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第一話 水里へ

これから向かう場所は、きっと幼い日の記憶そのままに、水と森に囲まれているだろう。

今は秋口。

あの豊かな土壌と水、そして山と森に囲まれた村は、これから始まる収穫のため、かごを編んだり道具を手入れしたりと、どこかいそいそとしているはずだ。

汎諳はなんは、ごくありふれた町娘の旅姿で、荷物を背負って山道を歩いていた。

少しずつ見慣れた空気になってゆく風景を眺めながら、師匠との会話を思い出した。



「え?私がですか?」

汎諳は、一瞬聞き間違えたのかと思ったが、師匠は汎諳が驚いたことを不思議に思っている風だった。

十年もここにいれば、術師じゅつしという者たちが持つ感覚・思考というものが、術師ではない常人つねびとと大きく異なっているという事実は分かっていたつもりだった。

だが、今回の話に関しては意味が違った。

「師匠、確かに私は多少なりとも知っている地に行きたいとは言いましたが、すぐにでも生まれた里に帰りたいとは一言も言っていません」

師匠に付いて修行を積む中で、さまざまな土地を巡ってきた。

その土地それぞれに何らかの癖があり、術師はそれらを理解し、健やかな状態へと術を使って導くのだ。

だから、一度行ったことのある土地の方が、術も受け入れてもらいやすい。

汎諳は、さまざまな土地を巡った中で短期間だけ任務に当たった、大きな町などで修行してみたいと思っていた。

術師としてそれなりに力を持っているため、もっと経験を積みたいと考えていたのだ。

ただ単に自分の力がどこまで通じるかを試してみたいという気持ちもある。


術院は、教育機関と研究機関・術師の管理を兼ねた組織で、この国唯一の術師を育てる場所でもある。

汎諳も、十歳で術院に入ってから六年基礎を学び、あとの四年は師匠について実践的に学んできた。

一人前として銘を受けたのは、故郷への派遣が決定する直前だった。


汎諳が一人前の術師となるにあたり、一応は選択肢が二つあった。

師匠のように都の術院に残って術師そのものの研究・教育を行う『留術師るじゅつし』と、都以外の町や村に派遣されて土地と人々を繋ぎ守る『流術師りゅうじゅつし』である。

留術師は、主に術院を拠点として研究と教育を行っている。

弟子の教育のため、または次の流術師が決まるまでの繋ぎとして、短期間術院を離れて町や村へ赴くことがある。

流術師は、文字通り流れ渡る術師のことで、町や村を定期的に異動しながら術を施し、それらの土地と人々を守ってゆく。

もちろん、気の向くままに異動するのではなく、術院の管理の下で、経験や能力、出身地などが考慮される。

婚姻すると、ほとんどの場合、術師は一生を伴侶のいる町や村で過ごすことが許される。

大きな町などは、術師が一人では手が回らないので、複数人の術師が協力してその土地と人々を守る。


汎諳の両親は、二人とも術師だ。

両親は同じ町に派遣されて知り合い、術師同士で婚姻を結んだ。

その後、父の故郷で汎諳の生まれた村へ移ってからは、ずっとその村で術師として生活していた。


故郷とも言えるその村は、紙面上は『丑寅うしとら蒼水川そうみがわ みなもと一の村』と呼ばれている。

だが、村人たちや近隣の住民たちは、『水里みずさと』と呼んでいる。

山に囲まれた北の土地という厳しい環境であるにも関わらず、村は名の通り豊かな水と土壌に恵まれていた。

どういう訳か、蒼水川の川沿いには、水里以外の村や町は存在していない。

水里以外の開けた土地では、雪解け、春の長雨、夏の豪雨、秋の大雨と季節ごとにそこここで氾濫するため、人が住むには適さないのだ。

結果、短期的に作ることのできる作物の畑や、一時的な牧場としてのみ利用されているらしい。

もっと不思議なことに、水里の術師は水里で産まれた者が代々引き継ぐことになっている。

任務に就いている術師がいるうちに、村に術師となるに相応しい力の持ち主が産まれるのである。

それは血筋とは関係なく、とにかく水里の者に限られる。

里長の元に残っている資料によれば、少なくとも百五十年前からずっと、外からの術師は入ってきていなかった。


汎諳の父は、水里の一農民の次男として生まれた。

術師になってすぐ、大きな町へ派遣され、母と出会ったらしい。

本来なら、水里は一人の術師で充分対応できる集落なのだが、夫婦ということで二人とも水里の術師となった。

汎諳が次の術師に産まれたときには、村中が驚きに満ちたと聞いている。

術師の子が次の術師の才を受けるのは、汎諳が初めてだったそうだ。


里の事情もあり、汎諳には術院に残るという選択肢が存在しなかった。

そのため、せめて水里以外の土地で修行を積んでから故郷に帰りたいと思っていたのだ。

しかし、決まってしまったものは仕方がない。

師匠の話によると、両親は母の故郷に移って、引退した術師として、赴任してきた術師を手伝いながら隠居生活をしたいのだそうだ。

術師であるために水里を長く離れることはできず、母の故郷にはほとんど里帰りをしなかったし、父方の祖父母は既に亡くなっていた。

母方の祖父母は健在である。

