第15話 月の海辺をオープンカーで アウトラン
見渡す限り何もない世界ってのは人を終末的な気持ちにさせる。
空は果てしなく真っ暗で、足元は重たそうな灰色で覆い尽くされ、人の営みなんてどこにも見受けられない荒涼とした大地は僕達に優しく微笑んでくれたりはしない。時間すらその意味を失ってしまうほどに無関心で無感情な顔がそこにあるだけだ。
まるで僕達を残して人類が滅び去ったような静かな世界。そんな月面を車で四十分も走れば、そこはもう孤独の宇宙だ。隣に桜子がいてくれて良かった。そう思える。きっと彼女も僕と同じ気持ちだろう。ドライバー席に座る桜子の横顔を見つめていると、視線に気付いたか、僕へ向き直って憂いの滲む笑顔を見せて言った。
「レゴリスに覆われた未踏の月面って、ココアパウダーをたっぷり振るったティラミスみたいで美味しそう」
にたーっと唇を緩めて舌舐めずりをする桜子。
孤独の宇宙が終末感を剥き出しにして襲ってきても、桜子の食い気には敵いそうにない。
年越しをまたいだ12週間ぶっ続けのハードワークを何の問題もなくクリアしたご褒美としての4週間の休暇。僕は桜子を旅行に誘った。
二人きりで泊まりがけの旅行に出たことなかったし、さすがに4週間引きこもってゲーム三昧ってのも、そんな普段の仕事時と変わらない毎日を過ごすのももったいない。せっかくの休暇だ。いつもと違ったことをやろう。
桜子は二つ返事でオーケーしてくれて、速攻で仕事を一ヶ月間休むことを決め、目をキラキラとさせて旅行雑誌をダウンロードしまくった。
やっぱりアメリカテブクロネズミの夢の国がいいかなー。それともマダガスカル島沖合に浮かぶ人工島で遺伝子再生恐竜見学ツアーもいいなー。あ、キョートのニンテンドースーパーマリオランドって手もあるかー。でもアタミで温泉も捨てがたいわー。
と、さんざん盛り上がっていた桜子に告げた旅行の行き先は静かの海だ。
きょとんとする桜子。それもそうだ。僕達が住んでいる月面都市から700キロと離れていないまさに目と鼻の先、月航行船で行けば2時間程度の近場だ。
「そりゃ最初はなんでまたそんな近場にって思ったよ」
月面専用の六輪駆動車のハンドルを握る桜子が言う。
「でも、確かにこういうのも悪くない。ほんと、何もない」
ほんと、何もない。カーナビのマップを縮小させるまでもなく、見渡す限り灰色の岩山ばかりだ。僕達を中心に直径100キロの範囲に人工建築物は何もない。
月の街に住んでいる限り自然と触れ合うことなんか出来やしない。と、普通ならそう思うだろう。
でも、何も草木や川、海みたいな地球にあるものだけが自然と言う訳じゃないと僕は思う。このレゴリスに埋れた月の岩肌も立派な大自然だ。月に住んでいて月の自然と触れ合わないなんてもったいない。
月の静かの海の海辺をドライブ。道なき道を気の向くままに。月での休暇の過ごし方としては最高じゃないかな。
「ね、音楽かけてもいい?」
桜子が機嫌の良さそうな声で言った。この六輪駆動車は気密の保たれたキャノピー密閉型だ。音楽なんて当たり前、飲食だって、何だったら寝泊まりも出来る。月版のGPSカーナビも装備していて、これ一台で月面一周旅行だって可能だ。
「いいね。好きなのかけていいよ」
僕はナビ席でゆったりと答えた。いつも運転する側にいるんだ。休みの日ぐらい助手席にぐったりと座りたいもんだ。
「海辺をドライブって聞いてたから、ぴったりの曲をダウンロードしていたの」
桜子がハンドルから両手を離し、おまけに前も見ずにゴソゴソと宇宙服のポケットを漁り出した。目隠し手離し運転だ。でも5分間目隠し手離し運転したとしても何の問題もないレベルで何もない真っ平らな海辺だ。僕も余裕で視線を桜子へ向ける。
ポケットからスマートフォンを取り出した桜子は、慣れないグローブの指の太さに手こずりながらカーステレオにスマートフォンを接続し、小さな画面をごっついグローブの指でなぞった。
