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帰途につきながら、どうしたものかと望は考えた。とはいえ考えたところでどうしようもないのは分かっている。カントクたちは望の話に沿って脚本を作るだろうし、それは新月には関わりのないことで、本人も感知することはないだろう。
それでもどこか後ろめたいのは、引っ越す前、彼と最後に会ったときにひどいけんか別れをしたからで、そのけんかも、彼女が一方的にひどいことを言ったというもので、…そして何より、あの笑顔に由来するのだ。
家に帰るなり出迎えた新月の笑顔に、望は顔を歪めた。
「おかえり、満月」
「ん」
どうして、こんな笑顔を向けられるんだろう。望はさんざん彼にひどいことを言ったのに、まるで円満な別れがあったかのように新月は望に親しげだ。
「どうだった、学校?」
「…どうもないよ、いつも通り」
適当な返事をしつつ、母屋の自室へ彼女は向かった。
ふうと息をついて彼女は乱暴に制服を脱いだ。金曜日だったので、帰りに叔母の家には寄らなかった。いつもなら、制服を置いて、ついでに何かおかずでもいただいて帰るところだ。
彼女にとって新月は「よくわからない」人物と分類されていた。何を考えているのかわからず、過去にひどい暴言を吐いた自分を思い出すから、なおのこと関わり合いたくない。なのに、彼の登場するエピソードだけ体よく利用した形になるのが、どうにも気まずいのだ。
この屋敷に住み始めてから、それは取りも直さず新月と再会してからの時間も指すが、三ヶ月と少しになる。いつも彼は家に居るように見える。庭師の息子らしく、水やりなどをやっているところを見たことがある。彼女を見かけると、いつも嬉しそうに微笑む。それにどういう意図があるのか。彼女が言ったことを、本当に覚えていないんだろうか?
(……それはそれでむかつくな)
勉強道具を広げながら、彼女は人知れず眉をひそめた。
「満月ーーーー」
突如外から聞こえた声をいったんは無視しようとしたが、呼び声は何度も繰り返される。いい加減うるさくなって、がらりと窓を開けた。
「なに!」
地上から二階の望を見上げる彼は、きっとやっぱり微笑んでいるんだろう。のんきな声で、持っている鍋を持ち上げながら言った。
「かぼちゃ煮たんだけど」
「………それで」
「満月、うちのかぼちゃ好きだったでしょ」
母さん直伝だから、味は同じはずだよともう一度高く鍋を掲げてみせた。そんな大きい鍋で、一体何人前作ったんだろう?
「いらん!!」
ぴしゃりと望は窓を閉めた。外から、彼の戸惑った声が聞こえてきたけれど、もう聞いてやらない。
(あいつは私のおばーちゃんか何かか!?)
いらいらを忘れようと無理矢理ペンを握り、参考書を読もうとしたけれどどうにも頭に入ってこない。
『母さん直伝だから』
(…そういえば、あいつの両親は、どうしているんだろう)
彼女と別れたときには、まだ二人とも健在だったはずだけど。
しばらく部活に顔を出せなかったうちに、とんとん拍子に話は進んでいたらしい。
「あ、おはよ、ノゾミ。ねえねえ、『満月』役、五組の佐東さんになったよ」
「へっ」
「だから、文化祭用の映画」
今年カントクが新しく作った映画研究部の最初の活動として、文化祭用に映画を撮ることは決まっていたし、もちろん部員である望も知っている。そのためにこの時期に脚本をどうするか考えていたのだから。五組の佐東さんのことも知っている。同じクラスになったことはないけれど、とにかくかわいいし、目立つ。
しかしその二つがつながらない。
「え、今、満月って言わなかった?」
「そうそう。うちの部員少ないし、撮影は夏休みだしさ。部員じゃない人に協力してもらおうって、カントクがなぜか推しだしたんだよね」
もしかして佐東さんに気があったりして、とリツカは笑ったけれど望はそれどころではない。
「本当に、それになったんだ」
「それって?」
「その…満月とか、新月とか」
「何を今さら」あんたが言いだしたんでしょうとどこか冷ややかな目をリツカは送る。
チャイムが鳴って、生徒達が教室に入っていく。
「じゃあ、放課後ね。今日来られるんでしょ?」
「うん…」
別れて各々の教室に入る二人の数分あとに、教室に駆け込んだ男子がひとりいたことを、望は知らない。
映画研究部は今年の春から成立した新しい部活だ。五年前に部員ゼロで消滅したらしい映画部には、かつてカントクの従兄が在籍していた。従兄を崇敬する彼は映画部の復活を悲願とし、中等部の頃からいろいろと手回しをしてきたらしい。そうしてとうとう発足した「映画研究部」は、中等部時代彼と一緒に同好会で活躍してきたリツカや他数名、そして高等部から入学の望や桂子を含む、総勢八名を抱える。新造の、しかも文化部としてはなかなかの人数に思えた。カントクの人望によるのかもしれない。
撮影予定を詰めてから、あとは部室でだらだらと過ごした部活を終えて、望たちは帰路についた。たまにはと付き合って、一緒にバスで帰ることにする。リツカや桂子の他に数名の部員も一緒にバスを待っていた。
「『新月』なんだよなあ、問題は」
「いいじゃん、浜中とかで」
「だめ!もっと、繊細で、儚げで!」
現実の新月を知っている望からしたら、そんな大層なキャラクターでなくてもいいと思うけれど、脚本担当のリツカにはすでに強い思い入れがあるようだ。名指しで否定された浜中がちょっと遠くで苦笑していた。
「そういや、今日」
黙っていた桂子がふいに口を開いた。
「入学のときからずっと休学だった男子が来ててさ」
初耳だった。休学している生徒がいること自体望は知らなかった。リツカも同様のようで、目を丸くして聞いた。
「へえ?なに、いい感じなの?」
「うん、今日は様子見だったけど、明日声をかけてみようか」
どんな感じ?見た目は?と話し込む彼女らの背後から、男子生徒が近づいた。
「あれ、満月?」
ぴしりと固まった望の前に回り込んで、月代はにこにこと話しかける。初めて屋敷の外で会った彼は、なぜか彼女の高校の制服を着ていた。似合わない学ラン。
「それ、うちの制服だよね。やっぱり同じ学校だったんだ。この辺の学校でセーラー服ってあんまりないし、そうかなって思ってたけど、おれが女子の制服ちゃんと見たことなかったから、自信なかったんだよねえ」
「ちょっと…」
べらべらとしゃべりだす月代に何か言おうとして、
「ノゾミ?」
「満月って?」
「い、いやあの、今日は満月だね的な…」
「ていうか、新くんじゃん。わかる?同じクラスなんだけど」
「え、八組?」
「あーまあわかんないよね、今日初めてクラスに来たんだし」
「ごめんね」
急にいろんな会話が混線しだして望は軽く混乱した。
こういうとき場をまとめるのは、決まっている。
「良い」
ぱたりと本を閉じながら実はずっとその場にいたカントクが立ち上がった。
びしっと月代に指を突きつけて、
「『新月』役、決定」
…果たして、うまくまとまったのかは別として、その鶴の一声はすごいと望は常々思うのだ。