この婚約破棄、納得できないなら真相を暴いてしまえばいいのよ
きらめくシャンデリアの下で、私は不安な気持ちを隠して笑っていた。
「アデル様、今宵もお美しい」
そんなことはわかってる。鏡を見れば、自分のことくらい理解できる。
私はヴァルトウィン家の末娘。上流貴族の格式を支える名門の花。目立つなと言われても無理というものだ。
ただし、今夜は違った。
王宮で開かれる舞踏会。私は婚約者である王太子殿下、ギルベルトと共に出席していた。……はずだった。
けれど彼の手は、私の背に添えられることもなく、気づけば遠く離れていた。あれほど私を気にかけていた殿下が、今宵に限って一言も声をかけてこない。
何かがおかしい。肌が粟立つ。
ドレスの背中に感じる重圧、視線、沈黙。貴族たちが私を見ている。けれど誰も話しかけてこない。
「アデル」
その声に振り返ると、ギルベルト殿下が立っていた。紫紺の礼装、整った金の髪。誰もが憧れる完璧な王太子。その唇が、ゆっくりと冷たい言葉を紡ぐ。
「我々の婚約を、ここにて破棄する」
……は?
一瞬、意味がわからなかった。耳が変な音を立てる。
周囲がざわついた。誰かが小さく悲鳴をあげるのが聞こえた気がする。
「どういう……こと、ですの?」
私の声は、驚くほど冷静だった。震えてなどいない。私の中の何かが、すでに切り替わっていたのだと思う。
「国家の都合だ。君の家に落ち度があったわけではない。だが、これ以上この関係を続けることはできない」
国家の都合? 誰がそれで納得すると思っているの?
「お言葉、理解いたしかねますわ」
「アデル……」
「殿下」私はスカートを優雅に翻した。「ご説明は後ほど、公の場を外していただけますか? 貴方の王子としての威厳を守るためにも」
私の唇が描いた微笑は、おそらく今夜一番の出来だったと思う。
「婚約破棄ですって?」
屋敷へ戻った私に、姉のエリーナが叫ぶように言った。
「何を考えてるの、王太子は! 一方的すぎるわ!」
「落ち着いて、エリーナ。私は無事よ」
そう答える私の手は、小さく震えていた。だが、涙は出なかった。
父と母は、私よりも王家への怒りに震えていた。
「ヴァルトウィン家を何だと思っているのだ!」
「陛下に直接申し入れを――」
「いいえ」私は首を振る。「このままでは、私の価値も、家の誇りも踏みにじられるだけ。私が調べます」
父と母は驚いたように私を見た。けれど止めはしなかった。
ヴァルトウィン家の娘たる者、自らの名誉は自らの手で守る。それがこの家の教えだ。
翌日から私は、王宮の記録庫や侍従たちの動きを洗い出し始めた。
「アデル様、ここにあった文書が一部破棄されていたという報告が……」
「ありがとう、アナ。引き続き調査をお願い」
私の侍女アナは、今や唯一の味方だった。
その中で、ある男の名前が浮かび上がる。
――宰相、アルバート・ウェストリー。
冷徹な官僚として有名で、王太子からも一目置かれている人物。
そして、私の婚約破棄の発表の数日前に、王太子と何度も密談していた相手だった。
「宰相と話すにはどうすれば?」
「……アデル様、無理です! あの方は怖いです!」
アナの言葉に苦笑する。
「怖いからこそ、会うのよ。私の婚約破棄の裏にあるものを知るためには」
私は、冷たい扉の向こうに立つ男のもとへ、単身向かうことを決めた。
宰相アルバート・ウェストリーの執務室は、王宮の中でも特に重厚な雰囲気を漂わせていた。
私は背筋を伸ばして扉の前に立つ。
深呼吸一つ。震える胸を抑えて、扉をノックした。
――コン、コン。
「お入りください」
静かに響いた男の声は、低く、抑揚のない響きだった。
扉を開けると、宰相は広い机の奥で書類をめくっていた。整った黒髪と冷たい灰色の瞳。そして整然と並ぶ書棚。
部屋そのものが、この男の性格を物語っているようだった。
「……公爵令嬢が、宰相の執務室を訪れるとは珍しいことですね。ご用件は?」
「アデル・ヴァルトウィンと申します。少々、お時間をいただけますか?」
「婚約破棄の件ですね」
彼は書類から目を離さず、まるで私が何を言うかすべて予測しているかのように言った。
「やはり、あなたが関わっていたのですね」
「関わっていたというより、忠告はしました。王太子殿下にとって、貴女との婚約は不都合な点が多すぎる、と」
――カチン。
頭に血が上る音がした。
