第32話 スクルド
灰髪少女リナ=セリーヌが亜神ハイエルフことスクルド=ルーシェに連れて行かれたその場所は、"天界"と言われるところだった。
もちろん、リナの人生において、来たことなど一度も無い場所であったが、しかしリナはその場所のことを知っていた。
何故なら、"天界"とは、人の住む世界において、神々が住まうと言われる世界に他ならない場所だからだ。
気絶から目覚めて、真っ白なベッドの上から起き上がってしばらくした後に、スクルドの名を本人から直接聞いた時も、リナは驚いたものだ。
「スクルド=ルーシェ……って、道に迷ったエルフに道筋を教えると言われている――女神スクルドですか!?」
エルフにも神がいる。
その中でも、人生の岐路に立ったときに、また単純に道に迷った時に祈れば助けてくれると言われている神こそが、スクルド=ルーシェである。
エルフであれば、小さな頃に一度は森で迷い、助けてくれないかと祈ったことがある神であることから、それなりに知られているのだが、目の前の人物がそれである、と言われても信じることなど出来るはずがなかった。
けれど、スクルドは言うのだ。
「……そうね、そう言われることもあるわ。貴女も祈ったことがあるわよね……あれは、五歳くらいの頃だったかしら? 幼馴染の男の子が風邪になったときに、万能薬の材料となる薬草をとりに独りで森に入って……」
しみじみと彼女が語っている内容には、誰にも言ったことがない事実が含まれている。
確かにリナはかつて森に入り、迷ったことがあり、その際、女神スクルドに祈ったことがある。
結果として、大人たちに発見され、事なきを得たが、なぜ森に入ったのかと尋ねられてもリナはその理由をかたくなに言わなかった。
それなのに、スクルドはそれを知っているのだ。
驚いて、リナは、
「な、なぜそれを知って……」
と尋ねるが、スクルドは当たり前のように言った。
「なぜって、貴女が私に祈ったからでしょう? 理由くらいまでは見えるのよ?」
リナは開いた口が塞がらなかった。
彼女は、本当に女神スクルドと同一人物らしいからだ。
ただ、それでもまだ確信は持てなかったので、いくつも質問を重ねた。
たとえば、知り合いが迷子になったときの話とか、両親の話などを。
そうしたら、やはり、と言うべきか、驚くべきことに、というべきか。
どの質問にも明快な答えが返ってきて、どれも自分の知識と照らし合わせて正しいことばかりなのだ。
どうやら本当に彼女は女神スクルドらしいと認めないわけにはいかなかった。
そして、それを理解したとき、リナは体が震える思いがした。
天界に来て、一番最初に引き合わされたあの人。
薄々、あの人物が何者なのかは予想していた。
ここは天界。
神々がおわすところ。
その中でも最も高い地位についている者と言えば、ただ一人しかいない。
そんな方に、リナは謁見していたのだ。
「……あ、あのスクルド様……」
「ん? 様付けなんていいわよ。スクルドとか、スクルドお姉ちゃんとかで」
底抜けに気さくな台詞が帰ってきて、リナの肩の力が一瞬抜ける。
しかし、それでもリナはもう一度体に力を入れて、尋ねた。
「で、ではスクルドお姉ちゃん……」
「あら、可愛いわねー。頭を撫でてあげましょう!」
そう言って、スクルドはリナの頭を撫でまわす。
しかしリナは質問を続けた。
「さ、さっきの方のことで聞きたいことが!」
「さっきのって……あぁ、主上のこと?」
思い出したかのようにスクルドは言った。
そう、確かにスクルドは先ほど、主上、とその人のことを呼んでいた。
リナは頷く。
すると、スクルドは続けた。
「あの方はねー……って言っても、もう貴女も気づいているでしょう? 誰あろう、あの方こそ天空神テュール様よ。天界の最高権力者ね」
それを聞いた瞬間、分かっていたこととはいえ、リナの息が止まる。
「て、てんくうしん……」
それは、神々の中でも至高の存在と言われるまさに紛うことなき天界において、最も尊い存在である。
当然、地上の些末なことなどにかかずらわうことなく、ただ世の動きを見守り、調和を保っていると言われているのだが、スクルドの話し方からすると、まるでその天空神が近所の知り合いのことを言っているようにしか聞こえない。
「あ、あの……」
途端、不安になってきたリナが、スクルドに尋ねる。
「なにかしら?」
「私、テュール様に、何か失礼なことはしませんでしたでしょうか……?」
気づかないうちに何かをやってしまって、エルフ滅亡とかさせられたら堪ったものではない、と思って尋ねた。
するとスクルドが大雑把に手を振って、
「だいじょうぶだいじょうぶ。あの方、あれで結構適当だし。礼儀とか気にしないから。そんなことより、貴女こそ大丈夫?」
聞かれて、リナは首を傾げた。
何を聞かれているか分からなかったからだ。
スクルドはそんなリナに呆れたようにため息をついて言う。
「……さっき、そのテュール様に色々されたの忘れたの……って、そっか。貴女は覚えてなかったわね」
そう言われて、ふと考えてみると、思い出した。
自分は、テュール様に頭を掴まれ、“処置”と呼ばれる作業をされて倒れたのではなかったか、と。
そして、そんなことを思い出せば、当然不安になるものだ。
リナはスクルドに尋ねる。
「……私、テュール様に一体何をされたのでしょう……?」
その質問に、スクルドは少し考えてから答える。
「うーん……一言で言うと、体を作り変えられたのよ。エルフのそれから、神魔のそれへと」
「……神魔?」
知らない単語が出てきて、リナは首を傾げる。
「まぁ、それはあんまり気にしないでいいわ。分かりやすく言うと、リナ。貴女は神々の一員になりましたー。おめでとう!」
ぱふぱふ、とどこかから出てきたラッパらしきものを鳴らして、スクルドがふざけた様に言った。
しかし、内容はとてもではないが冗談で言えることではない。
今、スクルドは何と言った。
――神々の一員。
そう言わなかっただろうか?
そう思ってリナは再度尋ねてみれば、スクルドは頷いて答えた。
「言ったわよ? 実感はそのうち出てくる――というか、出てこさせるから」
その言葉の意味が分からず、リナはスクルドに尋ねる。
「それはどういう意味ですか……?」
聞きながら、不安で仕方がない。
一体自分は何になってしまったのか。
これからどうなってしまうのか。
そう思って。
そんなリナに、スクルドは優しく微笑み、言った。
「そんなに怯えることじゃないわ。なんでここに来たのか思い出しなさい」
「なぜここに来たのか……あぁ、修行、ですか?」
あの平凡な女学生だと強弁する娘にそう言われてここに送り込まれた。
つまり、これからすることは、修行、ということだろうか。
そう思って尋ねれば、スクルドは頷いた。
「そうそう、そういうこと。ま、時間も短いし、普通の修行ってわけじゃないんだけどね」
「それはどういう……」
「ま、そこは聞くよりやってみた方が早いわ。こっちにきて」
スクルドはそう言って、リナを招いた。
リナはベッドから起き上がり、ついていく。
部屋の中は真っ白だったが、部屋から出ると意外に色があり、どうやらここはお城のような巨大な構造物の中であることが察せられる。
いくつも扉や入口が見え、中は城で統一されていることが多かったが、必ずしも城だけ、というわけではないようだった。
スクルドはそんな建物の中を、全く迷わずにずんずんと進んでいく。
リナはそれに遅れないように、足を速めたのだった。