汎諳が望めば、二年や三年はほかの土地に行けるだろうが、両親の気持ちと事情を知っているだけに、汎諳は再度希望を出して赴任先を変更することはしなかった。

自分の力を試したいと思ったのは本当だ。

水里は周りの土地の神々に好かれているらしく、特に術師として難しい局面に立たされるようなことはほとんどないと父が言っていた。

ほんの少し残念に思ったが、あのゆったりと時間が過ぎる村には必ず帰るはずだったのだし、術師のもう一つの仕事、医術師・薬師としては忙しい日々を送ることになるだろう。

学ぶことはどこにいてもできるのだから、と汎諳は自分を納得させていた。



朝から歩き通して、そろそろ日が傾き始めた。

自分の記憶が正しければ、日が落ちるまでに水里に辿り着けるはずなのだが、未だ懐かしい空気は遠い。

少し考えに耽りながら歩いたため、気付かないままに歩調がゆっくりになっていたらしい。

野宿は怖いわけではなかったが、ゆっくり眠れるとは言えないので、できれば今日中に水里に着いてしまいたかった。

荷物を軽くゆすって背負い直し、汎諳は足を速めた。

それから四半刻(一刻は約二時間)もしないうちに、後ろから何かが近づいて来た。

足音が聞こえたというのではなく、気配を感じ取ったのだ。

どんな動植物でも、大小の違いはあれど、術力じゅつりょくを持っている。

術師は、ある一定以上の力を持ち、使い方を学んでそれを使いこなせるというだけだ。

近づく速さからして、馬か何かに乗っているらしい人らしい。

汎諳の予想通りに、しばらくして馬の蹄の音が聞こえてきた。

軽快なその音は、乗っている者に対する信頼を感じさせる。

この道は、少し先で三つの村へと続く道に分かれている。

汎諳は、あまり広いとは言えない道の横に避けて、馬が通り過ぎやすいようゆっくりと歩を進めた。

馬が近づくにつれて、汎諳は微妙な違和感を感じた。

それが何なのか分からないうちに、馬はすぐ傍までやってきた。

そして、汎諳の横で足を止めた。

前しか見ていなかった汎諳は、そこで初めて馬とその上に乗る人に目を向けた。

見上げれば、汎諳と同じ年ごろだろうか、日に焼けた肌と、どこか子どものような目を持った、生き生きとした雰囲気をまとった青年がいた。

何かの違和感はあったものの、目の前にいるのはいたって普通の青年だった。

目が合ったとき、青年の目の奥を何かの感情が通り過ぎたが、それは一瞬のことで、どういう感情だったのかは分からなかった。

「旅の人?」

少し低い、涼やかな声が汎諳に向けられた。

良く見ると、顔は整っているとは言いがたいが、心根が表に出ているようで、少しばかり未熟ではあるものの、強くて優しい人となりが伺える。

汎諳に声をかけたのも、興味というよりは、今時分に一人で歩いている女性を放ってはおけなかった風だった。

「ええ、水里へ行くんです」

微かに、山や森から懐かしさを含んだ風を感じていたので、日が落ちきってしまう前には里に着くだろう。

この先の分かれ道を北へ向かえば、あとは一本道なので迷う心配も無い。

汎諳は大丈夫だと言うように、青年へ笑顔を向けて答えた。

しかし、青年は汎諳の言葉に対して、楽しそうに言った。

「水里?なら、俺の家があるし、乗ってくと良いよ」

当たり前のように手を差し伸べてくる青年に、思わず手を伸ばしてしまった。

歩いても日のあるうちに辿り着けると思う、と言ってみたが、彼は汎諳を自分の前に落ちないように乗せ、安心させるように言った。

「早いに越したことはないだろ?それに大丈夫だって。俺、馬の扱いには慣れてるから」

「はぁ…。ありがとうございます」

「ついでだから気にすんなって」

まぁいいか、と汎諳は成り行きにまかせることにした。

何かあったとしても、常人は術師には敵わない。

なにより、とても人の良さそうな笑顔を見て、毒気を抜かれてしまった。

そういえば、術院は常にどこかしら緊張感があり、こんな風におおらかな人はいなかった。

良い意味で切磋琢磨できたが、休む場所がなかったように思える。

水里では時間がゆったりと流れていたので、初めて術院に足を踏み入れたとき、その空気にのまれそうになったのだった。

ふとそのことを思い出し、汎諳は頬を緩めた。


分かれ道を北へ入り、馬は蹄を鳴らしていた。

青年は、道中汎諳へ声をかけることはしなかった。

両親である水里の術師は、この近辺では右に出る者がいないと言われるほど、非常に優秀な術師たちとして有名なのだ。

そのため、ほかの村から水里を訪れる者も多い。

わざわざほかの村の術師を訪ねて助けを請うということは、余程に大変な状況にあるのは想像に難くない。

きっとそれを知っていて、何も聞こうとしないのだろうと思った。

実のところこの青年が誰なのか、少しばかり心当たりがあった。

しかし、それを聞いてみようとはしなかった。

楽しそうなので、黙っていることにしたのだ。

青年が根掘り葉掘り質問を浴びせないのをいいことに、汎諳は、その悪戯が成功したら、青年がどんな反応をするだろうかと考えていた。

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