第21話 王都への帰還
人間は知らなかった。
魔物というものがが一体どのような存在であるのかということについて。
まぁ私はよく知っているのだけど、人間は普通知らないよね。
私やゴブリンさんたち、それにスライムくんや、迷宮にアルバイトに来る魔物たち。
彼らは善良な魔物だ。
人に極端な危害を及ぼそうとは考えない、優しい魔物たち。
彼らにとって、人間とは隣人であり、近くも遠くもない距離を保ちながら共存して生きていきたいと考えている相手だ。
だから、人を出来るだけ殺さない迷宮、なんてものに賛同してそれを運営してくれるのだ。
けれど、人間の中に悪い奴がいるように、魔物の中にもそういうものがいる。
むしろ、性質の根っこが人間より遙かに悪に傾いている魔物の方が、不良が多いのである。
そんな不良の一部が今、王都に顕現しようとしているのを私は感じていた。
「……どこのどいつかしら」
私としては、私のテリトリーでこんな勝手なことをされても困るのである。
ただ、だからといって見境無く倒して回るわけにもいかない。
出来る限り、こういう事態は人間の手で処理してもらわなければならなかった。
でなければ、平凡な私の生活が維持できない。
どうしようもないときは、手を出すんだけどね。
けれど今回についてはその必要はないようだ。
魔物の出現地点に、別の存在の出現の気配を感じるからだ。
転移系の魔法の気配。
「さぁ、がんばってくれるかな。我が班の構成員たちは」
強くなってるといいんだけどね。
◆◇◆◇◆
その一体はまるで闇を凝縮したような存在感を纏っていた。
その存在は、王都の南門の前に広がる広場に出現した巨大な闇の中から這い出るようにずるりと出てきて、地面に降り立った。
容姿は、絶世の美男子、と言うべきもので、美しい銀髪、赤く染まった瞳、それによく尖った牙がその口からちらりと覗く。
吸血鬼。
およそ有らん限りの畏怖と絶望を込めて呼ばれるその種族のうちの一体が、その場所に立っていた。
「意外と簡単に入り込めたものですね……? この国は難しいと主は言っておられましたが。杞憂だったのでしょうか?」
その美しい眉を寄せて不思議そうにそんなことを言う吸血鬼。
もし彼が魔物でなかったのなら、どんな婦人であれ魅了されたことだろう。いや、魔物で合ってすら、その場にいる婦人たちは彼に魅了されかかっていた。
ただし、それは彼自身の持つ美貌だけでなく、魔物として持つ能力の一つである。魅了、それは吸血鬼が持つ最大にして最強の力である。
異性を強力に惹きつけてやまない力。
それは彼らが人の血を飲み生きていることから、絶対的に必要なものだ。
そしてその力を補助する為に、彼らは総じて美しく生まれつく。
エルフを森貴人と呼び、彼らは闇貴人と呼ばれるのはそういうところから来ている。
ありとあらゆる闇をその見に秘めたその闇貴人は、不思議そうに、しかし珍しそうにゆっくりとあたりを見渡すと、誰もが魅了されるような甘いほほえみを浮かべた。
そして、彼は言う。
「まぁ、いいでしょう。ごちそうがここにはたくさんある。それだけで、ね」
瞬間、彼は風になった。
その場にいた人間は、一瞬、なにが起こったのか理解できなかった。
けれど、彼が元の場所に戻ったとき、南門広場にいた若い女性はそのほとんどの首筋に二つの赤い傷跡が作られていた。
