I.たまにはデート気分
年明けの喧騒もだいぶ落ちつき、街のショッピングモールにはラッピングされたチョコレートが所狭しと並んでいる。
オレは二月の半ば頃にあった行事を思い出し、溜息を一つついた。
「陣。どうしたのだ。浮かない顔をして」
名前を呼ばれ、視線をチョコレートから手を繋いで隣を歩いている少女に移す。いつもは凛とした光を放っている絵理の黒い双眸が心配そうにオレを見上げている。不覚にも頬が紅潮していくのが自分でも解った。
「いや別に。そろそろバレンタインの季節だなーと思っただけだ」
赤くなった顔を彼女から逸らしながらそう答えると、絵理は納得したようにふむ、と一つ頷いた。
「確かに、二月十四日は血塗られた日だからな。バレンタインデーの由来になったとされる西暦二六九年のバレンタイン司祭の処刑に、一九二九年にシカゴで起きた血のバレンタイン事件。
最近の出来事では一九九二年の清瀬市警察官殺害事件もこの日だったか。
そんな日の事をふと思い出してしまったら、そなたが溜息をつきたくなるのも解ろうというものだ」
いやお前解ってないから。
思わず喉元まで出かけた言葉をオレは慌てて飲み込んだ。バレンタインといえばチョコレートなどという乙女回路をこの女に求めるのは無謀以外の何物でもない。
紅潮した頬が急速に元に戻るのを感じたが、それはそれで都合が良かった。
手を繋いでショッピングモールを歩く姿は傍から見れば恋人同士に見えるだろうが、オレと絵理の関係はそんなにロマンチックなものではないのである。
彼女は御剣財閥の後取り娘でオレは一介の執事。手を繋いでいるのははぐれない為だけだ。少なくとも彼女はそう思っている。
本当は手を繋ぎたいだけの方便なのだが、世間知らずな絵理はそういうものだと納得していた。
街へと散策に出るのは絵理の数少ない気晴らしだった。そのお供を仰せつかる時には、こうしてささやかなデート気分が味わえる。
誰に迷惑をかけているわけでもないし、この位の役得は許して欲しいものだ。
「そう言われてみれば今はチョコレートのセール期間中なのか? どこを見ても特設コーナが儲けられておる」
さすがの絵理もこれだけ大々的にチョコレートコーナが儲けられている事には気がついたらしい。興味を示したようで、絵理の足は自然とチョコ売り場へと向かった。オレもそれに続く。
「ああ、バレンタインにはチョコレートを贈る習慣があるからな。そのプレゼント用だろ」
「ほう。そんな習慣があるのか。確かに、贈答用に相応しいラッピングが施されているものが多数あるな……。むむ」
絵理が目を止めたのは手作りチョコのコーナーだった。『大切な彼に心のこもった手作りチョコを贈ろう!』という売り出し文句のポップ広告が張り出され、手作りチョコレートの材料となる素材や器具、ラッピング用の袋が並んでいる。
ポップの見出しの下には手作りチョコを贈る意義が書かれており、絵理は真剣にその広告を見ていた。
なんつーか、嫌な予感がひしひしとするんですが……。
「……陣。もしかすると、バレンタインに贈るチョコというのは手作りが推奨されるのか?」
予感的中。
「……いや、そういう訳でもないだろ。無理して作るよりも市販のチョコの方が美味いと思うけどな」
「ふむ」
「ま、バレンタインなんてまだ先だろ。二月に入ってから考えたっていいんじゃねーの」
「むう……。そうか」
オレは踵を返すと絵理の手を引いてチョコレートコーナーから離れた。絵理は大人しくオレについてきたが、彼女にしては珍しく、後ろ髪を引かれるようにたびたびチョコレートコーナーを振り返っていた。