4.
火事や消防についての表現がありますが、作者の全くの想像によるものです。ご了承ください。
きしむ階段を上りきると、二階の窓は、一階のように板が打ち付けておらず、明るかった。規則的に大きな窓が並ぶ様子は、学校の廊下にも似ていた。
ありさは創太の半歩後ろを歩いている。その距離の意味と、彼女が今どんな表情をしているのか、創太はそればかりが気になっていた。
「ねえ、」
「何?」
彼女は今までになく大人びた口調で言った。けれどその声は、頼りない子どものようでもあった。矛盾している。
「私、中学校は私立に行こうと思ってるの」
初めて聞いた。創太の住む地域では、公立中学校へ進む子どもがほとんどだ。ひとつのクラスで、頭が良い2、3人ほどが受けて、それでも落ちてしまうことがある。お金があって、頭が良い一部の人間しか行けない、特別なもののようなイメージが、小学生たちにはあった。
「そうなんだ」創太にはそれしか言えなかった。
「ソータも、行かない?」
そこでようやく少し振り向いた。彼女の声が小さくて、聞き取りづらかったから。ありさは、うつむいていて、その表情はよく見えなかった。
「…いや、僕は、そういうこと言える立場じゃないから」
「……だよねえ」
顔を上げたありさは、口元を緩ませて、しょうがないというふうな口調で言った。
「無理だよねえ」
創太は違和感を覚えた。彼女の表情は、口調は、冗談めかしていたけれど、確かに、
今、ほっとした?
「うちのクラス、誰も受けないんだって。寂しいなあ、知ってる人、誰もいないんだもの」
まるで、知っている人が誰もいないことに、安堵しているような。
「ありさ」
「なあに?」
創太は少し黙った。どう言えばいいのか、わからなかった。
「…どうして、ここへ来たの?」
「意味がなくちゃいけない?」
代わりに選んだ言葉で、ありさが少し不機嫌になってしまったようだから、彼はあいまいに返事をして、また歩き出した。
目が開いたのかどうかもわからない。
暑いのか寒いのかどうかもわからない。
自分が、どうなっているのかわからない。
今まで、どうしていたのか、どうしてこうなったのか、ぐちゃぐちゃになった思考が、ぐるぐると。
色を捉えた。目が、開いていたらしい。赤い色をしていた。
赤い色って何だろう?
『血だ』
誰とも知れない声がして、ああそうかと思った。
とたんに、激痛が走る。
これは血なんだ。これは、僕の血なんだ。僕は、死んでしまうのかもしれない、こんなに痛いんだもの。
死んでしまうの?
いやだ。いやだ。死にたくない。
怖い。
死にたくないのか、と声が問うた。
当たり前だよ、痛いのは嫌だよ、死にたくないよ。
助けてやろうか、と声は提案した。
なんでもいいよ、助けてくれるなら、死ななくていいのなら。
ならば、と声が条件を出した。
いいよ、それでいいから、早く、死んでしまう前に、僕を助けて…
たかが回想に、創太は歯をくいしばった。なんて愚かな選択をしたのだろう、あんなことなら、あのとき、死んでしまえば良かったんだ。
死んでしまえば。
廊下は長かったけれど、歩いていれば終わりが来る。半分以上歩いて、もう突き当たりが見えていた。廊下の両端に階段がある構造のようで、突き当たりには昇降口があった。ありさはどうしてここに来ようと思ったのだろう、創太は何回目かの疑問を抱いた。
それと、さっきから感じる、この感覚…、いや、これは、におい?
