第30話 決着
速度を上げて地を蹴ったアルイード。
その体術自体は先ほどまでと比べてさして変わってはいなかったが、しかし全く同じ動きなのにもかかわらず、ほんの数分前までとは明らかに速度が変わってしまっている。
その様子に最も驚いたのは、もちろん、アルイードと対峙している吸血鬼である。
「なっ……!?」
目を見開きながらもアルイードが突っ込んでくるのを何とか避けたのはその経験と実力に裏打ちされたものを持っていたからだろう。
それから、吸血鬼は自らの長く伸びた爪でもってアルイードに反撃を加えた。
実際、これだけの不意打ちを喰らわされても、アルイードと吸血鬼の間にはまだ実力に差があった。
吸血鬼も十分に反応できているし、アルイードの劣勢は変わっていないだろう。
しかし、である。
それでも吸血鬼は恐れていた。
少なくとも、さっきまではこのような速度を出せる地力をアルイードは持っていなかったはずである。
それなのに、今はそれが出来ているのだ。
しかも、まるで速度が落ちる様子が見えない。
一時的な無理、というわけではないということだ。
つまり、ほんの少ししか時間が経っていないはずなのに、アルイードは明らかに成長していた。
先ほどまではその霊魔としての理力に慣れておらず、使いこなせていなかっただけで、実戦を経た結果、慣れ始めている、ということなのかもしれない。
だとすれば、それは成長と言うべきものではなく、潜在能力を把握したに過ぎないだけで、数百年の研鑽のある吸血鬼に追いつけるような性質のものではない、と言えるはずなのだが……。
にもかかわらず、吸血鬼は得体のしれない恐れを感じた。
一歩一歩、階段を詰められているような、そんな静かな緊張が感じられたのだ。
全く論理的でない、ただの勘に基づく感覚でしかないのだが、しかし今、それが正しいと言う事に疑問を感じない。
吸血鬼の反撃を受けて、アルイードは頬に傷を作る。
さらに、アルイードはそれだけでは怯まなかったために、吸血鬼は爪をひっこめて拳でもってアルイードの腹部を突いた。
妖力に支えられた強大な力を直接その腹に叩き込まれて吹き飛んでいくアルイード。
しかし、その表情は決して痛みに苦しんでいる、という風ではなく、むしろにやついて楽しそうですらある。
そのままの勢いで真っ直ぐに吹き飛んでいけば、市街の建物に直撃するところを、アルイードは猫のようにくるりと空中で器用に宙返りをし、建物の壁に足をついて着地した。
そしてそのまま足を発条のように伸縮させ、吸血鬼に向かってジャンプしてくる。
ただ、吸血鬼に直接突っ込んで言ったりはせず、その手前で地面に足をついた。
吸血鬼の間合いの手前で地に下りたのは、そのまま吸血鬼の懐に飛び込んでいっても、それを待ち構えているだろう吸血鬼に攻撃を叩き込まれることになるということを理解していたからだろう。
アルイードは魔剣を握りしめ、そこに霊力を注ぎ始める。
魔剣の刀身にふわりと霧のような輝きが宿っていくのを、吸血鬼は視認した。
「……何をする気ですかッ……!」
吸血鬼は得体の知れない力の集約をアルイードに感じながらも、あえて余裕ぶって口を開いてみたところ、自分の声が思いのほか震えていることを確認してしまうことになり、ショックを受ける。
また、笑うつもりで顔の筋肉に力を入れたのだが、引き攣って上手く笑えない。
明らかに気圧されている自分を知り、いかにアルイードと自分の間に実力差があると言っても、これではまずい、と理解した。
勝負は時の運とはよく言ったものだが、一対一の戦いにおいて、この程度の力の差では何が命取りになるか分からない。
そう、この程度なのだ。
今、吸血鬼とアルイードの実力差は恐ろしいほどに小さくなっていることを、吸血鬼は認めた。
ここに至って、自分の状況をはっきりと認識した吸血鬼は、余裕など捨て、ただ勝つことのみにこだわることに決めた。
死んでは、何にもならないのだ。
ここは生き残ってさっさと街を去らなければならないだろう。
たとえ、妖魔の主に死ぬほど怒られることが分かっていても、それが何だと言うのだろう。
本当に死ぬよりはマシというものではないか。
――本当か?
