京都湾海戦(後編)
やつらを分裂させるための策が却って奴等を結束されることになったのか?
今回自ら総司令官としてウラジオストクに駐留する艦隊全てを率いてきたゲラシメンコ総裁は顔面蒼白となった。
「壱岐島の二の舞を踏むな」
これは直近のシノワスの支配者の中でしきりに交わされているキーワードであった。
かつての大和国を二分した後継者争いの際に、シノワスは当時山名領であった壱岐島に侵攻してこれを占拠した。
これは大和国においては屈辱的な敗北とされているが、シノワスの中においての評価は高くないのである。
むしろもっと積極的に内乱に介入し、大和国を滅亡、または完全支配下における絶好のチャンスをだった。
それを逃したシノワス史上の最大の失策とさえ言われているのである。
そして今回の将軍謀殺とそれに伴う大和国内の後継者争い。
ゲラシメンコとしては、積極的な介入するころを選ばざるを得なかったのである。
そして先日解禁された火器使用統制。
かつてより参謀本部のコンスタンティン大佐を中心として、それを前提として新たな戦術と戦略の研究をさせてはいた。
そしてその研究をもとにした戦術の有効性は将軍謀殺で確かに証明はされてはいる。
であるために艦隊の砲撃戦を前提とした準備こそしている。
しかしあまりにも性急に事を進めすぎたのではないか?
確かに敵を挑発するがご如くに夢舞洲を前面に艦隊を押し出してはいる。
しかしこれは、全面戦争のために挑発ではない。
あのよしひろよりもさらに短絡的で論理的思考を持ち合わせない「旗本」とかいうならず者集団が蟷螂の斧をもって我らに纏わりつくのを払ってやっただけである。
副将軍よしひろが単独で突出する可能性も十分に想定済みではあった。
しかしそのあの慎重さしか取り柄のない高師好という老人も、よしひろの敵対勢力となっている細川も、風見鶏の京極も動かずによしひろを見殺しにするであろう。
突出して見捨てられたよしひろの艦隊を挟撃するの容易だろう。
しかしよしひろは大和国を分断させ混乱させるための道具として使える。
殺してしまうのは殺すのはまだ早い。
我々は、軽く、あくまでも軽くよしひろの艦隊と交戦した後に左右に分かれて回頭して再び湾の外側に逃げ込めばいい。
それでよしひろとそれを見捨てた諸将との溝はさらに深まろうな
ゲラシメンコの思惑として、幕府を弱体化させる駒とはよしひろと組むさえある。
しかしあの風見鶏の京極が率先して動き、それに呼応して細川までがこちらに矛先を向けてくるとは!
想像だにしていなかった状況にゲラシメンコは動揺を隠せないでいる。
幕府軍の艦隊の姿がどんどんと大きくなっていく
よし、もう時間はないのだ!
危険ではあるが船足を上げて京極艦隊の前で回頭して湾外に脱出する!
この際は、多少の犠牲は致し方ない!
「よしっ、では・・」
そしてゲラシメンコはその心の中の言葉を吐き出さんとした瞬間である、
「総裁!敵の京極艦隊が!」
「どうした!砲撃を始めたのか?まだ、この距離ではまだやつらの砲が届かんぞ!」
「違うのです!奴らが甲板の上で」
「なんだと言うのだ!」
「彼らが酒盛りをしているのです!」
?????
京極艦隊の先頭の旗艦「近江」の甲板上で半裸になった坊主が両手に白い扇子をもって奇怪な踊りをしている。
その周りで将兵たちが笑い、手拍子を叩き、酒を酌み交わしているのである。
「ハハハ、そういう事であるか!佐々木道珍、流石に大和国随一の天狗と言われただけの男よ!」
「総裁、我らはどうすれば?」
「よし、このままゆっくりと進め、そうだ、京極艦隊に道を譲ってやれ、決して手を出さぬように」
さて、細川克元は、よもや甲板上で佐々木道珍が裸踊りをしているなどとは知る由もない。
ただ京極艦隊にも解放軍にも一向に交戦する気配がない事だけはわかる。
そして解放軍がまるで道を譲るがごとく船首を内側に向けた時、細川克元はその事情を悟った。
「なるほどそういう事か、では我らは取り舵を切れ」
そしてついに解放軍と京極・細川、それぞれの艦隊の先頭が横一列に並んだ。
ボウウウウウウウ
お互いが鳴り響かせる警笛は軍事用ではない
エデンによって定められた全世界共通の汽笛信号である
そしてすれ違い
何事もなかったように離れていく
?!!!!!!