「…何か、臭い」
創太は思わず声を出した。
「しょうがないよ、古い建物だもん」
違う、そうじゃなくて。創太はこのにおいの名前を思い出そうとした。あのとき、両親を亡くしたあの事故の時にも、このにおいを嗅いだことがある。いや、そんな特殊な条件でなくとも、いつだって、このにおいは。
きょとんとしたありさを見つめて、創太は思い出した。
「焦げ、臭い」
瞬間、彼らの目の前、昇降口に、炎が立ち上った。階下からの火が、天井を伝って昇降口を上ってこようとしているのだったが、彼らにはそんなこと、わかるはずもない。急に現れたその火が、CG合成みたいに非現実的で、異色を放っていた。
創太は、一瞬の後われにかえって、それが炎であることを認識した。
「火事だ!」
ぼうっと、炎を見つめているありさの腕を掴んで、炎から遠ざかろうとした。
その彼女の目は夢見るようで、見開かれた瞳に炎が映りこんできらきらと輝いていた。
「どうしたんだ、ありさ、逃げないと」
「う、うん」
ようやく振り返ったありさの腕を掴んだまま、創太は走り出した。元来た道を戻って、自分たちが上ってきた階段を下りれば逃げられる。火元はわからないけれど、真反対の階段から火が上っているのだから、逆に逃げれば火に飲まれる可能性が減ると創太は考えた。しかしへたをすれば、こんなに古い木造建築なんて、あっという間に燃えて、逃げ切れないだろう。
長い廊下を戻りながら、創太は小さく舌打ちした。
どうしたんだ、何をしてるんだ。
いらいらと、忌まわしいそいつを、今回ばかりは待ち望む。
早く来いよ。
早く助けにこいよ、死神!
ばしんと、腕が振り払われた。
何が起きたのか分からなくて、振り返ると、ありさが唇を噛み締めて立っていた。
「ありさ?」
「わ、私…、ちょっと、先に、行っていて!!」
くるりと向きを変えて、なんと彼女は炎に向かって走って行く。
「ありさ!!」
彼女はあっという間に昇降口に辿り着き、階段を駆け上って姿を消した。
休憩時間の始まりのチャイムとともに、彼女は教室を出た。目指す教室は一階下の、三番め。目的の人物は廊下側の窓際なので、話しかけやすい。
「菊兄ー」
「あんだよ」
机にうつぶせていた兄が、顔を上げた。その目は赤くて、彼女は呆れた顔をした。
「何、また振られたの」
「うるせ。で、なんだよ」声も心なしか鼻声で、兄は聞いた。彼女たちは学校では極力関わらないようにしていた。それを提案したのは他ならぬ彼女だったから、兄が不思議に思ったのも当然だ。
「これさあ」
彼女は手にしていたイヤホンを兄に差し出した。彼はそれを受け取って、「聞けば良いのか?」と身振りで聞いた。
彼が耳を当てると、聞こえてくるのはラジオのようだった。
ニュース番組がちょうど終わるところだった。
「何を聞かせたいんだよ」
「あれ、終わっちゃったか」
「だから、何」
彼女はニュースで聞いた情報を兄に話した。曰く、街外れの林の奥の木造建築が燃えていると匿名の通報があったこと。消防が駆けつけてはいるものの、道が整備されておらず、消火活動に入れるまでまだ時間がかかるということ。このまま消火が長引くようであれば、林にまで延焼してしまうだろうということ。
「ふうん、大変だな」
いかにも興味無さげに兄はイヤホンを外した。
「…創太、今日、出かけるって」
真剣な表情で兄を見る彼女を、彼は笑い飛ばした。
「まっさか」
「…だよね」
少女が、廊下の真ん中で足を止めた。もう、廊下は炎で包まれて、ちりちりと肌の表面を焼かれる感覚がする。それ以上に、息も苦しいし、足下も今にも崩れそうだ。
その斜め後ろから、柱か何か、棒状のものが、彼女の体を押しつぶそうと倒れかかっている、それに気づいているのかいないのか、少女は立ち尽くしたまま、静かに目を閉じる。鼻で大きく息を吸った。
がしゃんと大きな音がした。