でも私は冷静さを保って、笑った。
「理由を教えていただけますか? 私のどこが“不都合”なのか」
彼はようやく視線を私に向けた。灰色の瞳が冷たく私を射抜く。
「強すぎるのです。貴女は、ヴァルトウィン家の娘でありながら、王宮内の影響力も持っている。貴女を王妃にすれば、ヴァルトウィン家が王政を凌駕しかねない」
「……つまり、私は脅威、ということですか?」
「そう解釈するのは貴女の自由です」
この男、なんて腹立たしいのかしら。
でも――
「なら、聞かせてください。私が王妃に“ふさわしくない”という判断に、陛下は同意しているのですか?」
私の問いに、アルバートは一瞬だけ視線を逸らした。
その仕草に、確信した。
「王太子が勝手に判断したのね。あなたの助言と、誰かの……もっと大きな意志が混ざって」
「それ以上は言えません」
「そうでしょうね。でも私は諦めません。婚約破棄を無効にするつもりです」
アルバートは机に手を置き、立ち上がった。
長身で、威圧感のある体格。なのに動きに無駄がなくて、獣みたいに静かだった。
「貴女のような人間が、王宮にいる限り、波風は避けられません。……だが」
「だが?」
「面白いものを見せてもらえそうだ。調査は自由にすればいい。私の知る限りの範囲なら協力します」
「協力?」
意外すぎて、思わず聞き返してしまった。
「条件があります」
「条件?」
アルバートは微笑まなかった。ただ淡々とこう言った。
「嘘はつかないこと。王宮で真実を追うには、己の嘘が命取りになりますから」
「わかりました。では、私からも一つ条件を」
「何でしょう」
「私の味方にならないなら、敵として扱います。王太子の傀儡だとわかったら、真っ先に糾弾しますので」
「……なるほど。やはり強すぎる」
彼がぼそりと呟いた言葉は、褒め言葉だと勝手に解釈した。
執務室を出た私は、廊下の窓辺で深く息を吐いた。
「……こわ……」
膝が少しだけ震えていた。
でも、なんとか第一関門は突破した。宰相アルバート・ウェストリー。彼が敵ではないことを、信じたい。
あの男は、ただ冷たいだけではない。むしろ、冷静であるがゆえに真実を突き止めようとする力を持っている。
そして私は、その力を利用するつもりだ。
「さあ、こっちの番よ。王太子殿下。貴方が私から逃げた理由……暴かせていただきます」
数日後、私はとある密会に招かれていた。
場所は、かつて王妃陛下――つまり王太子の母上が静養に使っていた離宮。現在は空き家として扱われているが、実際には王宮の中でもっとも人目に付きにくい場所だ。
扉をノックすると、控えめに返事があった。
「アデル様……こちらへ」
応対したのは、王妃付きだった老女官・モーラ。かつて私の教育係を務めた女性で、誰よりも礼儀作法に厳しかった人だ。
「まさか、モーラ様が私に声をかけてくださるなんて」
「貴女には、知る権利がございます。陛下が亡くなられてから、あまりに多くのことが闇に葬られました」
私は案内されるまま、静かな部屋に足を踏み入れた。
そこにあったのは、見慣れた紋章のついた木箱。――ヴァルトウィン家の紋だ。
「これ……」
「王妃様がご自身で保管なさっていた箱です。陛下の崩御直前に、“アデル様に渡してほしい”とおっしゃっていました」
恐る恐る開けると、中には数通の手紙と、詳細な帳簿が綴られた分厚い書類が収められていた。
目を通した瞬間、私は言葉を失った。
――これは、王妃様が追っていた“闇の支出”に関する記録。王宮の予算が、不透明な名目でどこかへ流れている。
「これ……横領? それとも……何かの資金工作……?」
私はその場で腰を抜かしそうになった。
しかもその中には、明らかに“王太子の署名”が入った文書まである。
「……これを王太子が知れば……」
「すでに、彼も関与しておられます。ですが、王太子殿下は途中から後戻りできなくなったのです。彼は、王妃様を裏切りました」
「……じゃあ……私との婚約を破棄したのも……」
私は奥歯を噛み締めた。
納得がいった。名誉を守るためでも、政治的事情でもない。
私を遠ざけたのは、“知りすぎる前に黙らせる”ため。
――あの人は、もう“王太子”ではなく、“王の座を狙うための操り人形”なのかもしれない。
「面白いものを手に入れましたね、アデル嬢」
数時間後。私はその資料を持って、宰相アルバートの執務室を訪ねていた。