「バ、馬鹿な!何故誰も撃たんのだ!」驚愕するよしひろ
そして京極・細川の艦隊をすれ違った解放軍の艦隊は一気に船足をあげてよしひろの艦隊に迫ってくる。
「撃て!撃つのじゃ!」よしひろは叫ぶ
「よしひろ様!どこに向けてですか!」突然の状況の変化を理解できないのはよしひろと同じだ。
「と、とりあえず、一番近い船を狙え!」
この指示は全く適切なものとは言えずに現場での混乱をさらに助長するだけであった。
瞬く間にに解放軍の艦隊はよしひろの艦隊を丸く取り囲み、砲撃を開始する。
統制のとれた解放軍の砲撃は的確で、前衛の4隻は最後尾の「卜部」を狙い、後衛の4隻は先頭の「綾部」を狙う。
ちなみに解放軍のレーニン級巡機装母艦は76ミリ単装砲を6門装備し、通常では主力のMEG21汎用型を10~14機程度搭載している。
しかし今回の作戦にあたってはMEG19-C、あえて旧式の解放軍第三世代巡航機動装甲強襲砲撃型を詰め込んできたのである。
これは勿論、先日の火器使用統制権限の消滅に伴い、此度は艦隊同士の砲撃戦になることを想定しての砲火力の増強策であった。
「綾部」と「卜部」は集中砲火を浴びてみるみるうちに爆炎が吹き上がり船体が傾いていく。
そして雷鳴のごとき砲撃音がやんだ時には、よしひろの乗った旗艦摂津の甲板は2足歩行形態となったMEG21の部隊に占拠されていた。
この期に及んでもゲラシメンコはまだよしひろを生きたまま捕縛して政治的に利用しようと考えていたのだ。
ドーン!
すると突然、摂津の甲板の中央部から巨大な火柱が上がった。
みるみるうちにその火は燃え広がっていく。
MEG21はあわてて緊急浮上して難を避ける
よしひろにも一応、将軍家としての矜持は持ち合わせていたようだ。
彼は、その兄が辿った末路と同じく乗艦とともに海の藻屑と消えていった。
その暫く前、高師好は足利摂津艦隊が出航する姿を見て怒りに打ち震え、そしてその直後に京極と細川の艦隊が離れている姿を見てよしひろの遠くない死と足利幕府の滅亡を直感する。
彼は僅かな供回りを連れて急ぎ下船する。
将軍御所にいるであろうよしひでの嫡男である御茶丸を連れ出してここに戻るので、それまではなんとしてでも敵を防げと命令する。
そして御所にいた御茶丸を連れた再び戻った彼が見たものは燃え上がる自分の艦隊であった。
高師好は海路での脱出を諦めて、御茶丸を連れて京都島の北西へ向かった。
そこから船で細川領播磨と高領河内と足利領山城の国境にある叡山島へ向かう算段であった。
足利よしひでが叡山と和解したこともあり、高との関係も悪くはない。
反対に細川との間では長年、紛争を続けている。
御茶丸はつい先日までは細川は庇護していたとは言え、由緒ある将軍家の嫡子である。
この子供を連れていけば叡山も迎えいれるであろうと考えたのだ。
さて細川克元はさしあたり自領の播磨に向かうと決めて航路を変えようとしていた時に思わぬ拾い物をした。
波間を漂う銀色に輝く鉄の塊見つけて、その中にいた一人の男とともに海から引き上げたのだ。
MEG25。
幕府軍の脆弱な巡機装とはものとは違う頑丈さだけとりえの機体。
それに乗っていたのは運だけは抜群にいい男。
ルカシコフはなんとか猛攻の中を抜け出して生き延びたのであった。
そして克元の前に引き出されたこの男は動じる事もなくある作戦を提案してきた。
それは現在、夢舞洲に取り残されて回収を待っているシノワスの強襲砲撃部隊の急襲してMEG19Cを強奪するというものであった。
克元はこの作戦に乗る。
シノワスの強襲砲撃部隊は先ほどの旗本衆との戦いで砲弾を撃ち尽くしていたために無条件降伏する。
そして克元じゃ旧式とは言え強力な砲火力をもつMEG19C十数機を無傷で手に入れたのである。
この功績によりルカシコフは細川に召し抱えられ新参ながらあらたに編成された強襲砲撃部隊の隊長に任命されたのである。
わずか1週間の間にその持てる軍事力の全てを失った足利家の支配体制は霧散した。
細川にも京極にも見捨てられもぬけの殻とまった大和国の主島京都をゲラシメンコたちは占領する。
勿論、当初の予定にはなく、その準備もしていなかったが、今は、そうするしかないと判断したのだ。
この状況をエデンの連中はどうみるのか?
ゲラシメンコの懸念はそこにあった。
無理やり傀儡政権をつくるにしても、その中心人物がいない。
後継者の最有力候補たる御茶丸は行方不明。
そこでゲラシメンコは、現状の実効支配の状況だけを記した文書を作成して自らの署名を管理機構に送る。
管理機構にその判断を委ねたのである。
さて一人大乱の蚊帳の外にあった山名宗兵はついに壱岐島からの撤退を決意する。
当然、彼の頭の中にはすでに足利幕府はないものとなっている。
彼が恐れるのは自領である備前と伊勢が細川によって横領させることただ一つである。
殆ど自衛のための兵力を置いていない彼の領土の島々を占領するは容易であり、さらに海岸沿いに砲を配置すればその奪還は容易ではない。
現にいま自分が層群している苦労かたそれはわかる。
実際にこれは山名宗兵の妄想でもなんでもなく、細川がMEG19Cを手に入れた時に真っ先に考えたのは、それをもって山名領を横領することだったのだ。
例え、シノワスによって幕府が消滅したとしても、細川にとっての敵は山名であり、山名にとっての細川は不俱戴天の敵。
シノワスとの戦争が始まるはるか昔からこの両者は相争ってきたのだ。
山名宗兵は奇策などはとらずに艦隊を鶴翼の陣として船主を壱岐島に向けた迎撃体制で後退していった。