エピローグ
あのとき、ありさを置いて僕一人でも逃げられただろう。
二人で一緒に死んだっていい、僕は死にたかったんだから。
でも、あの状況でありさ一人が生き延びるってことは、あり得なかったんだ。
だからどうしたって言われると、
(…どうもしないけれど)
「ソータ?」
声がかけられた。その一瞬前に、扉の開く音がしたから、誰かが背後にいることは分かっていた。それがおそらくありさであろうことも。
「どうしたの?こんなところに」
「…嘘だよ。どうもしなくなんてない」
創太は振り向いた。そこには声のとおりに、ありさの姿があった。今は髪をくくっていなくて、そこかしこに傷の手当のあとがある。頬のガーゼの白がよく目立った。
「ソータ?何か言った?」
「僕が死にそうになったときに、一人になることはない。死神が、助けにくるからだ」
ありさは、いぶかしげな表情のまま、創太を見ている。その唇は、かすかに開いている。
「でもあのとき、死神は来なかった。違う。死神は来ていたんだ」
ありさは、いぶかしげな表情のまま、創太を見ている。まばたきもしないその目は、乾いている。
「ありさは僕を助けたんだろ」
「なあ、ありさ、いや、死神」
だから彼女一人で逃げるなんてことは、あり得なかったんだ。彼女が死神であるなら、二人で生き延びるか、創太だけが逃げ仰せるか、どちらかしかない。彼ら二人で死んだとしたら…それが、死神の言う「一番怖い死に方」だったのだろうか。
彼女が死神だと仮定すれば、どうして転校してきて創太に近づいてきたのか、彼の死ぬ理由を聞きたがったのか、説明がつく気もした。
一見、ありさの表情は変わらなかった。けれどそれは変わらないんじゃない、固まっているんだと創太はすぐ気づく。いぶかしげな表情のはずなのに、無表情のように見える。
「ありさは死神だったんだろ」
創太は怒ってはいなかった。裏切られたとも、騙されたとも、思わない。
あそこで死ぬわけにはいかなかった。ありさが死神だとわかったからじゃない。ありさを問いつめたかったわけじゃない。
ありさに、死んでほしくなかったからだ。
なぜって。
「僕はありさが好きだ」
目前の少女の顔を、創太は見ることができなかった。大事なことを言ったのに、情けない。ぼそぼそと、続けるしかない。
「ありさが死神なら、死神がありさなら、僕は殺されてもいいよ」
彼女に殺されるなら、悪くない。
「…ソータは、何か勘違いしているみたいだね」
彼女の声は最初小さかった。
「この姿は仮の姿じゃない。お前の前に現れるために、身近な人間の容姿を借りているだけだ」
そしていつものようににやりと笑った。ありさの顔にその表情はあまりに不釣り合いだ。
「そして借りられるのは一度だけだ。彼女は本当にお前を助けたんだよ」
熱烈な告白は本人に頼む、と珍しくからかうような死神に、創太は渋面を作った。構わず、ありさの姿をした死神は創太の横をすり抜けて、まだ新しい手すりに手をかける。
「殺しはしない」
創太が振り返ったときにはもう死神は手すりの向こうに立っていた。
「すぐには。つまらないだろう?」
振り向いた死神は、にこりと笑った。
「だけど死ぬことは、何より怖いだろう」
「怖いな」彼は素直に頷いた。
死ぬことは怖い。
そして死なれることも。
「上出来だ」
艶やかな髪が、一瞬浮かび上がって、見えなくなった。
「ありさ!!」
ありさが飛び込んだ先を、創太はあわてて覗き込んだ。しかしそこには、遥か下に、校庭が望めるだけだ。
「ソータ?」
振り返ると、そこには少女が扉を開けて立っていた。髪をくくっていなくて、そこかしこに傷の手当のあとがある。頬のガーゼの白がよく目立った。ありさは創太をとがめるように近寄ってきた。
「だめだよ、こんなところ勝手に入っちゃ…また鍵を壊したんでしょう?危ないから鍵がしてあるんだよ?」
「ありさ」
何か言おうとした創太を遮って、ありさはもう一歩、創太に近づいた。
「ねえソータ、私、やっぱり私立の中学校へ行く」
右手を伸ばして、創太に触れそうなところで、とめる。その手首は、もう隠されていない。でも傷は、あのとき見たよりずっと清潔で、自然なものに見えた。
「一人で頑張ってみる。そしたらまた、ここへ戻ってくるから。ソータのいる街に戻ってくるから」
それだけ一気に言って、振り返って、ありさは扉に戻って行こうとした。この晴天の下、屋内へ通じる扉の奥は暗くて見えない。でも、怖がるようなものではないことを、創太は知っている。本当に怖いものを、創太は知っている。そしてそれは死神ではないんだ。
彼女の背中に、声をかけた。
「…そしたら、もう『あの街』へはいけないよ」
果たしてありさは振り返る。
「ソータ」
彼女は口の中で含むように笑った。
「『あの街』にはちゃんと道路が通っていて、歩いてでも行けるんだよ」
結んでいない髪を揺らしてありさは踵を返した。
立ち尽くす創太の背後には、遠くあの街が、いつものようにあった。