ほら、大丈夫」
まるでその言葉が理解できたように、馬はすぐに落ち着いた。
そして、また蹄を規則的に鳴らして道を進みだした。
青年の合図とともに、少し速度を上げ、道を横切っている狸たちの行列を軽く飛び越えた。
狸たちは、上を馬が通り過ぎたことなど気にする様子もなく、ひたすら前に続いて道を横断していた。
村の南西に位置する夕山には、狸の神を祀ってある祠があり、実際に狸が多く住んでいる。
今汎諳たちが進んでいるのは、夕山の中腹あたりを通っている道。
彼らの住処なのだから沢山見かけてもおかしくはないのだが、本来狸は人前には出ようとせず、道の傍にも寄ってこないはずである。
やはり、何かが起こっているようだ。
不謹慎ながらも、着任早々やりがいのありそうな仕事があることを知り、汎諳はこれからの生活が楽しみに思えた。
ある一定の強さから先へ、術師としての力を伸ばすには、何よりも経験が一番近道だ。
「突然で悪かったな」
青年が、汎諳に回していた腕を解きながら言った。
一瞬何のことか分からなかったが、先ほど狸の群の上を飛び越えたことを思い出した。
汎諳は特に怖いとは思わなかったが、普通なら突然馬が暴れてさらに山道で何かを飛び越えるなど、慣れていても少々臆するだろう。
「いえ、大丈夫です」
汎諳は考えごとをしていたために、すぐにそのことを忘れてしまった、と言うわけにもいかず、無難と思われる返答をした。
「なんか最近、おかしいんだよな。里の周辺に、動物がうようよ寄って来て、さっきみたいに道を塞いでたりするんだ。馬に乗ってたら轢きそうになるし、歩いてたらこっちが轢かれそうになるし」
汎諳を気遣ってか、青年は少し面白げに言った。
が、振り返って仰ぎ見えた表情は、本当に困っていることを窺わせていた。
「ほかの動物たちも、ですか?」
青年は汎諳の言葉に頷いた。
「ああ、ここ二年ほどでかなり酷くなってきたな。動物もそうだけど、川とか山もおかしくて、今年なんかは雨が降りすぎたし、不作の田畑も多い」
「そうなんですか…」
先ほど、やりがいがありそうだ、などと楽しみにした自分が恥ずかしかった。
二年も連続して異変が続いてるのであれば、いかに備蓄しているとは言っても、そろそろ間に合わなくなっているだろう。
両親が揃っていても解決していないということは、余程のことに違いない。
汎諳は道の先を見つめ、気を引き締めるように静かに深く息を吐いた。
村への入り口となる道の端には、大きな梅の木がある。
そして、道を挟んで反対側には大人の肩辺りまである岩が、どっしりと腰を据えている。
いつの人が刻んだものか、「水里」と彫り込まれている。
先ほど通り過ぎた入り口には、岩の周辺と梅の根元に、害にはならない程度の動物避けの結界が作られていた。
とりあえずは、野生の動物が里に入って来られない状態にしてあるらしい。
あの様子から見るに、里の周辺にはいくつも同じような結界が張られているだろう。
小さいとはいえ、里一つを囲む結界となると、相当の力を消費しているはずだ。
道を登り、里の家々が目に入ってきた。
懐かしい里を見渡し、汎諳は目を細めた。
「で、どこに行くんだ?このまま連れてってやるよ」
青年に後ろから声をかけられて、馬に乗せてもらっていることを思い出した。
汎諳は荷物を持ち直して、足を止めていた馬から降りるために準備をしながら言った。
「とりあず、里長さまに挨拶に行かないと」
先だって手紙を出してあったため、このまま顔を見せに行ってもかまわないだろう。
汎諳が馬から下りようとしているのを知りながら、青年は手を貸す素振を見せず、むしろ汎諳の両側に伸ばしていた腕を固定するように手綱を握りなおした。
「分かった。家の前まで連れてってやるよ。少し登るしな」
水里は山々に囲まれたくぼ地で、平坦な場所はあまりない。
田畑も段を作って並んでおり、村人たちの家は、一番底の蒼水川の川原より少し山を登ったところに建っている。
里長の館は、集落よりもさらに登ったところにあった。
「いえ、そこまでしてもらわなくても」
汎諳は言ったが、青年は意に介さなかった。
「いいからいいから」
さらりと言い放ち、馬の腹を軽く蹴った。
楽しげに道を進む青年に、汎諳は少々眉をひそめたが、悪気が無いのは見て取れるし、と諦め、大人しく乗せて行ってもらうことにした。
集落付近まで来てみると、どうも全体に活気がなく、空気がぴりぴりとしていた。
そろそろ収穫の時期だというのに、広がるのは作物が充分には実っていない田畑。
それでも、残った作物を枯らさないように、作業をしている人々があちこちに見られた。
汎諳が青年の馬に乗せてもらっているのを見ると、彼らは思い出したように力を抜いて微笑んだ。
どうやら、青年がこのような行動を取るのはよくあるのだろう。
そして、そんな青年は村人たちに好かれているらしい。
ようやく水里らしいゆったりとした空気を感じた。
汎諳も思わず口角を上げた。
馬上から里を見ていると、すぐに里長の館の前辺りまで辿り着いた。
