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高校の登校日、必要なのかわからない半日授業のあと、望は映画研究部の部室に足を運んだ。部員たちはもうあらかた集まっているが、ひときわ目立つ笑顔が見えない。
「しん…新は?」
「知らね。休みかな?」
「てか、園原が知らなかったらうちらも知らないよ。一緒に住んでるんでしょ?」
ええええええと、部員たちが一斉に彼女に詰め寄った。
「そこまで設定通りなのかよ」
「まじで満月と新月だな」
「過去から来たのも?」
どきっとした。発言した男子は馬鹿言うなと他の部員にはたかれている。
新月は、過去から来たのか、本当に?
答えは意外なところから聞こえてきた。
「手術しにアメリカに行ってたって聞いたぞ」
窓辺で腕組みをするカントクだった。
月代はため息をついた。こんなときに、ついてない。今日は望の顔を見てない。それとも、彼女はもう月代の顔など見たくないだろうか。あの夜の彼女の態度は、間違いなく拒絶だった。
「おれが女で満月が男ってことか。冗談じゃない」
わかってない。彼女は自分のことをちっともわかっていない。
呟くと、ばしんと凄まじい音がした。びくりと音の方に顔をやると、ばたばたばたと足音らしきものが近づいてくる。切羽詰まった様子のその音に、彼は少し恐怖を感じる。
音は彼の部屋の前で止まり、一拍置いてふすまが勢いよく開かれた。
「…満月」
ある程度予測はついていたけれど、その表情に月代は驚いて声をかけた。
望はじろりと彼を見下ろして、一声、
「ばっかじゃないの!?」
怒鳴った。
動けない月代は、布団の中でおとなしく聞くことしかできない。
「病気で手術なんて、聞いてない」
「遠ーいところって、言ったでしょ」
見る、これ?手術跡。言って、月代は布団をはいで、浴衣をはだけて見せた。脇腹に縫ったあと。望は一瞬見下ろして顔をそらした。そんなに見たいものじゃないか、月代はちょっと後悔する。
「カントクは知ってた」
「あ、ごめん、今日、撮影あったよね」
「どうでもいいよそんなの」月代の言葉を遮るように望は言う。うつむいているけれど、月代は寝転がっているので見える。
泣きそうな顔をしてる?
「…もう治ったよ」
「治ってないじゃん!」
今の月代は、布団に入って、赤い顔で荒い息を吐いている。どうにも朝から体が重くて、調べてみたら案の定だった。
38.2℃。
「……これ、ただの風邪だよ」
望の表情が固まった。
三日後、風邪を治した月代を加えて撮影が再開されるも、月代の表情は暗い。
「あれから満月、口きいてくれない……」
「お前が紛らわしいからだ」
あのタイミングで手術のこと言ったのカントクだよね?と月代が睨んでもカントクは素知らぬ顔をする。
「心配してくれたんだよー」
「いいね、愛だね」
この部の女子部員は基本的に適当なことしか言わないことが、分かってきた。本当に愛なら、いいんだけれど。
こちらに背を向けて機材をセッティングする望に、なんとなく足音を立てないように近づいた。
「…満月」
「『満月』はあっち」
まだ、そんなことを言う。
「満月!」
少し強い口調で呼んでしまってから、彼は気がついた。
この背中。声はにじんでいないし体は震えてない。彼女はそんなわかりやすいサインは出さない。後ろ姿は微動だにしなくて、いつもの彼女のように見える、けれど。
「…満月、ひょっとして、今」
泣くのを、
「我慢してる?」
「!!」
彼女の背中が大きく揺れ、はじかれたように走り出した。
「満月!」
止まりたくない。見破られた、悔しい。
月代はきっと追いつけない。本気で彼女が逃げれば、毎日走り込んでいるのと離れでのんびり暮らしているのとではお話しにならない。
でも、荒い息が聞こえてきて、立ち止まってしまった。
きっと、ずっと追いかけてくるだろうから。全力疾走が病後の体にどれほど影響するのか、考えてしまって、足が止まってしまった。
乱れた息のまま、月代は彼女に追いついて、その腕を掴んだ。顔だけは見られたくなくて抵抗するけれど、体の向きを変えさせられて顔を覗き込まれる。
「満月」
見られたくない、こんなぐしゃぐしゃな顔。
月代が息をのむ音が聞こえた。
泣き顔が映える女なんてそうそういない。顔を真っ赤にして、パーツはくしゃくしゃになって、涙と鼻水でべとべとで、みっともない。
「なんで泣いてるの」
「だってあんたは消えちゃうんだ、帰っちゃうんだ」
「『満月と新月は、同じ空に居られない』って」
返ってきたのはしばらくの沈黙で、彼女は怖くなって月代をそっと仰ぎ見た。
「…なんだ」
彼はどこか呆けた表情をしていた。
「なんだ、なんだ、そんなこと?」
「新月」
そのまま、彼はふらふらと来た道を戻って行く。
彼女が追いかけて着いた先では、もう撮影が始められようとしていた。
目の前には『満月』の背中、その向こうに向かい合う新月の姿、彼女を認めて、
微笑んだ。
「『だめだよ、一緒になんていられないよ。だって、満月と新月は、一緒の空にいられないもの』」
「『何を言ってるのさ』」
新月は、『満月』を透かして彼女を見つめた。
「満月と新月は同じものだろ」
「!」
「同じ月の表面だろう。僕が照らされなくたって、満月が知ってる。いつでも一緒だ」
新月は見えなくてもそこにある。
そしてそれは満月と同じ、月そのものだ。
「カット」
カントクの声で、一斉に部員が月代に駆け寄った。
「やればできるじゃん!新くん!」
「え、いいの、めちゃくちゃアドリブだったけど」
「もーすっごいときめいちゃったよ」
「これからもそんな感じでやれよ」
輪の外で、まだ赤い目と鼻のままうつむいた望を、佐東が笑いながら見ていた。