描けるのに結べなかった結び目は解けるようでした
「とうとう、、、、やってきて呉れたんですね」
「だって、インフルエンザで休むなんて言うから。・・・・・それが分かってくれたんでなければズル休みなんてするヒトじゃないから」
「すぐにズル休みだって、分かりましたか」
「わたし、電話応対のプロよ。どのくらいこのお仕事してると思っているの」
「100年・・・・」
「いいえ、121年よ。明治34年にこの街に電話交換機が出来たときの第一号から。いまでもこんなに若いテレフォンレディでいられるのは、天然の炭酸泉で作ったサイダーのおかげ」
「ぼくがつくったサイダーだもの。もちろんぼくも、毎朝一本飲み続けてるよ。だから、いまでも枯れずに死なずにこうして生きています。とても160齢とは思われない・・・・せいぜい55歳のくたびれたオっさんだ」
「わたしは3つ上のお姉さん。でも、テレフォンレディは若いお嬢さんの印象が大切だから、いつでも23歳でとおしてるわ」
「新卒入社2年目の・・・・・早川さん」
「リタイア間近の・・・・・メルケル」
120年の間ずっと先延ばしにしていた今日がやってきました。ふたりは初めて逢ったように見つめ逢います。
大戦の前でも、40年の間でも、見つめ逢う必然は何度も何度もあったのです。大戦の後からの80年だって、機械の進歩によるダイヤルを回したりボタンをタッチするだけの電話機を使って、お喋りだって告白だって心を伝えることはできたのです。でも、やっと、こうして、見つめ合いお互いを呼び合うまでに辿り着きました。
見つめあいながら名前を呼びあえば、男と女が次にすることは口づけです。
はじめての口づけには時間は要しません、一呼吸より長く二呼吸より短く口びるは離れます。
「やっぱり、わたしたちの口びるってコケモモの香りがする」
そのままを口にしたのは早川さんが先でした。メルケルは続けます。
「わたしたち二人の源泉ですから。メルケルのサイダーは、ケルトの紋章の決してほどけない結び目のラベルのついたシュワシュワの炭酸泉、コケモモの香り、永遠の命、永遠の若さ。いまはもうわたしたちしか飲めていない同じ匂いの源泉ですから」
「でも、メルケル。あなた、ジイさんみたいじゃないの。キスしてるわたしたちを見て、どの時代のどの世界のひとたちも二人をあたりまえの恋人だとわ思わないわ」
「男は女とは違います。若さそのもの自体には執着しません。齢を重ねたのに皺さえ刻まれない顔に飽きてくるのです。これくらいというところまで流してみたくなるのです」
「皺ひとつない顔に飽きるなんて・・・・贅沢で面倒くさい生き物ね、男って」
「でも、首から下は変わってませんよ」
メルケルは、ケルトダンスを披露します。おヘソから上を、顔の表情だって変えずにステップを踏んでいく、いまはアイリッシュダンスの名前がしっくりくる女の子が一列や二列に並んで披露するあのダンスです。
でも、メルケルがケルトダンスのステップを踏むのは大正天皇崩御の歳が最後でしたから、ちょうど100年ぶりです。1週間しかなかった昭和元年のクリスマスの日だったので、それはようく覚えています。
それでも、母校の校庭に孫のような女の子を連れて50年ぶりに逆上がりを披露する還暦間近のジイさんと同じくらい完璧に決まります。
6歳の女の子にしたって23歳の電話交換手のお姉さんにしたって、若くない男なら、せめてカッコよく決めなければ相手にされません。
早川さんはニコニコ顔の拍手でメルケルを称えてくれます。
年上の女がしてくれる相手の男に恥をかかせないよう、それに気づかせないようにしながら、男のガキっぽさをクールダウンさせて、本編の方に導きます。
知りたいことをキチンと伝えるのがプロの電話交換手ですから
「ねえメルケル、早く回して。回した数だけ炭酸泉の泉は沸き上がってくるのだから。もうわたしたちのサイダーは、明日と明後日のあと2本づつしか残っていないのだから。」
メルケルは、ふたりの現実にもどります。
現実とは、あんなにも大勢の人工を使ってあちこちバラバラの回転ジャングルジムを元どおりに拵えて、ズル休みまでしてようやくにこのサイダー工場跡地にやってきた目的です。
早川さんはひとつだけ間違っています、残りのサイダーの本数は明日の分のあと2本だけです。でも、メルケルはそのことには触れません。臆病のふりまでして早川さんを奮い立たせます。
「ぼくはこんなギリギリまでするつもりはなかったんだ。業者たちには、自分の得意分野でけやってくればいいからと、早川さんのいうとおりいまの世間様のコンプライアンスに合うように優しく頼んだのに、最新性能の機械まで使ってあんな大勢でよってたかってやってたのに、10日もかかるんだもの。やっとこうして回転式ジャングルジムを地面に突き刺しても、井戸は戻ってくるんだろうか、湧き出てくれる水はいつも飲んでる炭酸泉なんだろうか、噴水のように炭酸泉が再び湧き出てきても、それに入れるコケモモのジャムはつくってないし、サイダー瓶だって、家にある空瓶は10本しかないんだ。早川さんの分をいれたって20本しかないんだ。それにラベルを印刷するための機械だって見つけてこなけりゃいけないし・・・・」
「メルケル、あなたいつからそんな遠い先の悩みごとばかりを並べたてるつまらないお喋りするつまらないオッサンに成り下がってしまったの。そんなことはどうでもいいの。大切なのは、わたしたちふたりがはじめてここにやってきて、互いの名前を呼んで口づけして、これから始めること。それに二人の意味があるんだから」
そういって、早川さんは回転ジャングルジムを回します。メルケルは向かいに廻って身体を預けて力を貸します。
回転ジャングルジムはゆっくり回り始めます。一回転、二回転、三回転、四回転・・・・回転のついたジャングルジムに身体を預けて引っ張られ一緒に回る早川さんは幸せそうです。メルケルは8回まで回します。これ以上回すと早川さんの目が回って「たすけてぇー」の悲鳴が出てくるまでの処まで回していきます。
足を離したメルケルの身体も早川さん同様にふわりと浮いて回っていきます。
いつもそこに存在しているかたちがメルケルを幸せな心地にしてくれます。
もう、仕事もズル休みも、先の大戦も160年の齢も、サイダーにコケモモのないことも早川さんのいないことも、飛んでいきます。
早川さんと炭酸泉が消えたら、メルケルに残るのは、シュワシュワが浮かぶ感じだけです。そんな軽やかに浮かんでいたら、サイダーのラベルの描けるのに結えない結び目は解けるようでした。
最後までお読みいただきありがとうございました。
童話ですので、漢字にかなを振ってつっかえないように、筋立てに余白をとって好きな絵を描けるように気を配りました。