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10 翠玉

 観蘭会が佳境を迎える頃、芳妃ほうひ様から、ふみが届けられた。


 芳妃様もこの会に出席されている。座っている場所までは、ほんの数歩というところだ。

 しかし、この場で妃嬪同士が直接声を掛けることは、失礼にあたる。何か話があるなら、女官を介してやりとりしなければならない。

 そのため、「お美しい蘭ですね」「いまの右方のうたはよい出来だと思いませんか」「そのお召し物、大変お似合いです」などという内容の文や詩が、ひっきりなしに交わされていた。


 女性の筆跡にしては勢いのあるそれを眺めながら、私は漢尚宮あやのないしに返事を書くから準備してほしいと伝える。

 文には、日を改めて直接お会いしたいとの記述があった。


(お小言だろうか……)


 実は、観蘭会がはじまる前、芳妃様付きの女官と私付きの紀宮人きのみやびととの間で一悶着あったのだ。


 芳妃様は淑妃の位を賜っている。貴妃は空位だから、皇子の筆頭側室は彼女が担っている。みめの位は下級側室にすぎない。芳妃様は、私の上役にあたる存在だ。

 ところが、太皇太后様は、ご自身の近くに私の席を用意していた。芳妃様よりも上位の席次が指定されたのである。


 いくら主催者の太皇太后様が伯家のご出身であり、私が伯家の養女になったとはいえ、これはやりすぎである。

 後宮の序列に従うべきだと私は思い、指定された席まで進むのをためらった。


 しかし、紀宮人はそうは考えず、さも当然といった調子で先導しようとした。私が立ち止まっている間に、芳妃様付きの女官が現れ、軽く言い争いになったというわけだ。


 結局、私が下座に着くことで何とかなったものの、芳妃様はご不快に思われたのだろう。

 侍女の行為は、あるじの責任。私の管理能力が問われるところである。


 まったく、太皇太后様も余計なお世話をしてくれたものだ。

 心中で悪態をつきながら、文を読み直す。その冒頭にはこう書かれていた。


  『かねがね兄からお噂はうかがっておりました』


 ……いったいどんな噂だろう。



 芳妃ほうひ様へのお目通りを待つ間中、私は央騎さんへの暴言の数々を思い返していた。

 からかい半分で投げかけたもの、やつあたり気味にぶつけたもの、笑いをとりたくて放ったもの……。央騎さんは、どれをどういうふうに伝えたのだろうか。


 私が親しみを込めた言葉でも、央騎さんの心に突き刺さる刃になっていたかもしれない。

 央騎さんの反応をうかがいながら喋っていたつもりだが、読み切れない気持ちがあったかもしれない。


 どのように受け止められていたのか。それは、いまさら変えようもないことだ。しかも、自分の言葉が自分に返ってくるだけ。因果応報でもある。

 そうだとわかっていても、うだうだと悩んでしまう。


(あ。でも、いま悩んでるのって、央騎さんのことではないんだ……)


 私は、保身のために思案に暮れているだけだ。央騎さんとの関係自体について悩んでいるわけではない。そのことに気付くと、自己嫌悪の波が押し寄せる。


 そうしているうちに、女官が芳妃様の訪れを告げる。

 応接間に現れた芳妃様は、筆頭側室としての偉容を誇っていた。


 後宮では、髪を2つに分けてゆるく結んで丸め、後髪を垂らす型が流行している。ところが、芳妃様は垂髪を作らず、もとどりに巻きつけ、ひとつにまとめていた。清廉な印象を与える髪型は、ふんだんに付けられているかんざしなどの飾物を除きさえすれば、武官に見えなくもない。

