2 銀姫
それが告げられたのは、正午すぎだった。
「今宵、お渡りがございます。西嬪様におかれましては、なにとぞご準備なさいますように」
毎朝起こしに来ていた女官は、そう言い放ってから、ご衣装については、縫司に手配してありますので、と付け加えた。
これはまずい。すぐに断らなければ、お針子たちの労力を無駄にしてしまう。
私は寝台から上半身を起こして、女官の方を向いた。
「ご覧のとおり、にわかに病をえてしまいました。あいにくではございますが、殿下に差し障りがあっては大事。お相手はできないとお伝え下さい」
上出来な言い分だろう。なにせ今までずっと寝ていたのだから信憑性もある。
女官は目を見開くと、何か言いたいような顔をしていたが、これでよし、とばかりに私は寝直した。
そう、私は全力でお断りしたはずだった。
なのになぜやってきた皇子……。
疑問が表情に出てしまったのか、皇子は唇の端を微妙にあげて、見舞いだと告げる。
「いたみいります。殿下のお心は嬉しいですが、万一、かけがえのない御身に何かあれば、お詫びすることもできません。どうぞお引き取り下さいませ」
失礼にならないよう十分注意しながら、満面の笑みで拒絶した。
すると、皇子の機嫌が上向いた。どうやら社交辞令を真に受けたらしく、わが身を案じてくれるか、などと言っている。
(最悪で最低!)
後宮に放り込むことで、官吏になるという私の夢を阻み、積み上げた努力を水泡にした張本人は、悪びれもせず、私に笑顔を向ける。
皇子にとっては、気に入った野の花を手折るような感覚だったのだろう。邪気のない顔をみれば、冷え込む野山から過ごしやすい温室に入れてあげたという気分なのかもしれない。
でも、折られた者としては、ふやけた面に罵詈雑言をぶつけたかった。
負の感情を思いのまま口にできるのであれば、少しは心が楽になるだろうか。
しかし、決壊寸前の奔流をどうにか抑えなければならない。
正直に心情を吐露することは、私には許されていないのだから。
(ああ。だから姫君は、月に還らねばならなかったのか……)
現実逃避なのか、ふと思い浮かんだのは、かつて聞いたおとぎ話だった。
竹から産まれた娘は、翁と媼に育まれ、やがて美姫となる。その輝かしさは数多の求婚者を惹きつけた。しかし、やんごとなき貴公子たちの求めであっても、姫君は無理難題を申し付けることで、ことごとく退ける。その評判は高まり、とうとう帝がお召しになる。さすがに断りきれなかった姫君だったが、天上からの迎えが来ることになり、帝の近衛を横目に、銀月の都へと還って行く……。
どことなく反権力の香りがする作り話のなかでさえ、月に還るという超常を持ち出さなければ、帝からの求婚を断れないのだ。
皇子の、というより、帝室の意向に私があらがうことはできない。
わずかに残された選択肢のなかから、私は無言を貫くことを選んだ。
* * *
終了の鐘が鳴った後、西清香はすぐに立ち上がることができなかった。極度の緊張から解放されて虚脱していたからである。
座したままぼんやりしていた清香は、肩を叩かれてもすぐに反応できなかった。ゆるゆるとした動きで、茫洋とした目を向ける。そんな清香の視線の先には、気遣わしげな表情を浮かべた老爺がいた。
清香は老爺から水を手渡された。それを飲むとひと心地ついたらしく、顔つきがしっかりする。清香が丁重に礼を述べると、老爺はくしゃりと笑む。
「なに、礼には及ばんよ。隣の席になったのも、何かの縁だろうて」
清香は試験監督だとばかり思っていたが、老爺も受験生だったようだ。
老爺は、阿久紗と名乗った。
それは異民族の名だったが、ここは南西の辺境。異民族が混在する地域である。珍しいことではない。現に、清香の祖母も異民族の血を引いていた。
しかも帝国は、定住と帰順を歓迎している。異民族にも科挙の受験資格が認められているのだ。算術に強いと有名な民族など、税務官として重用されていると聞く。
中央では差別もあるらしいが、家柄で出世する貴族出身の官吏とは違い、科挙出身の官吏は完全な実力主義である。出自は問われない。
まだ頭がぼんやりする清香と共に歩を進めながら、阿久紗は浅黒い顔をほころばせて問わず語りをした。
若かりし頃に官吏を志したが、落ちに落ちてな。最高でも解試合格どまりだもの。我は秀才だとうぬぼれていても、凡夫だったという、まあ、ありがちな話だ。そうこうしているうちに、妻が身ごもりましてな……。それを機に科挙は断念、親の家業を継ぐことにした。長年この地で毛織物を扱ってきたんじゃが、今年、息子夫婦に身代を譲ることにし、隠居の身とあいなった。
「まあ要するに記念受験なんだが……。しかし、こんないとけないお嬢さんまで受けるようになるなんてね。科挙も変わったものだ」
清香は顔をしかめた。
女は官吏になるべきでない。なっても幸せになれない。そうした言説は聞き飽きていた。清香の母は、女の幸せは結婚と出産にあると言って憚らない人物だったからだ。
清香の両親は教育熱心だった。清香が良い成績をとれば手放しで褒め、父のような官吏になりたいと言えば頭をなでた。
清香は一粒種だから、父にとって息子の代わりだったのかもしれないと今なら思う。しかし、当時はそんな想いに気付かず、素直に勉学に打ち込んだ。その結果、首席での進級を重ねた。
