第七話 フィリスの秘密(後)
「これを見てくれ、カズマ――」
そういうと、フィリスは、椅子のバックルを解放した。両腕にほんのすこし力をこめると、その小さな身体は、ゆっくりと浮きあがっていく。
僕は、一瞬、呆けたように彼女の姿に見とれてしまう。
地球光につつまれ、青い影をのこしながら上昇していく彼女の姿は、まるで天にかえっていく天使のようだった。
だが、すぐに気づく。このまま彼女が上昇すれば、こちら側と対称に設置された天井部の椅子に衝突してしまうことに――。うまく、手すりにつかまれればいいのだが、フィリスが、どこまで無重力下での運動法則を理解しているかわからない。
彼女の手助けをするべく、僕は、自分のバックルに手をかけ、解放しようと――。
「……そんな」
バックルにかけた手が硬直する。
僕は、ふいに空中に静止したフィリスの姿を凝視する。
そう、彼女は、そこに静止していた。
理由はすぐにわかった。
フィリスの背中、腰のすこし上あたりに、太いケーブルが接続されている。光ケーブルの集合体のようだ。そのケーブルは、椅子のわきをとおって、床面のコネクタに接続されている。
彼女は、そのケーブルによって、まるで糸のついた風船のように、空中にとどまっているのだ。
そして、いま気がついたのだが、床面には、レールのような溝が縦横にはしっている。ケーブルのコネクタは、このレールにそって、移動できるようになっているようだ。
「こ、これって……?」
「チームのみんなは、ヘソの緒とよんでいる」
「ヘソの緒?」
「わたしは、自分の力だけでは生きることができない……。だから、これが、ヘソの緒なんだ」
「えっ?」
僕は、まじまじとフィリスを見つめる。
青い光の中にうかびあがる彼女の顔には、すこしこまったような、あるいは、はにかんでいるような微笑みがうかんでいる。
とても、冗談をいっているようには見えない。
「それって、いったいどういう……?」
「ふむ、手をかしてくれないか、カズマ」
フィリスは、空中で僕にむかって掌をさしだす。
僕は、バックルをはずし手すりをつかむと、椅子の上にたちあがった。右手をさしのべると、彼女の手をとり、一緒に椅子へと引き下ろす。
僕とフィリスは、椅子に座りきちんとバックルをとめる。
「わたしの身体は――」
彼女は、僕のほうをむくと、しずかに語りだす。
「……かんたんにいうと、わたしの身体は、普通の状態では、きちんと機能しない」
「えっ?」
「カズマは、さっきわたしの手をとってくれた。その時、わたしまでの距離を計って腕の加速と減速をどう制御しようとか、どれぐらいの力をいれて手をにぎるか計算したか? 意識して血流量をコントロールしたり、目の焦点をあわせたり、呼吸を調整したり?」
「いや、そんなことは……」
「そう、普通はしない。そんなことは、みんな意識しない。自然にできることだから。でも、わたしにはできない。まったく、ぜんぜん、これっぽっちも」
「できないって……?」
「こういう風に考えてほしい。わたしの意識、無意識領域と肉体とは、たがいに別々の言語で動いていると。だから、そのままでは、情報をやりとりすることができない。だとすれば、両者の間に翻訳をするものが必要になる。その翻訳者が、このケーブルの先にいる」
フィリスは、背中に手をまわすと、腰の上からのびている光ケーブルにさわる。
「このケーブルは、ニュートン04のコア・ブレインと接続されている。人ひとりの生命をコントロールするには、あれぐらいのコンピュータが必要なんだ」
「それは、その……、君は、生まれたときからずっと……?」
「生まれたとき? ……あ、う、うん、そうだ……」
フィリスは、かすかに目をふせる。
「わたしが意識を持ってからは、ずっとこういうひも付き状態だ。だから、研究室に閉じこめられていたのではなく、出ることができなかった。しかし、つい最近、この宙港ロビーまで、ケーブルのコネクタを延長する工事をしてもらった」
彼女は、視線を展望窓へとむけた。青いかがやきに照らされたその面には、とても子供とは思えないおだやかな表情がうかんでいる。
「秘密の工事は、ずいぶんと大変だったようだ。しかし、ここには、どうしても来てみたかったので博士にお願いして無理をきいてもらった。そのおかげで、こんなにもうつくしい水の星を見ることができて、うれしく思っている。それに、カズマにも会えたし、な……」
「あ、う、うん」
そういわれても、とっさになんて答えていいのかわからない。大体、僕は、他人とこんな風に長々と語りあった経験なんてほとんどない。
「……そ、そんなに地球を見たかったわけ?」
僕は、そんなどうでもいいような返事しかできなかった。けれど、彼女は、真剣な瞳でこくりとうなずく。
「わたしが、わたしでいる理由が、あのうつくしい水の星にはある……。そして、守るべきものの価値を、もう一度この眼で確かめたかった……」
「…………」
フィリスの瑠璃色の瞳がまっすぐに僕を見つめる。それは、僕が心うばわれいつも見つめている母の星、地球のかがやきにも似ていた。
けれど、僕は、その視線を受けとめることができずに、下をむいてしまう。
十歳とはいえ、こんなにきれいな女の子にじっと見られるという経験がまったくなかったのと、いまきいたばかりのフィリスの境遇に、正直な話、圧倒されてしまっていたのだ。
そう、たとえどんなにタフであろうと務めていても、筋肉の鎧で身体をおおっていたとしても、そして、他人に心をのぞかれないようにぶ厚い自意識の壁を築く術を身につけていたとしても、僕もまた、世間知らずで臆病なただの十五歳の少年にすぎなかったのだ――。
だから、僕は、彼女がなにをいおうとしているのか、まったく理解していなかった。いや、理解しようという気持ちすら持たなかった。まるで遺言であるかのような、彼女の言葉の意味を――。
そのことを、後々、僕はとても後悔することになる。
だが、いまの僕に、そのことがわかるはずもなかった。
宙港ロビーは、静寂につつまれている。
気まずい沈黙の時がつづく。
それを破ったのは、僕のポケットの中で振動をはじめたIDパスの音だった。僕の移行時間が、終わろうとしている。
「もう、いかなきゃ――」
僕は、固定ベルトのバックルをはずす。
「ああ、その……身体、気をつけて」
フィリスは、椅子に座ったまま、そう声をかけてくれた。それに対して、僕は適当にうなずくと、宙を飛んでエアロックにむかう。
「なあ、カズマ。あしたは、ファウンデーションボールのコツを伝授しよう。こうみえてもわたしは――」
フィリスの声を背中でききながら、僕の身体は、エアロックへと飛びこむ。内側の扉が閉まり、もう彼女の声はきこえない。
――そして、それに気がついたのは、帰路のエレベータの中だっった。
ファウンデーションボール? この怪我が、試合でおったものだということを、彼女に話しただろうか?
僕は、とても混乱していた。
なにを一番に考えればいいのか、それもわからないほどに――。
正確にいうと、ケーブルがピンとはった後、フィリスの身体は引き戻されて、もと座っていた椅子にぶつかると思います。なんらかの制御をしていない限り……。それを見逃しているカズマくんは、自分が思っている以上にものすごく動揺しています。