 しかし、静々とした歩みに合わせて揺れる簪の翡翠と華やかな装束が、武官とは異なる存在であることを示していた。


 お衣装は、曲裾である。紋の入った衣の上に薄衣を重ねている。ところどころ銀紗が入っていて、淡く光を放っているように見えた。

 鮮やかすぎる装飾だろう。けれど、芳妃様の目と眉が凛々しく、鋭角的であるため、全体としてみると華美にならず、調和がとれている。



「わざわざ出向いてもらってすまない。本当はこちらから伺いたかったのだが、そうもいかなくてな」


 ま、堅苦しい挨拶は抜きにしようや、と言いながら、芳妃様は笑う。

 私は、返事とも感嘆ともつかない気が抜けた声しか出せなかった。


 麗質を備えた美しい人の口から出た言葉があのようなものとは、驚かされた。おおらかと表現しても足りない。豪快なお人柄であろう。

 芳妃様付きの女官たちの方をそれとなしに見ると、頭の痛そうな表情をして袖先で顔を覆っていた。


 気を取り直して、紀宮人とともに先日の一件を詫びると、芳妃様は、気にしないでよいというように、手をひらひらと振る。


「なにかお題目を立てないと外野がうるさいから、この機会を利用させてもらったまで。もとより気にしてないさ」


 いろいろと勘繰るやからが多くて困ったもんだ、と芳妃様は嘆息した。

 たしかに、私の元へ不用意に訪問すると、伯家に取り入ろうとしているなどと噂されるおそれがある。芳妃様は、皇后派と太皇太后派のどちらに付くか立場を明らかにされていないから、そのような噂を避けたかったのだろう。


「……それで、本題はなんでしょうか」

「お。兄上に聞いていたとおりのお人柄のようだ」


 一体何を聞かされたのだといぶかしむ私を見て、芳妃様は満面の笑みを向ける。


「じゃあ、単刀直入に。殿下とはどうなんだ?」


 そっちかよ、と恐慌状態になった私は、予想外の方向からの質問に答えられず、一瞬答えに詰まってしまった。


 目上とはいえ同じ側室の方に、夫とはどうかと聞かれた場合、なんて答えるのが適切なのだろうか。

 「良くして頂いております」とか「おかげさまでつつがなく」とか言うのも皮肉っぽいし……と逡巡したあげく、お気遣いありがとうございます、とだけ答えることにした。

 しかし、その返事に芳妃様は不満な様子である。


「気にしないから、本音で話してもらえんか」


 本音で話すと不敬すぎるので無理です、と言いたかったが、そう言うこと自体が不敬なのでやめておく。

 仕方なく、笑ってごまかすことにした。最近こればっかりだ。ごまかしの技術を多様化させようと心に決める。


 似たような質問が続いたが、曖昧な態度に終始する。

 そんな私に芳妃様は業を煮やしていた。もう少し話せる奴だと思ったが、と失望をあらわにされる。

 しばらくして、御前から下がることを許された。



「賢明なるご態度、感服いたしました」


 さすが伯嬪はくひん様ですという紀宮人はご機嫌そのものである。

 侍女の機嫌をとれても仕方ないのだけれどと思っていると、意外なことに、漢尚宮も紀宮人に同調した。


「落胆の方が敵対されるより、ずっとよろしいですよ」


 お気づきかもしれませんが、と漢尚宮は続ける。あの簪は、殿下からの贈り物でございます。芳妃様は常にそれを身につけていらっしゃるそうです。


 漢尚宮の言葉を聞きながら、豪奢な装飾を思い返す。

 芳妃様は、武門の姫らしく勇ましいところがあるが、情が濃いと聞いていた。慈連兄さまによる事前情報は、やはり確かだったようだ。ここまで正確だと、出所が気になるところである。


