第十六話 光秀の苦悩
京の夜は静かだった。
だが──光秀の胸は静まらなかった。
将軍の居城の廊下を、光秀は一人で歩いていた。
信長が去った後の空気が、まだ重い。
(信長公)
(将軍様)
二人の姿が、脳裏から離れない。
光秀は歩みを止めた。
信長は速い。
合理的で、迷いがない。
未来のためなら、既存の壁をすべて壊す。
──革命の人。
義昭は──
──構造の人。
現代の知識を持ち、政治を知り、
人を動かし、国を動かす。
光秀は目を閉じた。
(どちらも正しい)
(だからこそ──苦しい)
胸の奥が、ギリリと締めつけられる。
信長の革命は必要だ。
戦国を終わらせるには、あの速度がいる。
だが──義昭の政治も正しい。
乱れた国を整えるには、あの構造がいる。
(どちらも必要だ)
だが──
(両方は共存できない)
光秀は壁に手をついた。
(信長公の速度は、将軍様の構造を壊す)
(将軍様の構造は、信長公の速度を止める)
(どちらも正しいのに)
(どちらも、相手を許せない)
光秀は深く、重い息を吐いた。
……苦しい。
「光秀」
振り返ると、藤孝が立っていた。
「……藤孝殿」
藤孝は静かに歩み寄る。
「信長公と将軍様」
「どちらが正しいと思う」
光秀は答えられなかった。
だが、嘘はつけない。
「……どちらも、正しいと」
藤孝は目を閉じた。
「そうだ。正しさが二つあれば、世は割れる」
光秀は息を呑んだ。
藤孝は、光秀の肩に静かに手を置いた。
「お前は両方を見すぎる」
「だから苦しい」
光秀は目を伏せた。
藤孝が去った後、光秀は夜空を見上げた。
京の空は、どこまでも静かだ。
だが、その静けさの下で、
二つの巨大な力が、決定的にぶつかろうとしている。
光秀は、それを止められない。
(この二人が戦えば)
(戦国が壊れる)
(そして)
(私は──その間にいる)
光秀は、はっきりと理解した。
(逃げ場はない)




