人生代行
誰かが死ぬと、その人の続きを生きる仕事がある。
大げさに聞こえるかもしれないが、やっていることは単純だ。死んだ人の家に入り、その人として暮らす。食卓につき、朝の挨拶をし、決まった時間に出かけ、決まった時間に帰る。残された家族が困らないように。日常が途切れないように。
私はもう何年もこの仕事をしている。
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玄関の鍵を開ける。靴を脱ぐ。廊下を歩く。
他人の家に入ることに、もう何も感じない。最初の頃は少しだけ胸のあたりが詰まるような感覚があった気がするが、それもいつの間にか消えた。いつものことだ。鍵を渡された瞬間から、ここは私の家になる。
台所に残っている食器の位置。冷蔵庫の中身の偏り方。洗面台の歯ブラシの角度。そういうものから、その人がどう暮らしていたかを読み取る。
読み取って、なぞる。
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今回の人は、四十代の男だった。
妻がいる。娘が一人。中学生。男は毎朝六時に起き、珈琲を淹れ、新聞を読むふりをして実際にはスマートフォンを見ていた。資料にそう書いてある。
妻は私に「おはよう」と言う。私も「おはよう」と返す。声の高さ、速さ、語尾の伸ばし方。録音を何度も聞いて練習した。
娘がリビングに降りてくる。「パパ、今日お弁当いる」。私は頷いて、冷蔵庫を開ける。
二人とも、何も気づかない。
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夕食は三人で食べる。
妻が作った肉じゃがを、私は男の癖に合わせてじゃがいもから食べる。娘が学校の話をする。友達が何を言った、先生がどうだった。私は適度に相槌を打つ。笑うべきところで笑い、黙るべきところで黙る。
「今日、仕事どうだった?」
妻が聞く。
「まあ、いつも通り」
この答え方も資料にある。男は仕事の話をほとんどしなかった。
食器を洗いながら、妻が小さく鼻歌を歌っている。穏やかな夜だ。どこにも隙間はない。
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風呂に浸かっているとき、ふと天井を見る。
知らない染みがある。知らない排水口の音がする。知らない石鹸の匂いがする。
――当然だ。ここは私の家ではない。
そう思い直して、湯に沈む。自分ではない感覚というのは、最初の頃はもっと鋭かった。輪郭がはっきりしていた。「ここからが自分で、ここからが他人だ」と区別できた。
今は、その線が少し滲んでいる。
でも、気にしない。気にするような仕事ではない。
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仕事の前に、資料が届く。
その人の人生の記録。生い立ち。学歴。交友関係。口癖。好きな食べ物。嫌いな音。犬派か猫派か。子供の頃の思い出。初恋の相手の名前。
私はそれを読み込み、自分の記憶のように扱う。
たとえば「高校の文化祭で焼きそばを焦がした」というエピソードがあったとする。妻がその話を振ってきたら、私は少し気まずそうに笑って「あれはひどかった」と言う。その瞬間、私の頭の中には、煙の匂いと、焦げた麺と、笑う同級生の顔が浮かんでいる。
見たことがないのに。
でも、浮かんでいる。
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ある朝、娘が言った。
「パパ、最近ちょっと優しくなった」
妻が笑った。「そう? 前からでしょ」
娘は首を傾げたが、それ以上は言わなかった。
違和感がないこと。それがこの仕事の条件だ。完璧に演じるのではない。完璧すぎると、かえって不自然になる。少しだけずれるくらいがちょうどいい。人は変わるものだと、家族は勝手に納得してくれる。
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夜、布団の中で目を閉じる。
男の記憶が浮かぶ。大学の講義室。就職面接の待合室。妻と初めて会った居酒屋。娘が生まれた日の病院の廊下。
どれも鮮明だ。光の色まで見える。
――これは、自分の記憶だったか。
一瞬そう思って、すぐに打ち消す。違う。これは資料から作ったものだ。私が組み立てた模造品だ。