「これは、陛下の署名も混ざってます。王妃様はそれを追っていたの。最期まで、正義を信じてたのよ」
アルバートは手に取った手紙をじっと見つめたまま、長く沈黙した。
「……父上が死んだ理由、わかった気がします」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
「私の父は、先代の宰相でした。ある日突然、不審な事故で亡くなった。ちょうど、王宮の会計を調べていた最中だったと聞いています」
私は言葉を失った。
「……じゃあ、貴方も……」
「私は、父の遺志を継いで宰相になったのです。感情を捨てて、誰にも情を見せず、ただ……真実にたどり着くために」
「……だから、冷たい顔をしてたの?」
少しだけ、口角が緩んだ。珍しく、感情のある顔を見た気がした。
「貴女は強いですね。資料を持ってくるだけでなく、これを使って戦う覚悟もある」
「当たり前でしょ。私の婚約を潰した相手よ? 泣き寝入りするほど優しくないの」
「では、共に行きましょう。敵は思ったよりも大きい。――次は、王政を揺るがす戦いになります」
アルバートの瞳に、初めて炎のようなものが灯っていた。
私は頷いた。ヴァルトウィン家の令嬢として、そして一人の女として――私は真実に向き合う覚悟をしたのだ。
「ふふ、面白くなってきたわね」
「……よく、ここまで来られましたね」
王太子――いいえ、今や“次期国王候補”の筆頭とされる男は、玉座の間の中央に悠然と座っていた。
「まさか、王妃が残した密書を見つけるとは。あれを隠すために、どれだけの血と時間を費やしたか……」
「貴方がそれを語る資格はないわ」
私は真っ直ぐに彼の前に立った。
隣にはアルバート。彼が堂々と宰相の衣をまとっているのが、心強く思えた。
「貴方が私との婚約を破棄したのは、私が“知りすぎる前に排除する”ためだったのね」
「……そうだ。君の家は古くから政財に通じすぎていた。王妃がそれを利用しようとしていたと気づいた時、私が動かねばと思った。父の座を継ぐには、君と結ばれてはいけなかった」
その声に、かつての優しさは残っていなかった。
「それで、愛を利用したのね」
「政治のためなら、愛など安いものだ」
「……ふうん」
私は、そっと笑った。怒りより、もう呆れていた。
「残念ね。私はまだ、あの夜のことを覚えてるのよ。舞踏会であなたが言った“幸せにする”って言葉、全部嘘だったってわけね」
「嘘ではない。だが、あの時の私と今の私は違う」
「それは、ただの逃げよ」
私の手にあるのは、王妃の密書。そして、アルバートが集めた証拠の数々。
「これが、王家と王宮の腐敗を裏付ける決定的な証拠。民の前に出したら、王家の信頼は地に落ちるわ」
「……それを盾に、何を望む」
「私たちが望むのは、真実と改革」
アルバートが一歩前に出る。
「王妃の遺志、そして先代宰相の志。それを引き継ぐ者として、私は“王政の再構築”を提案します。腐敗した幹部の排除と、透明性のある財政体制の導入を」
「それは、王家の権威を否定することになるぞ」
「それでもやるべきです。陛下の名を汚したのは、他でもない、貴方自身だ」
静寂の中、王太子は立ち上がり、玉座の間をゆっくりと歩いた。
「……アルバート、貴様まで……。アデル、君もか……」
「ええ、私もよ」
私は一歩、彼に近づいた。
「でもね、まだ憎んではいないの。ただ――とても、とても悲しいの」
そして、その日を境に、王政は大きく揺れた。
王太子はその座を自ら降りる道を選び、遠方の領地に隠棲することになった。
王妃の遺志は公にされ、王政改革の動きが国内に広がっていった。
そして――
「アデル、君は本当に、すごい人だ。あの夜の勇気を、私は一生忘れない」
「ふふ、今さら何を照れてるの、アルバート」
王宮の庭園。夜明け前の空に、淡い光が差していた。
アルバートは、私の隣で静かに目を閉じていた。
「君と出会って、初めて“希望”という言葉を信じられる気がした。冷たい仮面を外して、生きていけるかもしれないって……」
「だったら、試してみましょう? これからは、二人で」
私は彼の手をそっと取った。
父の誇りも、母の笑顔も、失ったものは多いけれど――それでも、私はもう前を向いている。
新しい時代を切り開くために。自分自身の人生を歩むために。
――夜明けの光が、私たちを静かに照らしていた。