第二話 出会い
その時……!
「……こんにちは」
その瞬間、僕にはなにが起きたのかまったく理解できなかった!
突然のことに、心臓が爆発しそうな勢いで鼓動し、両手両足でばたばたと宙をかく。けれど、慣性の法則にしたがってただよっていた僕は、空中でぶざまな醜態をさらすことしかできない。
「こんにちは……こんばんは?」
もう一度投げかけられた言葉に、脳が、ようやくそれが僕へのあいさつだと認識し、白日夢から現実に立ち帰る。けれど、時すでにおそく、僕の身体は頭から展望窓に衝突する。
がらんとしたロビーに、頭と鼻っ柱を打ちつけるにぶい音がひびく。まるでむかし見たアニメの効果音みたいな音だ。
鼻の奥のツンとする痛みにたえつつ、僕は、とっさに窓を両手で押し、はね返る身体の軌道を変える。
足が床にふれ、靴のベルクロが無重量用カーペットをとらえる。
僕は、ようやく床面(天井かもしれないけれど……)に降り立ち、声がした方へとふり向く。
涙ににじんだ視界にうつるのは、だれも座っていない椅子の群れ……。いや、それと最前列に座って僕を見つめかえしている先客ひとり。
僕は、思わず目を瞬いた。
小さな……女の子?
背筋をピンとのばし大きな椅子に埋もれるように腰かけた少女が、薄闇の中、大きな窓からさしこむ地球光に青く透きとおるかのようにうかびあがっている。
彼女は、突然のことにあっけにとられて思考停止した僕を、じっと観察するように見つめている。
光の加減なのか、青から緑へと一刻も休むことなく複雑に変化する瑠璃色のふたつの瞳が、とても印象的な少女だ。
それにしても、きれいな子だった。
彼女がじつは、芸術家が精魂こめてつくった磁器の人形に魂が吹きこまれた存在だ、といわれても僕は信じたかもしれない。無重量用の整髪スプレーで固めたかすかにハチミツ色がまじった少女の銀の髪。その光沢が、手にしたときに指にしっとりと冷たくまとわりつく上質な白磁の器を思いおこさせ、そんな風に想像させる。
彼女は、じっと僕を見つめている。
……いや、そうじゃない。
彼女は、僕の背後にひろがる地球を見つめている。
やるせない想いにゆれつつも喜びをおさえきれない瞳で――。
僕は、こんな風に宇宙にうかぶ青い星を見つめる人を知らない。このニュートン04で、彼女のような眼をした人に会ったことがない。
ここでは、僕以外は、だれもあの星をまともに見ようとはしないのだと思っていた。
この女の子は、どうしてあんな眼で地球を見つめるのだろう?
彼女の両膝の上でかたくにぎりしめられた両拳ときつくむすばれた口許が、完全に静謐な青い光に満ちた空間の中で、少女の周囲にだけただよう硬質な緊張感をつくりだしている。
それでいて、全体としては、いまにもあわい光の中に消えていきそうな不確かな存在のようにも感じられる。
なんとも不思議な少女だ。
僕は、椅子に座った両足が床につかないぐらいの幼い子を前にして、圧倒されてしまっている自分に気づく。
「え、えっと……」
ようやく思考能力がもどってきた僕は、言うべき言葉をさがす。
まったく無防備な状態に不意をつかれたので動転したけれど、よく考えれば、いくらきれいだ、神秘的だといっても、相手は五、六歳も年下の女の子だ。いつまでも呆けているわけにはいかない。
だいたい、彼女はどこの人間なのだろう?
見たところ、年は十歳ぐらいだ。初等教育課程の第三か第四ステップ? でも、そんな子が、どうしてひとりでこんなところへ?
少女は、見たこともない学校の制服?を着ている。青と白を基調にした簡易宇宙服にもなるトレーニングスーツに、軌道防衛軍の制服に似たジャケット、ブーツ。僕は、こんな服、見たこともない。
広いとはいえ、ニュートン04は、完全な閉鎖社会だ。就学年齢の僕たちが通っている文京地区のほかに学校なんかない。
それに、子供とはいえ、これだけきれいな子がいたら、みんなの間で話題にでるだろう。
それなら、ほかの軌道都市群からやってきた子なのだろうか? いや、まさかね……。
「ふむ? 女の子の顔を無遠慮にじろじろ見るのは、かなりのマナー違反だと認識しているのだが?」
少女のか細く優美な眉の片方が、二ミリほど持ちあがり、緑がかった瑠璃の瞳が、とがめるような光をはなつ。
「さっきの『こんにちは』への返事ももらっていない……。人と会ったら、きちんとあいさつ。それが基本……ではないのだろうか?」
「あいさつ?」
そういえば、満たされた気持ちで宙を飛んでいるときに、突然声をかけられて動転してしまったのだった。
「いやはや、しかし、いきなりわたしの頭の上を飛んでいくなんて……、率直にいって、すごくおどろいた」
それはこっちのセリフだ。無人だと思っていたのに不意に声をかけられて、心臓が口から飛びでるほど驚いてしまった。
「でも、キミも心臓が口から飛びでるほど驚いた、という顔していたから、おあいこでいい。それでは、あらためてあいさつしよう。そちらからどうぞ」
少女は、口許にかすかな笑みをうかべ、僕を見つめる。
そうして笑顔をうかべている少女は、かわいらしいクリスタルの人形のように見える。しかし、子ネコが鳴くような声質でありながら、このカチンとくる言葉づかいや態度はいったい?
それに、こいつ読心術でも使えるわけか? 普段、接点がないからよく知らないが、最近の子供たちは、こういう小生意気な話し方を普通にするのだろうか?