でも、本当にそうだろうか。この鮮明さは、作り物にしてはあまりにも――
眠気がそれを遮った。明日も六時に起きなければならない。
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次の日の昼休み、公園のベンチに座って考えた。
自分の過去を思い出そうとした。
私はどこで生まれたのか。どこで育ったのか。学校はどこだったか。親の顔は。友達の名前は。
何も出てこない。
正確に言えば、何かが出てくるのだが、それが「自分のもの」なのか「誰かのもの」なのか、区別がつかない。浮かんでくる景色が、前の仕事の記憶なのか、その前の仕事の記憶なのか、それとも本当に自分の過去なのか。
ベンチの背もたれに体を預ける。空が高い。
まあいい、と思う。思い出せなくても、今の仕事には関係ない。今の私は「彼」だ。それだけ分かっていれば十分だ。
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日々は続く。
朝起きて、珈琲を淹れて、スマートフォンを見る。妻と短い会話をして、娘を見送って、家を出る。帰ってきて、夕食を食べて、風呂に入って、眠る。
名前を呼ばれると、ほんの少しだけ反応が遅れる。
「――ねえ、聞いてる?」
「ああ、ごめん。考え事してた」
妻は笑う。「また?」
この「また」には、男の過去の習慣が含まれている。男はよくぼんやりしていたらしい。だから妻は怪しまない。
誰も気づかない。
遅れているのは、名前が自分のものだと認識するのに、ほんの一拍かかるからだ。以前はこんなことはなかった。たぶん。
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ある日、次の仕事の資料が届いた。
まだ今の案件が終わっていないのに、引き継ぎの準備として送られてくることがある。封筒を開けて、中身を確認する。
写真が一枚。
三十代の男。少し猫背で、目が細い。どこか見覚えがある。
経歴を読む。生まれた場所。学校。職歴。家族構成。
読み進めるうちに、指先が少し冷たくなった。
なぜだか分からない。知っている情報はひとつもない。でも、どこかが引っかかる。この並び方。この経歴の流れ。この写真の顔の、どこか――
封筒を閉じた。深く考えないことにした。
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翌日から、少しだけ調子が悪い。
何がどう悪いのかは分からない。体は動く。声も出る。仕事に支障はない。
ただ、ふとした瞬間に立ち止まる。
鏡の前で歯を磨いているとき。信号待ちをしているとき。コップに水を注いでいるとき。
自分の手を見る。自分の顔を見る。
最初の自分は、どこにあったのだろう。
この仕事を始める前の自分。最初の「私」。それは確かにどこかにいたはずだ。誰の続きでもない、元の私が。
でも、思い出せない。
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その日の帰り道、同じ仕事をしている人間と偶然すれ違った。
彼とは以前、研修のようなもので一度会ったことがある。たぶん。記憶が曖昧だが、顔には覚えがあった。
彼は私の顔を見て、少し笑った。
「調子悪そうだな」
「少し」
「どれくらいやってる?」
「分からない。何件かやった。最初がいつだったか……」
彼は頷いた。
「みんな最初は覚えてないよ」
それだけ言って、歩いていった。
振り返らなかった。
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夜。
布団の中で天井を見ている。
隣で妻が寝息を立てている。この人は、私を「夫」だと思っている。娘は私を「父」だと思っている。それは正しい。今の私は、そうであることになっている。
でも、今の私は――誰の続きなのか。
この家の男の続き。その前は別の誰かの続き。その前はまた別の誰かの続き。
では、一番最初は?
一番最初の私は、誰かの続きだったのか。それとも、私自身だったのか。
分からない。
分からないということが、もう怖くもない。怖くないということが、たぶん一番おかしいのだと思う。
目を閉じる。
――あるいは、最初から「続き」しかなかったのかもしれない。
眠りが来る前に、それだけが静かに残った。
確かめる方法は、もうどこにもなかった。




