1.
市立久坂第一小学校六年一組。
「おはよう」
創太が教室の中に入ると、軽いどよめきがおこった。
「創太!」
「ビルから落ちたって本当かよ」
「どうだった?」
クラスメイトが駆け寄ってくる中、彼はうつむいた。
「あんまり聞くなよ」
一瞬で教室の温度が低くなる。
「本当は落ちたんじゃなくって、おれが飛び降りたんだ。どうしても死ななきゃいけなくってさ」
「ソー…」
「なーんてなっ」とたんに深刻な顔になったクラスメイトに、創太は笑ってみせた。「何暗い顔してんだよ」
「へ?」
「悪いけどあんときのことはあんまり話すなって言われてんだ」
でも全然怪我とかないぜ、大丈夫。何か言いかけた友人に、創太はさらに言う。
「それにしてもカネヒラ、またお前と同じクラスかよ?」
「お、おう」調子を崩された様子で彼は何度もうなずいた。
「学校来てよく考えたらおれ新学期になってから一度も学校来たことなくってさ、クラスが替わっちゃってんだよな」
創太が笑うと、再び教室内が明るくなる。元の騒がしさを取り戻した教室の片隅で、ツインテールの少女が友人に話しかけた。
「ねえ、まいちゃん。あの人?」
「あ、そっか、このクラスになってから初めて来たんだ」
明るく笑う小柄な少年に二人して顔を向ける。
「鹿沼創太くん。なんかねえ…、しょっちゅう偶然事故とか事件に遭って、いっつも奇跡的に無傷なんだって」
「へえ……あ」
少女は自分を見つめ返す少年に気がついて目を逸らした。
(丸聞こえだ)
わざとらしく目を逸らされて創太は苦々しく顔をしかめる。
(偶然でも奇跡的でもないんだよ)
再び友人との会話に加わりながら少女に心の中だけで教えてやった。
(僕が自殺して、あいつが止めるだけだ)
「ふうん……?」
少女がもう一度創太を見ていたことを彼は知らない。
「今日サッカーしねえの?」「帰んのかよー」
友人たちの声に謝りながら創太は教室を出た。
直ぐに立ち止まったのは後ろから足音が聞こえたからだ。
「ソータくん?」
肩より長い髪をツインテールにした少女だ。艶のある茶がかった髪がウェーブを描いていて、創太は近所にいる毛足の長いダックスフントを思い出した。小学生にしてはおしゃれな、悪く言えばませた服装だった。
彼女のことは知っていた。彼が学校に来ないうちに隣町からきた転校生らしい。実際初対面といってもいいけれど、それなりに目立つ容姿なので気がつかないはずはない。それとなく友人に聞き込み済みだった。彼女のほうもクラスの中心の方にいる創太のことは聞き知っていたらしい。大きな目でじっと創太を見つめつつ再び口を開く。
「私、転校生、ありさ。呼び捨てにしてね」廊下で向かい合う彼らに、不思議なことに誰も注意を向けていないようだ。
「…ねえソータくん」
そして彼女はごく普通の顔でその問いを口に上らせた。
「どうして死にたいの?」
「………な」
「さっき言ってたじゃない、死ななくっちゃいけないって」
「…な、なんだ、そのことか」
「どうして?」
「…あれは冗談だよ。さっきもそう言ってたんだけど、聞こえなかった?」
「ふーん」
少女はつまらない、といった表情で、また創太をじろじろと見た。創太は落ち着かない。
「もういい?おれちょっと急いでるんだ」
「うん、また明日ね、ソータくん」
微笑む少女は、可愛い部類に入るんだろう。
「さよなら、深垣さん」
え、と少女が顔をあげた。
創太はさっさと昇降口を出て行く。その背中に、不機嫌そうに、呟いた。
「…ありさって呼んでって言ったのに」
次の日の朝、いつもの通り登校した創太の肩を小さな手が叩いた。
「おはよう、ソータ君」
振り返ると、ありさが昨日と同じ笑みで立っていた。嫌な予感がする。
「おはよう」
「ねえソータ君は両親がいないから、だから死にたいの?」
創太はありさに向き直った。
「どうしてそれを?」
「情報源は明かさないのが鉄則だよっ」腕を体の後ろで組んで、彼女は笑みを深くする。
落ち着いて、息を吸う。彼女の目的は創太の調子を崩すことだ、と彼は警戒した。平静を装って、ありさに言う。
「確かに僕には両親がいないけど、そのせいじゃない。今は、新しい両親もいるし」
目を丸くして、ありさは創太を見つめている。それに、と創太は続けた。
「そもそも、死にたいわけじゃないって、言ったよね?」
「…そっかあ」
頷いて去って行こうとするありさに、創太は声をかけた。
「ねえ、ソースって、なんのこと?食べ物のソースじゃないよね?」
ありさはおかしそうに笑った。
「違うよう」
(何をしてるんだ僕は)
創太は屋上で嘆息した。
「また同じ死に方とは、芸がないな」
「どうとでも言えよ」
そいつに吐く言葉も投げやりだ。
眼下は明るい。都会ではないけれど、街の灯りは星を隠すのに十分だ。ときおり強い風が吹いて、彼の体を揺らそうとする。もう慣れてしまって、恐怖は感じない。そもそも、彼の背後にいるそいつより怖いものなんて、創太にはない。
「…なあ、」
振り向くと、今度のそいつはサラリーマンだった。真面目そうにスーツを着込んでいるが、その顔にはいつもと同じ笑みが張り付いている。不気味でしょうがない。
「いつまで、こんなこと続けるんだ」
「決まってる」
そいつは笑みを含んだ声で言う。見た目通りの若い男の声なのに、いつも同じに聞こえる。先日のOLの声だって、それ以前に彼を助けた人たちだって。
「私が、お前を、『一番恐ろしい死に方で殺す』まで。いくら、お前がそれを恐れて先に死のうとしても、私はお前を助け続ける」
「………」
『一番恐ろしい死に方で殺す』。
なんて抽象的なんだろう。主語もなくて、誰が恐れる死に方なのか、それもわからない。でも怖い。
目の前の、こんなに恐ろしいやつが提案する『恐ろしい死に方』だ。どれほど、『恐ろしい』死に方なのか。
「僕を死なせてくれ」
「お前が望んだことだ」
にたにたと笑うそいつを、創太は『死神』と呼ぶ。
ため息をついて、そいつの側を通り過ぎた。
「飛ばないのか?」
階段へ向かう創太に、死神が問いかける。死神は、彼が死のうとすると現れる。いつも違う姿をしている。思うに、死神はどこにでもいるのだ。人の中に潜んでいて、彼の行動を見張っている。
今日は自殺するような気分になれなかった。
「あんたと話がしたかっただけだよ」
言って、自分の言葉に気がついた。
話す?死神と?
こんなやつと会話を通わせて何になる?
「ほんとに、何やってるんだ、僕は……」
創太はもう一度ため息をついた。ため息の多い小学生だな、と自分で思った。