第12話 谷は谷でなく奈落
――魔界、ベルズグラム渓谷にて。
数百の爵位持ち悪魔とその配下、それに彼らに使役される下級悪魔たちが、一人の老人と相対していた。
傍から見れば、どう見ても老人が一瞬にして蹂躙されるであろうことが明らかなその光景。しかし、実際には圧倒的な数を誇る悪魔たちの方がむしろ気圧され、引け腰になっていることは悪魔たちの顔に浮かぶ焦燥からして理解できることだ。
老人はそんな悪魔たちを見ながら、残念そうにつぶやく。
「……全く、魔界の兵もこれほどまでに堕ちたか。これでは修行相手にもならんかもしれんのう」
そう言って、老人が振り向くと、そこには漆黒の髪と瞳を持つ少年が一人立っていた。
老人とは対照的に怯えた目と震える指先、へっぴり腰気味のその態度にはいかな悪魔と言えども同情を禁じ得ない。現に悪魔のうち下級の者の何人かは気の毒そうな目を漆黒の髪を持つその少年に向けていた。
しかし、爵位持ち悪魔はそうではない。むしろ、人類のうち精兵と知られる騎士団が徒党を組んで悪魔討伐にやってきたときよりも真剣な表情で老人から全く目を逸らさずに見つめている。その態度は明らかに油断できない強敵を前にしたベテラン兵士のそれであり、気を抜いた時が自らが死すべき時だと知っている者の戦いに臨む姿勢であった。
爵位持ち悪魔と思しき悪魔たちのうちでも、最も強力と思しき精強さを持つ者が一歩前に出る。そして老人に向けて恭しい態度で言うのだ。それは敵を前にした兵士、というよりかは主君を前にした臣下のようであり、また尊敬すべき人間に対して自ら持つ徳を示そうと努力する者のようでもあった。
「……なぜ、貴方様がこんなところに参られたのですか? 二度と魔界には戻らぬと……そうおっしゃったではありませんか。だからこそ我らはあの男に……」
その声には苦渋と屈辱の色も満ちている。そして深い悲しみも。
老人はそれを自らの髭を撫でのばしながら聞いていた。顔に浮かんでいるのは柔らかな微笑みだ。悪魔の軍勢を前にする老人の態度にはとても見えない。
老人は言う。
「そんなのお前らの勝手じゃろ? 儂ははっきり言ったぞ。人間界へ行く。ついてきたいならついてこい、残りたいなら残れ、と」
「われら悪魔がどうして人間界などで暮らせましょうか。あなたは何の選択肢もくれなかったも同然です。かくなる上は……戦いにて決着をつけるのみ」
「儂に勝てると思っておるのか、この程度の人数で」
「あなた一人になら無理でしょう。しかし、その後ろにいる人間を守りながら我らと戦えますでしょうか……?」
「ほほう……悪魔らしいのう」
「卑怯とはおっしゃりますな……いざッ!」
そうして、戦いが始まった。
◆
そこは辺り一面が真っ白な世界だった。足の触れる地面も、一定の間隔で現れる大きな扉も、そして今、目の前に存在する玉座、それにそこに腰かける人物が纏っている衣服も。
隣に跪くハイエルフをちらりと見ながら、灰髪の少女はなぜ自分がこんなところにいるのかと自分の運命の数奇さを思った。
いま、目の前にいるのはあの名高い――
「顔を、見せなさい」
そう、柔らかな声でその人物は言った。慈愛に満ちたその音は、どんな音楽よりも甘やかに辺りに響く。油断をしていれば麻薬に侵された患者のようにその声だけを求めかねないほどには、美しく中毒性のある声だった。
しかし、灰髪の隣に控えるハイエルフにとっては聞きなれたものだったようだ。
何の感情も見せず、すっと美しい所作で面を上げた彼女は、口元に気品のある笑みを浮かべて返答する。
「お久しぶりでございます、主上。何年ぶりになりますか……」
「堅苦しい挨拶は必要ありません。それよりも、その少女のことでいらしたのでしょう?」
「主上には全てお見通しのようで……。その通りでございます。いかがですか?」
意味ありげなハイエルフのその言葉に、主上と呼ばれたその人物は目を細め、そして微笑んだ。
灰髪はどうしてか、この笑みに恐怖を感じた。
まるで肉食獣に見つめられたかのような、自分の命の全てが相手に握られていると理解したときのような、不穏な気持ちが自らの胸に宿っているのを感じたのだ。
いったい何が、このような気持にさせるのか。この優しい笑みのどこにそんな不穏なものが存在するのか。灰髪には理解できない。
しかし、次の瞬間に言われた台詞と、その行動に、灰髪は息が止まるような思いがした。
その人物はすうっと息を一息吸うと、喜ばしい事実を見つけたことを報告するように、優しげな声で言ったのだ。
「この子なら、我らの一員となる資格があります」
そしていつの間にか、灰髪の後ろに佇んでいたその人物は、急に灰髪の頭を掴み、呟く。
「では、処置を」
処置とはなんなのか。
その内容を聞く前に、灰髪の意識は消えた。
◆
「……え?」
そんな声がつい出てしまったのも仕方のないことだろう。
なにせ、こんな状況では――
「おいおい、王子様がそんな顔するなよ。もっと王子様らしく、かっこよく笑え」
目の前で獰猛に笑う男は、かつて剣聖と呼ばれたらしいあの男だ。
転移して直後、振り返った彼はにやりと笑ったかと思うと自らの持つ剣を向けて言った。
「よし、戦え」と。
否やはなかった。断ることが出来る状況でもなかった。
断る以前に、いや、もっと言うなら、防御をしようと構える暇すらその男は与えなかった。
男がまるで重量が無いように振るうその邪悪な魔力を纏った大剣は、するりと障害物の存在などなかったのだとでもいうように、少年の胸元へと吸い込まれていく。
気づいた時には、背中から今まで感じたことのない奇妙な感覚――まるで体の中に氷でも入れたかのような涼しげな空気に撫でられる感覚がし、そしてそれと同時に何か温かいものが胸元から流れていくのが感じられた。
気づいた時には、手遅れだった。
口元からも、何か赤いものが流れていく。
しかし、信じられないことのその現実を生み出したその男は未だに笑っているのだ。
そして少年の意識が途切れる寸前に、その男は思い出したかのように言った。
「ま、仲間入り、おめでとう」
その言葉の意味を理解するより先に、少年の意識は途切れた。