「あいさつを待っているのだが? どうして、そんなに眉間にしわをよせているのかな?」
「よせたくて、よせてるわけじゃない。ったく、だれのせいだと思って――」
「では、、わたしからもう一度だ。こんにちわ」
少女は、ぺこりと頭をさげる。
「あっ、いや……その……」
文句のひとつもいいたい気分だったが、なんだかあっさりとかわされてしまった。
よく考えれば、こんな子供相手にびっくりしたり、いらついたりといったざわついた感情をもつなんて、僕らしくない。本当にどうかしている。
「こんにちわ」
僕は、かるく肩をすくめながらあいさつを返す。
少女は、口許に微笑をうかべたまま、小さくうなずく。
「ふむ、これでお互いにコミュニケーションがとれるということが確認できたわけだ。では、そこ、どいてくれるかな?」
「え?」
「キミの身体が邪魔で、水の星が見られない。だから、そこをどいて欲しい。あっ、わたしひとりにしてくれるのなら、それが一番うれしいな。最初にここにいたのはわたしだから――」
「ちょっ、ちょっと待てよ」
「この場所の優先権は、わたしにあると思う。そうではないかな?」
少女は、顎をあげ、すました顔をしてそういった。
「優先もなにも、ここは公共の場じゃないか。だれが入ってもいいところだ」
「それは、すこし嘘がまじってる」
「な、なにが?」
「なぜならば、いま港は閉鎖されているから。この宙港ロビーも立ち入り禁止のはずだ。」
「そ、それは……」
僕は、少女を睨み付けながら、彼女との間に席をふたつあけて、椅子に身体をもぐりこませる。自分がここを離れないという意志を行動で示すのだ。
「僕はいいんだ。特別なパスを持っていて、ここに入る権利がある。そっちこそ、子供が遊び場にしていいところじゃないんだぞ」
普段使っていないので、固定用のバックルがとめにくい。ようやく身体を固定し顔をあげると、真正面、展望窓一面に青くかがやく地球の姿がひろがっている。
「キミもパスを!? では、わたしとおなじなのだね。そうか、おなじなんだ……」
少女は、宙にういた足先をぷらぷらとゆらしながら、小首をかしげて僕を見つめる。
「では、キミもあの水の星に魅せられているのだね。やはりそういう人がいたんだ……。よかった」
彼女は、僕を見つめながら笑顔をうかべる。
ツンドラの大地をとかす春の陽射しというのはこういうものかと想像させるような、おだやかであたたかな笑みだ。
けれど、その瑠璃色の瞳にゆらぐ光は、なぜか哀しみの色をおびている。
僕は、急に椅子の座り心地が気になり、固定された身体をもぞもぞと動かす。それは、生意気な子供だと思っていた彼女が、なんだか大人びて見えたせいかもしれない。
「生命は、水から生まれいでるもの……。そう、生命のかがやきに魅せられないものなんていない。果てしなく広がる空虚な闇のなかに青くうかぶ水の星。それは、無数の生命と可能性の揺りかごなのだから……」
「生命と可能性の揺りかご……?」
彼女のいうことは、なんとなくわかる気がする。
漆黒の宇宙に孤独にかがやくうつくしい青い星。月面でもここでも、それを見つめるとき僕の心にうかぶ安心感は、そこが生命あふれるオアシスだからということもあるだろう。
空気も水も、生きていくためのすべてが人の手によって管理される必要のある僕たちの世界とくらべて、地球は、まさに生命の揺りかごだ。
そして、僕たちは、揺りかごにもどる術をもたない、中途半端な大人なのかもしれない。 それでも僕は、信じる。
いや、信じたい。
もう一度、揺りかごにゆられ、母の歌う子守歌をききながらまどろむ日々がくることを――。
いつか、きっと……。
その時こそ、僕は……。
いつの間にか自分の思いにとらわれていた僕は、ポケットの中で振動するIDパスで我にかえる。
気がつけば、ここにやってきて1時間がすぎようとしている。移行時間が終了し、休養時間のはじまりだ。すぐに自宅に戻らなければならない。
僕は、横目でそっと少女の様子をうかがう。
彼女は、さっきと変わらずに青い光につつまれながら、大きめの椅子でピンと背筋をのばし、顎をあげ、瞬きもせずにじっと窓の向こうのひろがる地球の姿を見つめている。
彼女の魂は、いま、この場所にはない。
彼女は、いまあそこにいる。
あの豊穣な生命あふれる大海を自由に泳ぎまわっている。
二度と戻ることの許されない場所であったとしても、心が赴くことを妨げることなどできはしない。
そのことを、僕はよく知っている。
だれもいない宙港ロビーであきもせずに地球を見つめていた僕の顔にも、きっとこの少女のような表情がうかんでいたにちがいないのだから――。
僕は、音をたてないように気をつけながら、椅子のバックルを解放する。かるく椅子を蹴って、その反動で宙をとびながらエアロックをぬけでる。
ロビーをでるとき、僕は、背後をふりかえった。どこからか歌が聴こえてきたような気がしたからだ。
それは、広大な青い海を泳ぐ巨獣たちの歌に似ていた。
だが、それは一刻のまぼろしにすぎない。
帰路、エレベータで居住区に向かっているときも、僕は、あの不思議な少女のことが気にかかっていた。
そこで、はっと気づく。
そう、僕は、彼女の名前を訊かなかった。
自分の名前も伝えていない。
僕の中で、彼女の存在は、さっき聴こえたような気がしたクジラたちの歌声のように、あやふやなものになっていく。
彼女は、本当に実在する存在だったのだろうか。
それとも――。