明治の御代にサイダー工場を始めたのはドイツ人のメルケル
方々に散らばっていたそれらの部材がサイダー工場の跡地に搬入され組み立てが始まり設置されるまでに掛かったのは、わずか3時間でした。3時間を「わずか3時間」というのは、それまでに大勢の職人によるてんで勝手のおおばらこくたいの作業を含めると全部で十日掛かりでしたから、3時間なんて本当にもう「あっ」という間な感じだからです。
まず、はじめに、跡地のその辺りに作業人らしき人が集まり、モゾモゾを始めたました。
職人ですから皆んなその道のプロという感じで、自分の頼まれた仕事に選りすぐりの道具を持参して誇らしげにそれらをキビキビと使い、自らの分を終えるとサッサと帰っていきます。作業をする人と道具はあんなにも溢れているのにそれらが向かう相手の材料の何ひとつ運ばれていない現場は、夕方になるとお祭りのあとのように仕事にかかる前の朝と何ひとつ変わったところは見つかりません。
お天気の日も雨の日も、それは続きました。
大勢が行き来し、大勢が囲み、たくさんの作業があってもいままでと同じサイダー工場跡地のままです。なにか古いものを甦らせたり、新しいなにかが出来たりの気配は感じられません。
此処はおおよそ130年前の明治の御代に雪の深いこの街にやってきたメルケルという名前のドイツ人が始めたサイダー工場の跡地です。それ以来の跡地です。シュワシュワのサイダーを薄青のかかった分厚いガラス瓶に詰めて。削り出しの荒い木箱に20本づつ納めて出荷していった工場があった跡地です。
そのドイツ人の山師は女子が売りのこの街に10日間居続け、連れてきてくれた船はあきれて帰ってしまい、仕方なくこの街のお大尽に頼まれた井戸を掘って、暮らすことになりました。
あてがわれた住処に、馴染みから貰った使い古しの打掛を肩掛けに、俯き加減の腕組みなんかしてると、開けっぱなた表の方から声が掛かります。
「井戸を掘っておくれ。家族中のものが、店中のものが、皆んな一斉に入れるようなヒノキ風呂を拵えるから、そこにたっぷりの水を張るための井戸を掘っておくれ」
「湧水を汲み出しておくれ。両抱えしてもはみ出すくらいに大きな三色の鯉をウヨウヨ泳がす池を拵えるから、池が波打つくらいに力強い湧水を掘っておくれ」
「温泉を湧かせておくれ。雪を一度も見たことないような南の海に温泉が湧くのに凍てつく北の海に湧かないなんてはずはないから、冬になってもすぐに真っ裸になりたくなるくらい熱い温泉を掘っておくれ」
ドイツ人の山師は、そんな喧しい注文にもお大尽たちがぐしゃぐしゃの笑みをうかべる満足する井戸を湧水を温泉を次々と掘り当てていきました。
でも、顔をグシャグシャにするほど満足してたのはドイツ人の山師です。
ここに住む人たちは誰ひとり知らないのだ。ここはホンシュウで一番大きな砂丘があるのを。水脈を見つけ眼さえ整えば、針り師が肌を突くように砂丘の中に溜まった大昔からの水が噴水のように捻り出てくるのです。
そんなドイツ人の山師にも風向きが変わりました。風に良い風も悪い風もありません。ただ向きが変わっただけです。
街一番のお大尽に頼まれて堀った井戸からは、炊事をする水もなく風呂代わりの温泉でもなく、シュワシュワする冷たい水が湧いてきました。「おぉー、これは素晴らしい炭酸泉だ」と、ガラスコップにいれて、そのシュワシュワ泡の出る水を大事そうに美味しそうに飲んで見せてやりました。
ところが、炊事や風呂には使えず熱い温泉でもないシュワシュワするばかりの冷たいその水を掌にしたお大尽は「このペテン師め」の捨て台詞を吐くと、ここいらのものをすべてうっちゃらかして、とっとと帰ってしまいます。
たくさんの炭酸の入ったすばらしい鉱泉のうまさにうっとり顔のメルケルは、真っ赤になったお大尽の顔もこの後もらえるはずだった大金もすっかり脇に置き、すっかりあたまに血の上ったお大尽から、びた一文渡さないと言われた代わりに、うっちゃらかしたこの土地を譲り受ける念書をちゃっかり貰って、「なんて、もったぇねぇ。知らないとはまるで金をどぶのように扱うことだてぇ」と、ここいらの婆さん言葉でほくそ笑みます。