第二十八章
「今の私は、死体を使った人形のような物。多分、あなたが油断すると思って、記憶や感情は全て、そのままにしていたのね。このまま理性を保ち続けるのは、せいぜいあと十数分だから。お願い、最後に、あなたを抱きしめさせて?」
たった六年。それでも、過ごした時間は濃く、母さんの温もりは鮮明に記憶していた。気付けば頬は濡れていて、頭には懐かしい感じがする温かさがある。数時間とはいえ、こうしてまた、親の笑顔と肌に触れられた事。それが、何よりも嬉しかった。
「大丈夫、もう間違えない。だって俺は、俺にとって英雄の間に生まれた、もう一人の英雄だから。俺さ、ずっと言いたかった事があるんだ。最後だって言うなら―――、今、いいかな」
母さんの胸の中で、ずっと心に留めていた想いを打ち明けた。それがどんな意味を持つのか、それは俺にとっての物しか分からない。それでも、これだけは、はっきりと言える。それはきっと棘の道で、誰かに助けを求める事は出来ない。だからこそ意味のある選択で、俺にしか出来ない事だと。
「さすが、親子ね。あの人と同じ事を言うなんて……。残された時間はもう僅かだけれど、出来る限りで手伝ってあげる。まずは、そうね。外にいる邪魔なモノ、全部片づけてあげましょう?」
エルフ最高の魔導師が、その牙を剥く。かけがえのない息子の温もり。それを、今一度この手に掴んだが為に。そこに彼の知る優しい面影は無く、戦女神とも称されたミネルバに近い、鋭い殺気を孕んでいた。
「『甦れ、星々の支配者。吹き荒れろ、雷鳴。駆け抜けるは嵐。深き森の主よ、呼び声に応え、力を示せ。加護を捨てた者にその光の慈悲を。清廉たるは星々の輝き、渇きを癒し、敵を討て。風を纏い、雷鳴を携え舞い上がれ』」
レイルが幾度と無く使用してきた、《エウ・コプシル》。しかしその威力は桁違いであり、かつ彼が知らない一節が付け加えられていた。そしてそれこそ、真の術式。オリジナルであり、到達点と謳われる魔法が放つ、最高の一撃。巻き込まれた存在は全てが塵と化し、その余波はあらゆる障害を薙ぎ払う。無限とも思えた群れはしかし、その一撃の元にその大半が消え去っていた……。
「あなたは、数を減らす事だけを考えればいい。零れたモノは、私が処理するわ。成長した姿、見せてくれるのでしょう?」
母さんの背中は、頼もしい物だった。湧き上がった感情は、体を自然とその隣へ運ぶ。気が付けば、互いに背中を合わせていた。
「母さんが多分知らない魔法、ここで見せるよ。『光よ、悠久となり敵を討て。永久の眠りから覚め、無へと誘え。其は闇の虜囚、我は汝の鎖を握る者。闇の支配者よ、光を喰らい、闇を貪れ。扉をここへ。全て飲み干し、闇よ栄えろ。《ホーリー・イノセンス》』
術式だけを見れば、属性は光。それでも現れたモノは、闇を生み出す扉だけ。参考にした術式は、俺が知る範囲では存在せず、ほぼ間違いなく俺のオリジナルと呼べるはずの魔法。範囲内にいた人やモンスターは全てが飲み込まれ、姿を消していく。それがどうなるのか、俺に知る術は無い。そもそも、知りたいとは思わないが。
朽ち果て、崩れていく肉体。いかなる邪法を用いていたとしても、その保存は永久ではない。過ぎた力を使用すれば、崩れ去るのは自然の摂理であった。共にいた時間は、ほんの数十分にすぎない。背中を合わせて戦った時間は、その中の数分程度。それでも、その時間はきっと、二人にとっては永遠の物として残る。そして、彼が辿り着く先は、遥か遠く―――。
「立派に成長したわね。出来れば、もっと近くで見守りたかった。もっと、あなたの言葉を、あなたの温もりを、感じていたかった。懐かしい顔にも、会いたいけれどね。でも、私の夢はこれでお終い。聞こえるか、分からないけど、それでも―――」
あなたを愛している、完全に消え去る間際、その口がそう告げていた。残った物は、何も無い。だがそれでも、ただ一人を愛した証は、そこにあった。