「よし。走ろう」
桜子がハンドルを握り締めた。やや間を置いて、FM音源のサウンドが車内に満たされる。この曲は、真っ赤なオープンカーで海辺を走りたくなる曲だ。
「マジカルサウンドシャワー!」
「正解。コータくん好きでしょ?」
「この曲聞けるんだったらオープンタイプの車借りればよかったかな。色も赤で」
「隣が金髪美女じゃなくて悪うござんしたね」
ボサボサ黒髪黒縁眼鏡が唇を尖らせて言った。それを言ったらこっちだって金髪欧米系じゃなくてすみません。
「ね、オープンカーにして走ってみようか」
確かにこの車はキャノピーを開いてオープンカーにして走ることができる。でもそれって……。
「ほら、早くヘルメットつけて」
言うが早いか桜子は早速宇宙服のヘルメットを装着した。まあ、いいか。僕もヘルメットを被って、船外宇宙服の生命維持装置、酸素供給システムの稼働を確認する。
「おっけー。サクラコは?」
「私も準備オーケー」
「よし、開けるぞ」
僕はナビ席のコントロールパネルを操作し、キャノピーのロックを解除した。気密の保たれた車内から徐々に空気を抜き、外部との気圧差がなくなったところでキャノピーオープン。音もなくキャノピーの半分が後ろに下がっていき、両サイドの強化プラスチックシールドもドアの内部に消えていく。
オープンカー状態になった六輪駆動車に桜子は両手を突き上げて歓声を上げた、んだろう、たぶん。
桜子はヘルメットの中で口を大きく開けて何か叫んでいるように見える。まだ気付いていないか。そのまま少し放置していたら、あれって感じでヘルメットの中で首を傾げて僕の方を見た。
ぱくぱくと口を動かし、ヘルメット越しに耳の辺りに手をやる。口の動きは「い・お・え・あ・い」って感じだった。聞こえない、かな。
僕は桜子の肩に手を置いてぐいっと身体を引っ張り、まるでキスをするみたいにヘルメットのバイザー同士を接触させた。すぐ目の前に桜子の唇がある。
「なに? どうした?」
ヘルメット同士が接触しているので空気の振動が伝わる。接触通信だ。
『アウトランの曲が聞こえなくなっちゃった』
「当然だ。月面は真空だから音は伝わらない」
『オープンカーなのに風を感じないよ』
「当然だ。月面は真空だから風は感じられない」
ほんの数センチ向こうにある桜子の顔が見る見る崩れていく。
『アッハハ!』
そしてハンドルにもたれかかるようにして船外宇宙服の肩を揺らす。まだ揺らす。宇宙服のお腹の辺りを押さえて、また大きく口を開けて何か叫んで、猫がクシャミしたみたいに顔をくしゃくしゃにして無音の世界で笑ってる。
「何がそんなに可笑しいんだか」
僕は片手をハンドルに添えて、もう片方の手を桜子の肩に置いた。さすがに蛇行運転はまずい。低重力だからちょっとした石にでもつまずくように車はバランスを崩してしまう。
桜子は僕に気付いて、ふうと大きく深呼吸して新鮮な酸素を胸いっぱいに吸い込んで、すっと真顔に戻って何か言った。
口の動きから推測するに「コータくん」って言ったんだろう。そしてまた続けて口を大きく動かした。
口の動きは「あ・い・い・え・う」かな。
あ・い・い・え・う?
唇も動きから、最後は「る」か?
「なに、してる、か? ハンドルを持ってるんだよ。蛇行運転は危ないぞ」
そう伝えようとバイザーを接触させようとしたら、桜子の方から触れさせてきた。
『もう少しこの静かな世界をドライブしていたい。いいでしょ?』
静かな世界で静かの海の海辺をドライブ。この静寂を体験している人間はそう多くないはずだ。アウトランのBGMをもっと聞いていたかったが、それは帰り道でもいいか。
「どうぞ、お気に召すまま」
『では、まいりましょー』
僕は脳内でマジカルサウンドシャワーを再生させて、桜子の横顔越しにぽっかりと浮かぶ少し欠けた地球を眺めた。
月旅行初日。まずまずのスタートだろう。あと2週間と6日あるけど、さて、後はどうしようかな。