彼女は再び目を開けた。予想した痛みも熱さもなくて、ほんの少しの痛みと衝撃に、今まで通りの熱さだけだったからだ。
「何をしてるんだ、ありさ!」
そこにいたのは創太だった。創太が、振り払ったはずの手を伸ばして、彼女を抱きとめている。否、一緒に倒れ込んでいるというのが正しい。
「なんで、いるの、ソータ。先に行ってって言ったのに」
「そんなこと、できるわけないだろ」
行くぞともう一度ありさの手を掴もうとした指が、彼女の右手首に触れた。
「やっ!」
反射だった。手首を思わず引っ込めたことで、却ってその傷跡が、見えてしまった。
創太は疑問に思ったことすらなかった。彼女がどうしていつも長袖なのか、いつもリストバンドやシュシュを手首に着けているのか。そして、彼女の手首を見て、それらをすべて思い出してしまった。
「ちっ違うよ!」
固まった創太の表情を見て、ありさは慌てて叫んだ。
「違うの、死にたいんじゃなくて、ただ、」
リストカットが、死にたい人のすることだということは、わかっていた。
「あの街に行きたくて、飛びたくて、体が重いの!」
『親から貰った体』を、『無意味に傷つける』、『馬鹿な行為』であることは、わかっていた、でも。
「どれだけ血を流しても、」
すうっと、何かが抜けるような感覚はする。けれど、体は鈍重で、足は地にへばりついたまま、ちっとも浮かび上がらない。いっそ、死んでしまえば、飛べるのかもしれない、けれど、それは怖くて、できない。
飛びたいだけなのに、あの街に、行きたいだけだったのに、
「体が軽くならないんだよお…」
ひざをついて、手首をかばうようにうずくまるありさを、創太は見下ろした。
「ありさ、」言いかけて、煙にむせて咳き込む。
咳をするほどに煙がのどに入り込み、よりいっそうひどくなる。
「ソータ」
ありさが顔を上げて、必死の表情で創太に手を伸ばした。
「だから逃げて、ソータだけでも早く逃げて」
浮かんだ涙を拭って、創太はありさをにらむように見た。
「そんなこと、するもんか」
両肩を掴む。
「ありさ、飛ぼう」
ありさの笑顔を彼は直視できない。
てっきり、創太は自分が彼女を嫌っているのだと思っていた。
嫌いとまではいかない、苦手なんだ。
頭が良い。
物を良く知っている、もちろん、「子どもにしては」だけれど。
そしてそれを隠している。
まわりのみんなは何も知らないと思って、あきらめて、見下している。
それと同時に、自身は「つまらない子ども」であると、自分で思っている。
彼とよく似ている。自己嫌悪も多分にあるだろう。
でも、それだけじゃないのかもしれない。
屋上で過ごしたわずかな時間が、彼の何かを変えたとしたら。
彼女の笑顔を見て生じる感情が、他にあるとしたら?
窓から風景が見える。眼下には、消防隊や野次馬がいて、何か言っているのが聞こえた。
「…『あの街』が見える」
「これを、見せたかったの」
見通すことができれば、神様になった気分になれるよ。
それだけ?と創太は思った。
神様になってどうしようというのか。あの街に行きたいのか。
人であることから逃げて、神様になってまで?羽が溶け落ちることを、厭わないでまで?
どうして、僕に近づいたのか。それなのに、どうして僕と一緒に中学校へ行くことがなくて、安心したのか。彼女は、一人でいたいのか、誰かと一緒にいたいのか。
そして、僕は、彼女と一緒にいたいのか?
彼女の気持ちも、彼自身の気持ちも、分からないままだけれど、ここで死ぬわけにはいかない、それだけははっきりとした意志としてあった。
割れたガラスの残る窓枠に足をかけて、創太はありさの手を握った。
「僕らがこれから飛ぶのは『あの街』じゃないよ」
それでも、いいの?
「…うん」
彼女が頷いて、一瞬だけ強く握り返して、離した。
「信頼、してる」
二人の体は、宙に躍ったあと、勢い良くマットに叩き付けられた。