電話交換手の早川さん
サイダー工場を作ろうと決めた晩に、メルケルがお友達になった電話交換手の中で一番に仲良くなったのは早川さんです。
「アノさぁ・・・・、トっても素敵な炭酸泉が手に入いったんで、コレでサイダーをつくって、街のひと大勢に飲んでもらいたいんだけど、どうしたらいいデスか」
いつものように、電話口に出た早川さんにそれを伝えます。
それを電話で伝えたときはお友達になる前ですから、出てくれた電話交換手が早川さんとは知りません。「いつものように」とは、メルケルが、乗ってきた船にオートバイごと一緒に置いてけぼりになったこの女の街で、はじめて接した女子に声を掛けるメルケルのクセになった言い回しです。
話し出しの、あたま出しの先っぽの方に、鉤鼻がかったカタカナをくっつけて話し出す、いつもの調子のことを指すのです。猫に木天蓼というくらいに女子はそれに弱いのです。
白衣でも着て居ずまいを正した顔で言うなら、鼻濁音です。
流行歌には切っても切れない隠し味です。まだまだ流行歌を録音したレコードはひとびとの目の前には現れていませんでしたから、それから十数年後に初めてレコードで流行歌を聞いたメルケルは、開口一番にどこで自分の隠し味を盗まれのだと感じました。
まだ、日本に来て1年も経っていない、この日本一長い砂丘の街で置いてけぼりを食らってるものばかりとしか感じていないメルケルは、十数年後にレコードを初めて聞いたとき、聞いたことのない自分の声を連想するなんて思いもしてませんでした。
もっと早くにレコード歌手になっていたら、サイダー工場より先にお大尽の仲間入りが出来たのに
この女の街でお大尽たちと一緒にお座敷遊びそびをしてるとき、酒を飲めない男も女の誰もが飲み飲み物にまで広がったメルケルのサイダーを飲みながら、メルケルは憧憬を感じたのです。
置いてけぼりを食らって20年しか経っていないメルケルは、まだ憧憬を意識はしませんでしたが、きれいな芸者さんの指で葡萄酒のようについでもらったサイダーのシュワシュワしてる泡のつぶ音に耳を澄ますと、その言葉が表す感じをしったのです。
それから憧憬が訪れる度、メルケルはきれいな10本の指でつがれたサイダーのシュワシュワが流れてくるのです。
それは、早川さんと繋がっていました。
電話交換手の早川さん、電話機の声を通じただけのお友達、電話機交換のお姉さんたちは皆んなメルケルのお友達になってくれましたが、早川さんは特別です。
だって、鼻濁音だもの
鼻濁音の言葉も20年後に知ることになるのですが、掛けたその晩に習得しメルケルと同じ鼻濁音で返してくれたのは早川さんだけでした。
恋なのかも
恋はすぐに分かりました。だって、恋はメルケルの生まれたお国の方がもっと早くにそれに気づいて、言葉に、詩に、物語りにしてきたものですから。