崩れ落ちる幾人ものうら若き女性。
あわてて駆け寄る人々。
しかしどうやら彼女たちはまだ死んでいないようだ。むしろ、大事ないらしいことを悟るにいたって、人々は安心する。
どうしてなのか、この吸血鬼は女性たちを殺しはしないらしい。
なぜなのか、と不思議そうに凝視されて吸血鬼はその疑問に答えた。
「あぁ、殺さないことが不思議ですか? いえ、私、乙女は殺さない主義なのですよ。血はいただきますがね。……さて、この場にいる乙女の血はすべて頂きました。これからは、虐殺を始めますが、みなさん、準備はよろしいですか?」
乙女の血はすべていただいた、の辺りで未だ元気そうに立っている隣の恋人を見る男性が数人いたが、そんな雰囲気は一瞬で霧散する。
吸血鬼は、乙女以外は殺す気なのだ。
南門広場の人々は、その瞬間、一斉に逃げ出すべく足を動かし始めた。
けれど、もう遅い。
吸血鬼の刃は人の何倍も早いのだ。
気づいたときには、ある男の首筋に吸血鬼の爪が添えられていた。
先ほどまでとは違って、まるで刀剣のように長く伸ばされた吸血鬼の爪。それこそが彼の刃だ。
冬を思わせる厳粛な声で、まるで神託を告げるかのような口調で吸血鬼は言う。
「では、記念すべきお一人目。この世とのお別れは済みましたか? ……では、さようなら」
男に分かるように、という配慮だろうか。
その爪は、思いのほかゆっくりと振り上げられた。
そしてそのまま、男が視認できる速度でそれは男の首筋へと降りてくる。
止めることなど、出来はしない。
もう終わりだ。
男はそう思った。
けれど。
「……おや?」
吸血鬼の振り下ろした爪は、男の首を落とすことはなかった。
不思議そうに、吸血鬼は自分の爪を見る。
すると、その爪は何か鋭いもので斬られたかのように落とされていた。
なにが起こったのか、そう思って吸血鬼が辺りを見渡すと、そこには一人の人間が立っていた。剣を持っており、構えている。
あの人間こそが、自分の爪を落としたのだろうと思った。
「……人間の剣士ですか?」
そんなものが自分に傷をつけられるはずなどないのだが、と言いたげな様子で吸血鬼は言う。
その剣士は、小柄な金髪の少年だった。
吸血鬼から見れば、それは極めて矮小な存在だ。
そんなものに、自分の爪を落とされたことに腹が立つのは当然のことだ。
吸血鬼の頭に血が上る。
その感情のまま、吸血鬼は少年に飛びかかった。
さきほど切り落とされた爪は、いつの間にか元の長さに戻っている。
何度でも伸張することができるものだ。
これくらいのことはたやすかった。
当然、人間の少年を殺すこともたやすい。
そのはずだった。
けれど、一度目はまぐれにしても、二度止められるとそれはまぐれとは呼べない。
吸血鬼の爪は、もう一度落とされてしまった。
「……馬鹿な!?」
驚きに染まる吸血鬼。
そんな吸血鬼を見て、少年剣士は言った。
「あのー……驚いているところ申し訳ないのですが、それ、僕じゃないですよ」
「……どういうことですか?」
非常に言いにくそうにそう告げる少年に、吸血鬼は少し冷静になる。
言葉を交わす精神的余裕も生まれた。
「いや、僕、さっきから一歩も動いていないので……師匠が、ですね……」
「……?」
少年がなにを言っているのか分からない。
この場には、少年と自分しかいないではないか。
師匠?