夕日は山の向こうにあり、青年に連れてきてもらわなければ、多分日が落ちてから着いていただろう、と汎諳は思った。
彼の親切に甘えておいて良かったようだ。
今度こそ、青年は汎諳を馬から下ろしてくれた。
そして、彼も馬から下り、手綱をどこかに結ぶこともせずに、玄関の方へと足を向けた。
「え、あの、ただの挨拶ですけど、一応人を通した方が…」
開いたままの玄関をくぐり、草履もぽいと脱ぎ捨てて上がっていく青年に向けて、汎諳は言った。
しかし、青年はどこ吹く風とばかりにずかずかと進んでいく。
「別にいいんじゃねえか?今はまだ忙しくなってないはずだし」
目線で上がるようにと示され、汎諳はそれで良いのかどうかと心中で首を傾げつつも、青年に続いて玄関をくぐった。
青年はさらに、そこそこ広い館の廊下を、迷いなく進んでいった。
そして、ある部屋の襖を無造作に引き開けて、中へ入りながら言った。
「おーい、親父」
「ん?」
部屋には特に装飾はなく、巻物や本が積まれている。
どうやら仕事部屋らしい。
部屋の真ん中付近で、男性が二人、机に置いた書物を前に座っていた。
「客人だ」
そう言いながら、青年は少し身体を避け、入るよう促した。
汎諳は、目の前の青年をまじまじと見ていた。
どうやら予想は当たっていたようだ。
良く見れば、目元に面影がある。
汎諳は二度ほど大きく瞬きをし、にこりと微笑んだ。
「…縁、ね」
「へ?」
青年が聞き返したのには答えず、汎諳は部屋の中へ入っていった。
そして、中にいた二人のうち、年配の男性の前へと進み、丁寧に膝を着いて、頭を深く下げた。
「水里の里長さま、お初にお目にかかります。わたくしは、この度蒼水川源一の村・水里に派遣されて参りました、『一の位・ホの段』にある術師でございます」
里長は、汎諳が頭を下げたのを見、二人の息子たちに軽く目を向けてから、改めて汎諳に向き合うように身体を動かした。
「よくおいでくださいました。さ、面をお上げください」
そう言い、汎諳と顔を合わせるや、互いに噴き出した。
里長の息子二人が、何がどうなっているのか分からず首を傾げるのをよそに、汎諳と領主は声を立てて笑っていた。
ひとしきり笑い、収まったところで、改めて汎諳は領主にくったくのない笑顔を向けた。
「お久しぶりです、里長さま」
領主も、汎諳に砕けた笑顔を見せた。
「ああ、久しぶりだね。いやぁ、随分美人になって」
「そう言っていただけるなんて、ありがとうございます」
「そう他人行儀にならずに、以前のようにおじさまと呼んでくれてかまわないよ」
「いえいえ、さすがに子どもではありませんから」
なにやら親しげに会話をする二人を、まだ理解できずにいる領主の息子たちに、汎諳は少し咎めるような口調で言った。
「お二人とも、随分薄情ね。そろそろ思い出してよ。優兄、秀ちゃん。あたしよ、汎諳よ」
「え…は、汎諳ちゃん??」
「ええぇぇ?!本物か?全然気付かなかった!」
二人はそれぞれ驚きの声を上げた。
兄の優一郎は、相変わらずかっちりとした、まっすぐな気を放っている。
両親からの手紙で、三年前に結婚し、今は奥方が身ごもっていると聞いている。
そして、先ほど馬で半分強引にここまで連れて来てくれた青年、秀二郎も、成長したためか少し変化はあるものの、覚えのあ優しい気を纏っていた。
優一郎は汎諳の二つ上、秀二郎は一つ下である。
汎諳の余裕のある笑顔を見て、秀二郎は不服そうに、汎諳が気付いていたのに自分は全く気付かなかった、どうして言ってくれなかったのかと汎諳に問うた。
確かに、汎諳は秀二郎と会ったときから、きっと彼が秀二郎だと思ってはいた。
けれども、十年の間に成長したためか、すぐには分からなかったし、ちゃんと分かったのはついさっきのことなのだから、お互い様よ、と笑った。
その場は、とにかく挨拶をしただけで館を後にした。
両親と供に正式に術師の交代の儀式の取り決めなどをするため、次に訪れる日だけを取り決めた。
多少暗くなりかけてはいたものの、慣れ親しんだ道だから一人で帰れると思ったが、秀二郎が送って行くという提案は、笑顔で受けた。
優一郎ともよく一緒に遊んだのだが、秀二郎との方が親しかった。
優一郎は、やはり里長の跡継ぎということがどこかに付いて回っていたのだろう、遊ぶよりは学ぶことを選んでいた。
対して秀二郎は、そんな兄を尊敬してはいたが、本人は天真爛漫に遊びまわり、しょっちゅう怪我をしたり泥だらけになって帰ったりと、子どもらしい子どもだった。
帰る道々、最近の水里周辺で起こったできごとや、優一郎の妻となった秀二郎の義姉がどういう人なのかなど、近況を聞いた。
大人になったことで、関係がぎくしゃくしないかと心配していたが、全くの杞憂だった。
家に着くまでの道のりがあっという間に感じるほど、二人は近況を楽しく報告しあった。
そのまま家の前でしばらく立ち話をしていて、汎諳の両親が出てきてやっと話を切ったほどだった。
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