第31話 巨獣
「あらあらあらあら。また随分と大きいのがいるわね」
光り輝く縁の美しい転移ゲートから身を乗り出した、翠緑のウェーブのかかった髪を持つ美貌のエルフがそう言いながら目の前に屹立する山のような存在を見上げた。
転移ゲートからは彼女に続いて灰色の髪を持った少女が這い出てくる。
その瞳に宿っているのは驚きと恐怖であり、そこにいる生き物らしきものに対して怯えているのは明白だった。
そんな灰髪少女の反応に、亜神ハイエルフこと、スクルド=ルーシェは微笑みながら頭を撫でて言う。
「怖いの?」
その言葉に、灰髪少女リナ=セリーヌは震えながらもゆっくりと頷いた。
それは当たり前のことで、家よりも巨大な体を持つ、良く分からない物体を前に平常心を保てる者など、そうそういるはずがない。
ハイエルフ・スクルドと、灰髪少女リナの前にいるそれは、形だけを言うなら牛とサイを合わせたような肉体を持ち、頭には日本の大きな角が生えていて、背中には獅子のような鬣を生やしている。
口に生える牙は恐ろしいほど鋭く、大きい。
そして、最も恐ろしいところはその身体が周りの二階建て、三階建の家々よりも大きく、そんな建物など、尻尾や前足の一振りで簡単に壊してしまいそうなほどだということだろう。
さらに、それだけの野性を誇りながらも、その瞳には知性の瞬きが感じられるのだ。
理性ある強大な力を持った獣。
一言で言えば、そんな存在がそこにはいるのであり、とてもではないが人の身であんなものに対抗できるとは考えることも出来ない。
しかし、スクルドはその美貌を一切崩さない余裕を持った妖しい微笑みを浮かべ続けているのだ。
リナは、彼女の質問に答えた。
「そ、そんなの怖いに決まってるじゃないですか……! 見てくださいよ! あれ! あの巨体に盛り上がった筋肉! 恐ろしげな眼光に、感じる圧力は相当なものですよ!」
巨獣を指さしながらぶんぶんと手を振り、そう答えるリナに、スクルドは吹き出すように笑った。
「の、割に随分と余裕を感じるのだけど。以前までの貴女だったら失神しててもおかしくないわよ?」
その言葉に、リナは一瞬、言葉に詰まる。
――確かに、そうかもしれない。
そう思ってしまったからだ。
そしてその失神している間に、周りに集まった精霊たちが勝手に暴れまわり、そして周囲を灰燼に帰したところで自分が目覚める。
そんな光景がすぐに頭の中に浮かんだ。
けれど、今はそんなことは起こらない。
以前までなら、リナが感情を乱したとき、即座に動き出してその原因に攻撃を加え始めていた精霊たちも静かなものだ。
それは、リナが彼らを制御する術を身に着けたからに他ならない。
勿論、スクルドのように上位精霊をすら自由自在に操り、自らの力と為すところまでは出来てはいない。
しかしながら、日常生活を送るには不便の無い程度にまでなら、全く問題ないところまで来ている。
それもこれも、あの方とスクルド、そして、そんな人たちに引き合わせてくれた平凡な女学生を名乗るあの少女のお陰である。
「……確かに、失神まではしなくなりましたが……それでもっ! こわいものはこわいですよ!」
ただ、しっかりと反論はしておく。
いくら数日前より成長したとは言っても、別に自分は人外になったつもりなどないのである。
スクルドや平凡な女学生を名乗るあの少女たちのように、明らかに人の尺度から外れた何かではないはずなのだ。
けれど、そんなことを言うリナに、スクルドは言う。
「あの大きなのも、貴女も、私から見れば似たような存在なんだけどねぇ……」
実に心外な言いようである。
リナは頬を膨らませて不服を示した。
スクルドはそんなリナに、呆れたように続ける。
「大体、貴女、天界であんなのよりずっと怖いのと戦ったでしょう? シバルバーにイシュタムとか……」
スクルドがそんな名前を出した瞬間、リナがガタガタ震えだした。
「し、しばるばー様……や、やめてください! そんな、そんな攻撃をされては私、死んでしまいます……っ! ひぃ! いしゅたむ様……み、水……水をくださいぃぃぃ!!」
などとぶつぶつ呟きながら頭を抱えて。
スクルドは、ぽん、と手を叩いて、