と、一瞬思わないではなかった吸血鬼だが、ふと頭に走った疑問はとりあえずその辺にうっちゃっておくことにして目の前の戦闘に専念することにする。
余計なことを考えてしまうと普段できることも出来なくなってしまうからだ。
たとえば、お菓子を買ってくると言うパシリすら出来なかった部下に対する折檻を嬉々として行う妖魔の主の微笑みとか、妖魔の主の側近の冷えた蔑みの視線と鞭百叩きの罰のこととか。
そういうことを考えてしまうと冷や汗と絶望感が半端ないからだ。
そんなことよりも、素直に、それこそ過去、強さを求めて研鑽していたあの頃のように、目の前の強敵との戦いに喜びを感じ、持てる限りの力を注ぎ込むことこそが、戦士としての正道ではないか。
そうだ、今、自分はそうすべきだ。
胃がキリキリと痛むような、上司たちに関わる想像の数々を忘れて、目の前の戦いに集中しよう――
そう思ってからは、霧が晴れたかのように頭がすっと冴え始めた。
吸血鬼は魔剣を腰だめに構える若者に強者としての余裕を見せつつも、決して侮る気も油断するつもりもないということを示すような、隙のない構えをとる。
気づけば、吸血鬼の手にも武器が握られていた。
血塗られたような朱色に染まった、優美な大鎌でである。
取り回しが難しそうな、巨大な武器だが、けれど吸血鬼は何の重さも感じさせず器用に操れるようだ。
彼もまた、目の前の少年がしているように、自らの武具に力を注ぎ始めた。
その様子は少年とは対照的だ。
どろどろとした、粘性のある力が大鎌に纏わりついていくのが見えている。
深く、暗い力。
それこそが妖の理を支える魔力の側面より引き出された理力である、妖力であった。
吸血鬼が発動させているのは、その力を武具に纏わせ、破壊力と為す技法である。
アルイードがやろうとしていることも、その霊力版なのだろうと予測はつく。
しかし、霊魔などと争ったことなどない吸血鬼からすれば、やはり得体が知れないことは間違いない。
それが一体いかなる力、どれほどの破壊力を持つのかは、分からないのだ。
ただ、それでもここで引く、という選択肢は採れるはずがなかった。
吸血鬼はアルイードに向かって大鎌を構えつつ、言う。
「さぁ、来なさい……決着を、つけましょう」
それは妖魔らしい妖しさと色気に満ちた声であり、そしてどこか蠱惑的な色を帯びていた。
アルイードはそれを聞き、微笑む。
満たされたような、自分の望みがかなったかのような、喜色を浮かべていることは間違いないのに、どこか外れた微笑みだった。
「あぁ……いいですね。ぴりぴりと肌に伝わるものがあります。その大鎌には僕の知らない力が込められている……そして、それがとても強いものだということが分かる。本気で戦うつもりになっていただけて、ありがとうございます。僕はそれが嬉しい……そして、さようなら。貴方か、僕かは分かりませんが、どちらかは、ここで永遠にこの世からは去らなければならないでしょうから……では、いきます……ッ!」
そう言って、アルイードは体に力を込めた。
いや、厳密に言うなら、そんな様子は一切感じられなかった。
ただ、吸血鬼の数百年と積んできた経験が、アルイードの吸血鬼に対する攻撃の意思がふと濃くなったことを感覚的に捉えさせたのだ。
――来る!
