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「あの…」
という声に、望は振り返った。瞬間、背後の人物はえ、と驚きの声を上げる。
『え』の口のまま固まる月代がそこにいた。うなじにかかる程度の長さだった髪が短く切られている。くせっ毛がより強く出て、ふわふわくるくると四方に撥ねているのが、より天使みたいだと彼女は思う。
「あんた髪切ったの?知らないよ、カントクになんて言われるか」イメージが崩れた、と怒られるかもしれないぞと忠告した。今さらどうしようもないけれど。
「…ま、満月は髪伸びたね?」
驚きを隠せない表情で月代は言う。そのことに触れられたくなくて、望はふいと顔を背けた。遅れてついてくる髪が頬を叩く感触は久しい。
「言いたいことは分かるから、言わなくていい」
どうせ、似合わない。もとの彼女の髪に似せて作ってもらったウィッグはまっすぐの黒髪で、ともすれば重い印象になる。この髪が望は嫌いで、高校に入ってばっさり切り落としたときにはとても清々した気持ちになった。実家のしがらみをひとつ断ち切ったようだった。
でも祖母に顔を見せるときはこのとおり、年に数回しか着ないワンピースを着て、元の通り髪を長く見せて、『いい子』を演じる。
わかってない月代は彼女の背に言葉をかけた。
「違うって、満月、可愛いよ」
「…可愛いとか、言うな」
わかってない。
車が静かに本邸の門の前で止まった。運転手が開けたドアから望が出て行くので、月代は反対側のドアを自分で開けて車を降りた。
「あんたは待ってて」
「え?」
「すぐすむと思うから」
「おれも呼ばれたんじゃないの?」
「違うよ。いいから、待ってて」
何のために呼ばれたのだろう?そういえば、車がやってきたとき、月代の姿を認めた運転手は驚いたような顔をした、ような気もする。もしかして、月代はそもそも呼ばれていないのか?てっきり、昨日「美智子おばさん」の家で『庭師の息子もつれてこい』とでも言われたのかと思っていた。違うのなら、どうして?
「満月」
振り返った望は無表情だ。
「行ってらっしゃい」
精一杯微笑んでみせたけれど、彼女はそのまま向き直って、大きな門の向こうに消えた。
孫の誕生後すぐに娘を失った悲しみを、祖母は婿にぶつけた。そもそも、家柄もよくなく収入が多いわけでもない婿との結婚を良く思っていなかった祖母は、祖父が続けて亡くなったあとますます増長して、あからさまに婿を、つまり望の父親を疎外し始めた。何かと仕事をいいつけて彼と望を引き離し、彼女にあることないことを吹き込んだ。(祖母に言わせればそれは『教育』であった)その悪口は彼女の父親が引き入れた庭師親子にもおよび、…ばかな望はそれを丸ごと信じ込んだ。
ため息をついて、望は再び門をくぐって本邸を出た。車の前には、彼女が同行を望んだ幼なじみの姿。
「お帰り、満月」
「うん…」
どうして、月代についてきてほしいなんて思ったんだろう。この笑顔に、迎えられたかったのか。罪悪感しか覚えないというのに。
あからさまに元気のない望に、月代は心配そうな顔を向ける。その気配は彼女も感じているけれど、気を使っていられない。
帰りの車も無言だった。ハイブリットの車は走行も静かで、静かすぎて彼女には辛い。余計なことをしゃべってしまいそうで。
「……我慢、するでしょ」
ほら、余計なことを。
「我慢して、あとからにしようって、思うでしょ」
せめて顔を見られたくなくて、上体を倒して、前の座席のシートに額をつけた。
「そしたら、もう無理なんだ」
びっくりするくらい、声ははっきりしている。泣き言を言ってるなんて思えないくらい、弱々しくも揺れてもいない。役者にはなれないな、と思う。自分の感情すら、態度に出せないのに。
「…だから、泣けたことないんだ」
きっかけは、覚えていない。たぶん、望が何か気に入らなくて一方的に怒ったんだろう。
怒りに任せて何か言おうとして、祖母に吹き込まれた悪口を思い出す限り言った。「身分違い」だとか、「しょせん下働き」だとか、「どこの馬の骨とも」だとか、意味も分からずに。
最後の言葉だけははっきり覚えている。
『どっか行っちゃえ!』
…そして本当に月代はどこかへ行ってしまったのだ。
庭の緑はきれいすぎて、どこかわざとらしく感じる。妙に光に満ちていて、月代の背中は溶けていってしまいそうだ。
通りがかったのは偶然だった。開きっぱなしだった縁側に、月代が座っていた。足元には園芸用のじょうろ。水やりの途中らしい。
それまでだったらそのまま通り過ぎただろう。この三週間ほどで、月代はあっという間に距離を詰めてきた。それは彼が同じ学校に通いだしたせいもあったろう。彼女が知らんふりもできないくらい、関わってしまった。
「…おはよう」
とはいえ、彼女から声をかけるのはけっこう不本意だ。
「あ、満月、おはよう」
くるりと、月代は振り向いた。いつものとおり微笑むかと思いきや、真面目くさった表情を作ってもっともらしい声音で言った。
「こんなに開けっ放しにしてたら泥棒入っちゃうよ」
「警備、入ってるし」そもそも盗られるものは何もない。
「盗られるものなんてないって思ってるんでしょう」
図星だった。
「盗るものないってなったら、やけになって、満月がさらわれちゃうかもよ」
「ないない」いきなり突拍子もなくて、あきれ顔を作った。
「わかんないよ、かわいい女の子がいたら、つれて帰っちゃおうと思うかもよ」
「親戚のおじさんみたいなこと言うね」
望がかわいいなんて言う人はいない。本当に親戚の人がふざけて言うくらいだ。
じょうろを見た。
「そんなじょうろで全部に水やるの」
「まさか。ホースも使うよ」
「あんたのそれは、仕事?趣味?」
「おれの本業は学生だし」
月代の立場はどうなってるんだろう。どうして、彼女と一緒に住むことになった?
「…どうして、休学してたの」
「ちょっとね、遠ーいところに行ってたんだ」
遠いところ。
(過去、とか?)
何をばかなことを考えているんだろう。過去からとか、月からとか、あり得ない。月代は後ろに手をついてのけぞるように彼女を見た。そうだ、彼が着ている浴衣、いつも浴衣姿だから、いっそう謎めいた、時代錯誤な感じをうけるのだ。
そもそも、彼には両親がいる。
「おじさんとおばさんはどうしてるの」
「元気だよ?父さんは本邸の庭師してるし、母さんはばりばり会社員だし」
「どうしてあんたひとりでここに来たの?」
「んー」
深呼吸をした。
「ここ、空気きれいだよねえ」
「はぐらかすな」
そういうつもりじゃないけど、と月代は苦笑した。
卒業したら、どうするんだろう。ずっと、両親と離れて暮らしていくのか、ここで?まさか。ここは月代の家じゃない。いずれ、帰る場所がある。
月へ?過去へ?
「どこへ、行くの」
思わず声に出していた。月代がついていた手を離してきちんと振り向いた。ふざけた顔ではなく、かといって真剣な顔でもない。ただ彼女を振り向いた。
「どうしたの?」
「別に、どうも」大した意味はないのだ。
「…満月こそ、どこへ行くの」
「え?」
「全ての物事は、変わっていくから」
「……」
「そのままじゃ、いられないよね、おれたち」
「…そんな、わかりきったこと、」
どうして月代に言われなきゃいけないのか。
「うん、言ってみただけ」
笑った。対して彼女は、作り笑いすら、彼に返せない。ほんの少し頬を引きつらせるだけだ。