 思案している間の沈黙をどう受け取ったのか、ご安心下さいと紀宮人は告げる。


数多あまた飾られていた簪のなかで、殿下が贈られたのは、ひとつだけです」


 私には要らぬ心配であった。

 芳妃様の行為を健気でいじらしく感じていただけに、反感さえ生じた。しかし、女官たちの会話で考えを変える。


「芳妃様は夜離よがれをお恨みになり、なんでも呪詛にまで手を出したとか出さないとか……」

「まあ、なんということでしょう」

「殿下のお心変わりは、伯嬪様のせいだけではありますまいに」


 不確かな噂を口にするものではありません、とたしなめながら、今回の件は嫉妬によるものらしいと知る。男勝りな方と思い込んだため、気付けなかった。


 それにしても呪詛とは。本当のことかわからないが、少しぞっとする。


「サバサバしているように見せかけてはおられますが、本当に粘着質ですね!」


 いきどおる紀宮人を見て、彼女が伯家から遣わされた理由が、ようやっとわかった気がした。




  * * *




 一波乱あったものの、西清香は、無事殿試の日を迎えることになった。

 殿試は300名程度が受験する。口頭試験であるため、全員が一度に受けることはできない。そのため、数日に分けて実施される。

 もっとも、試験問題は共通である。公正を期すため、受験生は官舎に缶詰めにされ、外部との接触を図れないことになっていた。終わった者から順次解放されるが、試験期間中は宮廷に入れないという手はずになっている。


 殿試初日の朝、訓示を受けるため、受験生全員が朝堂に集合した。

 控えの間である朝集殿では騒がしくしていた受験生たちも、いまは粛然とした面持ちで整列している。


 清香は緊張に包まれていたが、最高潮というわけではなかった。受験番号からいって、3日目あたりに配当されることになりそうだからである。

 いつもより少し余裕があった清香は、受験者を見回した。

 ひときわ顔色の悪い人物は、伴正実である。清香のところにまで酒の臭いが届きそうだった。案の定、弟や友人を巻き込んでやけ酒をあおったようだ。



 受験生たちが飯店に集い宴を催した折、正実は橘紅華に求婚した。

 そして、大方の予想どおり、見事玉砕したのであるが、その砕け方が問題だった。


 清香はその場にはいなかったのだが、後から聞いた話によれば、諦めて結婚したらどうか、などと失言に近い形で告白したのだという。紅華は失笑して相手にせず、周囲は沈黙して唖然とした。


 しかし、それだけでは収まらなかった。

 紅華の妹の秦泉麗が烈火のごとく怒気を示したからだ。詰め寄られた正実は蒼白で涙目になった。そして、事態を収拾するため、清香と紅華で止めに入らねばならなかった。



 溜息をひとつついてから、清香はもう少し周辺を観察する。宴会で見た顔がいくつか見え、清香はさらに心が落ち着いた。

 しかし、見たかぎりでは、朱資貴がいないようだ。体調不良だろうか、と清香は考える。それとも、実は不合格だったのだろうか。そうだとすれば、なぜすぐ嘘とわかる嘘をついたのだろう。


 清香が首をひねっていると、訓示がはじまった。これから礼部尚書と吏部尚書がそれぞれ挨拶する様子である。清香を含めた受験生たちは、改めて背筋を伸ばした。

 科挙を主管するのは、この2部だ。教育と外交を司る礼部が解試・省試の筆記試験を担当し、人事を司る吏部が殿試の口頭試験を担当する。


 礼部尚書は、好々爺然とした風貌をしていた。黒い官服が、恰幅のよさを際立たせてみせ、高級官僚の威厳を醸し出している。礼部尚書は、柔らかい口調で、実力を発揮できれば大丈夫というようなことを述べていた。

 続いて口を開いた吏部尚書は、礼部尚書と図ったように対照的であった。尚書としては若すぎるほどの彼は、細く華奢な体躯を官服で包んでいる。怜悧な目元は鋭さを感じさせるが、現に手厳しい人物であろうことは、発言内容からうかがえた。


「殿試と思って甘く見ないように。落とすべき者は落とす」


 吏部尚書は、挨拶の最後をそう締めくくった。

 音を立てて退出する吏部尚書を見送りながら、さっき慶連兄さま絶対こっち見てた、と清香は確信した。

 清香が慶連兄さまと呼ぶ吏部尚書は、伯家の長男。伯慈連の一番上の兄であり、清香のはとこであった。

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