それが分かった吸血鬼は、自分もまた、同じタイミングでアルイードに向かって地面を踏み切った。
本来なら、愚策かもしれない行動である。
相手の出方を伺い、その意図を理解したうえで、適切に対処することこそが負けないためには正しい行動なのだと長い経験は吸血鬼に囁いていた。
けれど、今の吸血鬼にとって、それはとても面白くない戦い方だった。
吸血鬼は、決めたのだ。
この戦いを楽しむと。
かつて、長すぎる生に倦みを感じる以前に、毎日の命の取り合いに喜びを感じていたあの頃の感覚を取り戻して、刹那のやりとりに全てをかけるのだと。
だからこそ、一瞬の判断と反応が生死を分けるであろう、相打ち覚悟の行動に命を賭けることにしたのだった。
そこには、ある意味で永遠より長く、価値のある一瞬が存在しているのだと言う事を吸血鬼は思い出したのだ。
事実、その一瞬は長かった。
アルイードと吸血鬼、双方があと一歩で相手に手が、剣が届く、そんな位置に来た時点で、二人の時間は引き延ばされた。
アルイードが振り降ろす霧に包まれた剣が吸血鬼の首に向かって振り降ろされているのを、その中で確認した吸血鬼が大鎌の刃の外側で弾き、その勢いを利用してアルイードの首を刈りに振り切る。
しかし、アルイードはすんなりとやられたりはしなかった。
向かってくる大鎌の軌道を見て、上体を前にお辞儀するような形で曲げたのだ。
大鎌は空振りし、吸血鬼の体に隙が出来た。
その一瞬を見逃すアルイードではない。
自らに大きな隙が出来たことを理解した吸血鬼が、とっさに距離をとるべく地面を足で蹴り、後退しようとしたところ、その足をアルイードは踏みつけ、地に縫い付けると、自分は吸血鬼の懐深く飛び込んでいく。
ただ、アルイードの剣は大鎌によって弾かれ、もう一度振り降ろすには距離が遠かった。
吸血鬼はそのことを理解して、アルイードが吸血鬼を倒すにはまだ数手必要だと考える。
しかし、それが間違った思考だったと知れたのは次の瞬間のことである。
アルイードの手に握られ、ちょうど吸血鬼の体のある方向とは正反対に反らされた筈の剣。
その刀身が突如消滅し、そして柄の反対側から現れたのだ。
「……なっ!」
魔剣である。
何かしらの特殊な力があってしかるべきとは理解していても、それは予想外だった。
通常の魔剣の力と言えば、刀身が燃え盛った火炎に包まれているだとか、迸る雷撃を帯びているだとか、そういうものが多いからだ。
刀身が柄の両端から出現する、というタイプの魔剣は吸血鬼も初めて見たと言っていい。
だから、反応が極端に遅れた。
下から切り上げられるように首筋に向かってくる刀身に対応することが出来なかった。
霧のような力が首筋を撫でるように触れる感触を感じ、そこに宿った力の強力さを知った。
このふわりとした霧は薄いからこのような形をとっているのではない。
そうではなく、極限まで濃縮されているがためにこのような形をとっているのだとその瞬間に理解した。
しかし、それを悟るには時が余りにも遅すぎた。
霧――霊力が首筋に触れた、そう思った時には既に実体のある刀身の方が吸血鬼の首に届いていたからだ。
――ざんッ!