なんだそれは。
吸血鬼は困惑の極みだった。
それを察したのだろう。少年が言う。
「師匠! 師匠! ぜんぜん見えないですから、もう少しゆっくり動いてくれませんかね!?」
その言葉と同時に、少年の隣に現れた男がいた。
吸血鬼は驚愕する。
そんな男の気配など、一切感じていなかったからだ。
今目の前にしてすら、気配を感じない。
たとえどれだけ気配を隠すのが巧みだとしても、吸血鬼である自分が、生き物の気配を感じないなど、そんなことはありえないはずなのにだ。
けれど実際、目の前の男に気配はない。
よくよく見てみると……少年の方も、極めて存在が希薄だった。
生き物……なのか、それすらも分からない。
なんだ、こいつらは、こんな奴ら自分は……。
気づいたときには、疑問が口に出ていた。
「あなたたちは何なのです?」
男は答えた。
「死人よ」
簡潔な一言だった。
けれど、吸血鬼はそれで分かった。
この場にいるはずのない、その存在を思い出した。
「……霊魔ですか。なぜ霊魔がここに……?」
「それは俺の方が聞きたいがな。お前、妖魔だろ? それに……ほかのやつらも……。悪魔に、獣魔か。手を組んだのか?」
「……さぁ。そういうことは私は言えないことになっていますのでね……」
しらを切るように、そんなことを言う吸血鬼。
けれど男の方はその質問に対する答えがそれほど欲しかったわけでもないらしい。鼻で笑うように言った。
「はっ! そうかよ。まぁいい。大して強い奴も来てないみたいだしな。どうせお前は様子見に送り込まれたんだろ? 他のもそうだ。本気でここを落とす気だったらもっと強力なのを送り込んでいるだろうしな……」
「確かに、私は妖の中でもそれなりでしかありませんが、たかが人間程度、私一人でも問題有りません」
むっとした様子で吸血鬼は言い返した。
けれどそんな吸血鬼を男は不思議そうに見つめて、それから納得したようにうなづきながら言った。
「……? そう思っているのか。なるほど、知らないで送られたんだな。馬鹿な奴。お前の運命は決まったも同然だぜ」
「なにを言って……?」
「ま、何にせよお前は俺の愛弟子の餌食になるんだからどうでもいい話さ。おい王子様。こいつ、お前が倒しとけよ」
男は振り返って少年剣士を見つめて言った。
少年剣士の方はあわてて首を振っている。
当然だ。突然強力な吸血鬼を倒せ、と言われて納得する者はいないだろう。
「え、し、師匠! 無理ですって! この人超強そうじゃないですか!」
「いや大丈夫だろ。そいつはそれなりだ。お前ならいける」
「なにを根拠に……あぁ、もうどっか行く気満々じゃないですか!」
男はすでに少年剣士の元を離れて遠くに走り出していた。
「じゃ、まぁ頑張れよ。死なないようにな!」
「あぁっ! 待って! 師匠、待って~!!!」
いい笑顔で言い切った男にすがるように叫ぶ少年剣士。
そんな少年に、吸血鬼であっても、同情を禁じ得ない。
あの男はこの少年の師匠なのに、見捨てるようにおいていってしまったのだ。非道にもほどがあると、吸血鬼ですら感じたほどだ。
「……なんというか、お気の毒ですが。人生いろいろです。あまり気を落とさないように……」
励ましの言葉である。
こんな少年が、あんな男の弟子であるのがかわいそうでならない。
少年剣士はそれを聞き、残念そうに頷いた。
「……なんだか、あなたの方がよっぽど人格者のように感じますよ……あのクソ師匠……!!」
ぎりぎりと拳を握る少年。
けれどだからといって、吸血鬼の目的が変わったわけではない。
「まぁ、あなたはこれから私と闘って死ぬことは、あの男がいてもいなくても変わりませんから。少しそれが早くなっただけと思えばよろしいのは?」
何の気なしにそう言った吸血鬼に、少年剣士は一瞬ぽかんとした。
それから笑い出して言った。
涙が出るほどの大笑いだ。
なにがそれほど彼を笑わせるのか。
極限状況に置かれて、狂ったのか。
そう、吸血鬼は思った。
けれど、次の瞬間、少年剣士の口から出てきた言葉に、吸血鬼は頭に血が上るのを感じた。
「あの師匠が、あなたに負ける? ははは。そんなことあるわけがない。あなたが化け物なら、あの師匠はそれこそ化け物すらも止めているような存在ですよ? ちゃんちゃらおかしいですね……はっはっは! ……あぁ、なんだか僕、すっきりしましたよ。なるほど、そんなこともわからないようなあなたが相手なら……僕にもいけそうだ。ふふ……」
そう言って改めて剣を構えた少年は、さきほどまでのオドオドとしていたときとは完全に気配が変わっていた。
驚いて見つめる吸血鬼に、少年剣士は言う。
「あれ? びびっちゃいましたか? びびったら負けだって師匠はよく言っていましたよ……あなたの負けは、いま決まってしまったみたいですね」
先ほど思ったことは間違いだった。
吸血鬼はそう思った。
「……やっぱりあなたはあの男の弟子ですよ。なんてふてぶてしい……私があなたの命を終わらせてあげましょう!」
戦いが、始まる。