第六話 フィリスの秘密(前)
「ふむ、ふむ」
僕は、少女のまったく遠慮のない真っ直ぐな視線から顔をそむける。
やっぱり、今日はくるんじゃなかった……。
傷ついた身体に通常重力はきつい。だから、無重力の宙港ロビーにやってきたんだ。
それだけのためにやってきたのに……。
「いったい、それはなんなのだろう? すごいことになっているようだが――」
フィリスは、椅子から身を乗りだして、僕の顔を見つめる。瑠璃色の瞳が、きらりきらりと光っている。まるで、めずらしいおもちゃを見つけた仔ネコの瞳のようだ。
「べつにどうってことないよ」
僕は、大げさに肩をすくめると、少々乱暴に、彼女のとなりへ腰かける。
「べつに、どうってこと、ない?」
フィリスは、僕が発した言葉を、一語一語たしかめるように正確な発音でくりかえす。
「――ということは、つまり、カズマにとっては、鼻にはってある大きなテープや目の上のひどい青あざは、どうってことないと? 脇腹をギブスで固定しているみたいだが、それもどうってことない?」
「……どうしてわかるんだよ」
「サーモグラフィーの……、あっ、いや、その……、カズマの動きを見ていればわかる。無意識に身体をかばう動きをしているからな」
「大した観察眼だ。ホームズの弟子になれるよ」
「ありがとう。でも、ホームズってなに?」
「それは、つまり、むかしイギリスで活躍していた探偵で……、あれ、ホームズって実在の人物だったっけ?」
「ふむ……」
フィリスは、ちょっと小首をかしげる。
「フルネームは、シャーロック・ホームズ。イギリスの作家、コナン・ドイルが一八八七年、「緋色の研究」で登場させた私立探偵。語り手のワトソン医師とともに、するどい観察眼とすばらしい推理力によって、数々の難事件を解決する。五つの短編集と四つの長編が――」
「ああ、わかった。わかった。知っているんなら、僕にきくことないだろう」
やっぱりわけがわからない女の子だ。
やはり、ここにくるべきじゃかった。
きのう、つまり、試合当日の移行時間は、さすがにベッドに沈没していた。一日たって、身体の調子も悪くないので、気晴らしに地球の姿を一目見ようと上がってきたのだ。
無重量状態のほうが、傷の治りははやくなるから!
だが、いつものように宙港ロビーには先客がいた。
フィリスは、すっかりこの部屋の主のような感じで、リラックスして椅子に座っていた。そして、僕の顔を見るなり、目を丸くして質問を開始したというわけだ。
「キミは、毎日、ここへ地球を見に来ているわけ?」
「そう、きのうも来た。カズマは、こなかったな」
「こう見えて、いろいろといそがしいんだ」
「目の上にあざをつくったりとか?」
「……いろいろだよ」
僕は、かるくため息をつく。
すこし前まで、ここは、僕だけの場所だった。
たとえどんなことがあろうとも、ここにひとり座って、あの青き星のかがやきにつつまれていれば、いつしか僕の心は解放されていった。
だが、あの静寂を取りもどすために、こんな子供と言い争うのも大人げない。僕のほうにも、偽造IDで侵入しているという弱みもあることだし……。
「そんなに毎日、地球を見ていてよくあきないな」
「あきる? どうして?」
フィリスは、不思議そうに僕を見つめる。
「あきるなんてこと、あるはずない。見るがいい、あの青き星の表情を――」
彼女は、展望窓一面にひろがる地球を指さす。
青い海の上を、白い雲が複雑な文様を描きつつ、ゆっくりと移動していく。砂漠を流れる大河は、チグリス、ユーフラテス河だろうか?
河口には、広大なデルタ地帯がひろがっている。
陽の光、風、海流によって、目の前の風景は、一時もおなじ姿をたもつことなく、変化していく。
たしかに、フィリスのいうとおりだった。
これを見あきるなんてことが、あるはずはない。
僕だって、何年もの間、ずっとひとりで地球の息吹を感じ、そのうつろう風景をながめてきたのだから――。
「カズマならわかるだろう?」
フィリスの言葉に、僕は、不承不承うなずく。
「でも、そんなに地球を見るのが好きなら、なぜもっとはやくここにこなかったんだ? 白状すると、僕は、ずっとむかしから、この宙港ロビーにもぐりこんでいた。なんといっても、ニュートン04で一番地球の眺めがいいのはここだからね。でも、キミに会ったのは、ついこの間だ。キミは、べつの軌道都市に住んでたのか?」
「いや……」
フィリスは、小さくかぶりをふる。
「わたしは、もうずっとここにいる。でも、出歩くことができなくて、ずっと研究所にいた……」
「研究所?」
そういわれて思いだした。彼女は、ただの子供ではない。オムニメンバーの一員なのだ。
オムニメンバー、それは、僕の父も所属しているある重要な科学実験チームのコードネームだ。科学実験が専門の軌道都市群の中でも、もっともセキュリティレベルが高く、僕もその内容を知らない。
「じゃあ、キミは研究所で生活しているのか? いつから?」
「ふむ……、かれこれ六年とすこしかな」
ということは、彼女は、四歳ぐらいから研究所で働いていたことになる。たしかに、そういう早熟な天才児がいることは、僕も知っている。だから、学校で彼女を見かけなかったのか。
「でも、六年もいるんだったら、ちょっと出歩くぐらい……」
話ながら僕は、なにかにたえるようにわずかにうつむきながら、哀しげな微笑みをうかべているフィリスに気づく。
「まさか、まったく自由がなかったとか!?」
「たぶん、一般的な意味での自由は、わたしにはあたえられていない。でも、それはしかたがないことだから……」
「しかたがないなんてことあるか! いくら天才だからって、キミみたいな子供を閉じこめて研究だけさせておくなんて!」
「そうではない。落ちついてくれ、カズマ」
フィリスは、やさしく微笑むと、となりに座る僕の手に自分の手をかさねる。あたたかくやわらかい手だ。こういう仕草は、とても十歳の子供とは思えない。
「つまり、その、わたしは、研究所から出られなかったのではない。出ることができなかったんだ」
「出ることができなかった?」
「そう、わたしは……」
ほんのすこしためらうようなそぶりをみせた後、彼女は、瑠璃色の瞳で僕をまっすぐに見つめる。
「これを見てくれ、カズマ――」