と切り裂かれる音が耳に響いたのを聞いた吸血鬼は、一瞬何が起こったのかを把握し損ねた。
しかし、自分の目に移る景色を見れば、それは明らかと言う他なかった。
くるくると空と地面とが交互に映る自分の視界は、空を飛ぶ首の視界に他ならなかったからだ。
そして、ころころと転がり、砂利の感触が頬を撫で、視線は自然とアルイードの方を向いた。
通常の人間であれば、もはや意識など消滅しているところだろうが、吸血鬼はそんなものとは格の違う存在である。
首を切り離されたとしても、まだ、意識はあった。
ただ、それでも絶命することは避けがたい。
もって数分――。
それが分かっているだけに、最後は自らの命を奪った相手と何か言葉を交わしたかった。
「……なるほど、良い腕です……」
既に声帯も機能していない。
首から上に残った魔力で無理矢理、声を出している状況だ。
ただ、もう死ぬのである。
魔力温存など考える必要がないことが不幸中の幸いなのかもしれなかった。
アルイードは驚いたように吸血鬼を見つめ、呟いた。
「……まだ、生きているのですか。やはり魔物と言うのは生命力が違いますね」
「……はっは。どういう経緯なのかはわかりませんが、貴方もすでにその一員でしょう。まぁ、よろしい……私はこれで終わりです。最後に、貴方に礼を申し上げたくなりまして」
「礼、ですか? 一体何の……」
怪訝そうに見つめるアルイードに、吸血鬼は言った。
「良い戦いを、ありがとうと。これでも四百七十二年、生きてきましたが……最も素晴らしく心躍る一瞬でした。これが最後の戦いなら、私は満足です……」
「それは、良かった。僕も楽しかったです。いずれ機会があればもう一度戦いたいくらいですが……」
言いながら、アルイードは吸血鬼の首と遠く離れた位置に倒れている体を見つめて微妙な表情をした。
その意味を理解できない吸血鬼ではない。
「ま……無理でしょうね。無念ですが、まさに貴方が先ほどおっしゃったとおり、ここでさようならです……冥土の土産に、貴方のお名前をお聞きしても?」
「あぁ……僕の名前はアルイードです」
「アルイード……それだけ、ですか? 人族の名前はもっと長いはずですが……」
吸血鬼のその質問は、苗字がないのか、という意味だ。
確かに、人族には一般的に苗字がある。
ただ、アルイードはその出自故に複雑なものがあり、ついぞ使ったことのないものだった。
けれどこの場において、それを名乗らないわけにはいかないだろう。
死にゆくものの願いは、出来る限り叶えてやれと霊魔の王が言っていたからだ。
生死を司る王の教えだからだ。
周りには聞こえないよう、吸血鬼の耳に口を寄せて答える。
「僕の本当の名は――アルイード=スティグマ=ドラゴニア……。この国の、聖竜王国ドラゴニアの……王位継承者です」
背中に刻まれた三つ首の巨大な竜の形をした痣が、そのことを示している。
それを、アルイードは今この場で、受け入れたのだ。
それを聞き、アルイードの顔を見た吸血鬼の表情がどことなくほころび、
「……なるほど。中々身分ある者に倒されたようですね、私は……では、アルイード。いずれ、私との戦いが語り継がれるような王になってください……実は、歴史に名を残すのが夢だったのですよ……」
冗談とも本気ともつかない台詞を言った。
アルイードはそれにどう答えたものか悩むが、しかし、これは受け入れるべき話だと直感的に思い、頷く。
それを見た吸血鬼は、徐々に眠りにつくように息が穏やかになっていき、
「……ふむ。いい、死に際です……」
そう言って、目をつぶったのだった。
そして、アルイードはそれを見届けて、その場を去っていったのだった。
◆◇◆◇◆
吸血鬼と王国民の死体、それに未だ息のある街人がその場に残された。
そんな中、自分の知り合いを目の前で殺されたことにやっと憎しみを感じることを思い出したらしい街人たちが、吸血鬼の死体をその対象にしようと殺到する。
しかし、結果として街人たちの拳や手に持った石が吸血鬼の死体に叩き込まれることは無かった。
なぜか、透明な半球状の壁が双方を包み込み、護ったからだ。
壁にぶつかった街人たちは怒り狂って壁を叩くが、びくともしない。
そしてしばらく時間が経つと、半球の中にあったはずの吸血鬼の死体は靄に包まれて行き、そして半球の消滅と共に、その場から忽然と消えてしまったのだった。
空から見つめる一人の少女が、ぽつりとつぶやく。
「……玉藻? そう。まだ生きてたのね……まぁ、面白い奴だったからいいか。さてさて次は……」
そう言って彼女は別の方向を見つめた。
そこには、家よりも大きな体を持つ、巨大な獣が暴れまわろうとしているところだった――