雲行きがあやしくなったのは、父の死後、科挙対策専門の私塾に通いたいと言った頃だった。
母である西英彩に反対されてはじめて、清香は令嬢教育を期待されていたことに気付いた。上流階級の花嫁に求められる教養と科挙受験生に求められる学識は、ある程度共通していたのだ。
そのようなことを思い出す清香の表情を見て、阿久紗は慌てて否定の言葉をつなぐ。
「別にお嬢さんに文句をつけようってわけじゃあない。長生きはするもんだっていう、年寄りの感慨だ」
清香は気まずい表情を浮かべて、そうですか、と返した。
女性に科挙受験が許され、女性官吏の登用がはじまってからおよそ六十年。異民族に受験資格が認められるようになったのも、ほぼ同時期である。
阿久紗の年齢を考えると、制度の黎明期に受験していたに違いない。当時は、ほんの一握りの人だけが受験していたのだろうし、今とは違って異分子扱いされたのだろう。
その頃の様子を尋ねようとしたところで、出口に着いた。人々が列をなして受験生が出てくるのを待ち構えている。そのなかには阿久紗の息子夫婦と思しき姿もあった。
「おお、迎えが来ていたようですな。では、これで」
「はい。お世話になり、どうもありがとうございました。都での再会をお祈り申し上げます」
気詰まりな雰囲気が一瞬生じてしまったものの、最後は和やかな雰囲気で別れることができた。
しかし、早とちりしてしまったのは頂けない。今後は気をつけようと清香が一人反省していたところで、声を掛けられる。
「お疲れさま!」
振り返ると、橘紅華が弾けるような笑顔で手を振っていた。
紅華は、清香より年上の二十六歳。私塾で出会った友人である。美貌とまではいえないが、褐色の瞳と柔和な顔つきで、目を惹く女性だ。優美な所作と気のきいた優しさがあいまって、私塾の男子が秘密裏に集計した「嫁にほしい番付」の上位を占める。
紅華は、今年の国史は少し易化したわね、などと話しながら歩き出す。清香は紅華と帰途を共にすることになった。
「そういえば、都では例の大伯父様のお宅に泊まるの?」
後悔が増えるばかりなので試験の内容は話さないようにしようと清香が提案すると、紅華はすこし間をおいた後、そう言った。
省試を受ける際の宿泊先を聞かれて、清香は一瞬言いよどんだ。紅華の聞いた「例の大伯父様」とは、都に住む親戚のことである。
科挙受験をめぐる母娘の対立は激化の一途を辿っていた。
清香の父は地方官だったから、家には多くの概説書や解説書が遺されている。歴史や地理などはそれらを参考にすれば足りるのだが、昨今の制度改革により、統治機構に関しては新しい書物を買う必要があった。
清香は書物を調達するため、買い与えられた櫛を売却したのだが、それが英彩に発覚した。当然のように喧嘩になり、なぜか母である英彩が実家に帰って家出するという事態に陥った。
しかし、調停者の登場により親子喧嘩は一段落する。
その調停者こそ、母方の大伯父、伯諸連だ。諸連は、中央官吏としての手管を大いに発揮して彩英と清香を説得した。
私塾通いは認めるが、花嫁修業として管弦などの稽古もすること。科挙の受験は一回限りであること。不合格ならすっぱり諦めて嫁に行くこと。
諸連がそうした条件まとめると、西家に久方ぶりの平穏が訪れた。
さらに諸連は、私塾の費用などを支援することを申し出た。清香は遠慮して辞退しようとしたが、諸連は清香の才能を大いに見込んでいると言う。
それに、と諸連は続けた。万一官吏になれなくても、君の縁談を世話することになれば元は取れるから、心配しなくていい。異民族のように持参金はもらえないけれど、姻族関係になるっていう縁故が期待できるからね。
そう言われて、清香は頷いた。大伯父自身にとっての利点を示されたので、交換条件として納得できたからである。
もともと清香は中央で活躍する諸連が好きだった。視察と称して辺境のこの地を度々訪れた諸連は、地方官の父が成し遂げられないことをやすやすと解決した。
開墾した耕地の租税を一定期間軽減する特例を認めさせ、大規模な溜池を掘削する予算をもたらすなど、人々に喜ばれ慕われる背中を、清香は大きく感じたものだった。清香が官吏を目指すようになったのは、亡き父もさることながら、諸連の影響が大きい。
しかし、諸連の持論の意味を考えるようになってからは、距離をおくようになった。
諸連はよく言っていた。遊戯に勝つには規則を制すること、一番いいのは規則を作り出す側に立つことだ、と。
清香は、その言葉は正しいと思う。だが、真が善であるとは限らない。中央から規則を強いられ、規則に翻弄された地方官の父をけなす意味もあったと気付いてから、大伯父に疑問を覚えるようになった。
「えーと。いいえ、皆と一緒の宿に泊まる予定です」
「じゃあ、私と一緒ってことだね。今度、旅行用品を買いに行かない?」
「いいですねー」
親族との関係は悩ましいし、そもそも解試を通っているか不安も残るところだ。それでも今は、試験後の解放感が勝っていた。清香は笑顔で紅華と買い物に行く約束をする。
将来のことを考えれば、課題もたくさんあるけれど、きっと何とかしてみせる。それくらいできなくては、立派な官吏にはなれない。そう思いながら、清香は穏やかな春の夕闇を見つめていた。