「そうだった、そうだった。トラウマになってるんだったわ……いやぁ、我が同胞ながら、天界の仲間達は鬼よね……」
と言う。
実際、リナの混乱状態はしばらく続き、収まる様子を中々見せなかった。
そんな中、唐突に現れた物体にやっと気づいたらしい巨獣は、巨獣と比べれば矮小なその存在を目障りに感じたのか、人にらみして、その巨大な腕を振り降ろしてきた。
それを見ながら、スクルドは、
「……困ったわね……」
と言いながら見つめている。
そのままでは明らかにスクルドとリナ、二人そろってぺしゃんこになってしまいそうな軌道だ。
実際、巨獣の腕は、二人のところに向けて、正確に振り降ろされ、そして巨大な轟音を立てて、黙々と砂煙を起こした。
二人は、潰れてしまったのだろうか。
誰が見てもそんな風にしか見えない状況だったが、意外にも二人は無傷であった。
もくもくとした砂煙が晴れたところ、二人の周囲の地面は粉々に砕かれていたが、二人が立っているところだけは、半球状の結界に守られて無傷である。
良く見つめてみれば、結界の周囲には精霊が飛んでいて、彼らがそれを張ったことが分かる。
スクルドは、
「ありがとう。助かったわ……さて、リナ。そろそろ正気に戻りなさい」
精霊たちに礼を言い、それからリナの頬を軽くぺしりと叩いた。
リナは、
「はっ……!」
と目を見開いてスクルドを見つめ、
「わ、私は一体……」
と混乱したような様子で口を開く。
スクルドは言う。
「トラウマに我を失ってたわよ……と、まぁそれはいいわ。それよりも、目の前のあいつ。貴方が倒すのよ」
と事もなげに。
それを聞いたリナは、目を見開いて、
「む、無理に決まってるじゃないですか……! あんな化物……」
とぶんぶんと首を振って全否定を始めたが、しかしスクルドは、
「化物って言うのなら、シバルバーやイシュタムの方がよっぽどよ。あいつらに扱かれたんだから、あれくらいどうにかなるわ。多分。見かけはあれだけど、それほどじゃないしね」
と言う。
しかし、そこまで言われてもリナはまだ不満そうで、
「サイズがまるで違うんですけど……」
と反論するが、スクルドはまるで取り合わない。
微笑んで言う。
「ぶつぶつ言ってないでとにかく戦いなさい。あっちの方で妖魔の反応が消えたのを確認したわ。たぶん、貴女のお友達が倒したのよ。目の前のこいつと同じくらいの強さの奴をね。お友達に出来たのだもの。貴方に出来ないはずはないわ。そうでしょう?」
と。
それは、リナにとって実に驚くべき情報だった。
自分の友人、というのはつまりあの二人、アルイードかモーリスのことだろう。
それ以外に友人などと呼べるような気軽な関係の者など人生に存在しないことから明らかだ。
そしてそんな二人のうち、どちらかが目の前の巨獣のような存在を倒したのだと言う。
信じられない話だった。
そもそも、自分も含め、一般的な魔物もろくに倒せないような弱者だったはずである。
それなのに、この数日の修行らしきもので、あの二人のうちどちらかは変わったらしい。
さぞかし大変な経験をしたのだろうと思われる。
自分の経験を振り返って見れば、さもありなんという感じだが。
そして、そんな彼らがやったことなら。
自分にも出来るのではないか、と言う気持ちが心に沸き起こってくる。
いや、やらなければならないのだと。
自分たちは、友人なのだ。
共に泣いて、共に戦う事を決めた友人なのだ。
まだ、友人になって短い期間しか経っていないが、三人そろって人生でそんな関係になれた相手が一人もいないのである。
心の結びつきは他のどんな者たちよりも強いという確信があった。
そこまで考えて、リナの目つきが変わる。
「……やる気になったみたいね?」
スクルドの言葉に、リナは頷いて、その決意を示した。
「やります。やってやります……!!」
スクルドは思いのほか頼もしい様子の弟子に微笑み、それから少し離れた位置で彼女の戦いを見守ることにした。
「じゃあ、私は遠くで見てるから。危なくなったら助けてあげるから安心してねー……」
そう言って、スクルドは宙に浮かんでいく。
リナは彼女を見送らず、ただ目の前の巨獣の姿だけを真っ直ぐに見つめ、それから力を練り始めた。
天界で身に着けた、特別な力を。