いじわるな神様
物語の結末はハッピーエンドの方がいい。誰もがそう思うでしょう。でも、それが本当に幸せとは限らない。幸せの形はいくつもある。そう。無数にね。
わたしは、その無数の出会いの中から。彼女について話そうと思う。これは、ふつうの恋愛物語。と言いつつ。ふつうの恋愛物語とは違うかもしれない。
だって、彼女は、もう死んでいるんだから。
これを、ふつうと表現するのは、少し、おかしいかもしれないけど。
それは、この物語を読んだ。あなたに任せることにする。
「ねえ。早く早く。こっち来て……」
「そんなに急ぐと危ないぞ」
「だいじょうぶ! だいじょうぶ! こう見えて私。小さい頃から運動神経だけは良かったんだよね。もちろん、クラスで一番。えっへん!」
「それは小さい頃の話だろう? 今はどうかな〜。この前、机の角に足ぶつけてただろう」
「な! なな、なんで、知ってるの?」
「見てたから……。あれは痛そうだったなー」
「むぅ! そういう時は見てないで、何か優しい一言でも掛けてよ! 痛くない。大丈夫、みたいなーっ! そんなんだから、いつまで経っても女心が分かってないって言われ続けるんだよ?」
「……うっ。……反省します」
「……よろしい。じゃあ、次、目の前で女の子が困っていたら?」
「何かお困りですか? と、優しく声をかける!」
「ただ声を掛ければ良いというわけじゃないわよ。女の子は、ちゃんとそういうところも、見ているんだから」
「わかった、わかった。あれだろう? 思いやる気持ちが大切なんだよな」
「そうよ? だから、私のことも……ちゃんと大事にしてね……」
*
あれからもう五年が経った。時々、こうして昔のことを思い出すんだ。
彼女と過ごした三年間は、オレの中で、今も輝き続けている。
ほんっと、あっという間の出来事で。とても充実した日々だった。
彼女の笑顔が好きだった。
彼女の作る料理が好きだった。
彼女によく怒られたりもした。
そんな彼女と一緒に過ごした時間は、とても温かくて、そして幸せだった。
だけど、オレは前を向いて生きて行かないといけない。
だから。彼女との思い出は、ここに置いていく。
オレ……今度結婚するんだ。……みゆきとは違う女性。
こんなこと言うと、また、みゆきに、怒られてしまうかもしれない。
でも、たくさんの思い出をありがとう。
本当に好きだった。
大好きだった。
だから、これで最後にする。
今まで本当にありがとう。
さよならは。いわない。
彼は新たな一歩を踏み出した。
その先には、きっと輝かしい未来が待っている。
あなたはどうするの。
あなたはその一歩を、踏み出す。
それとも、このままわたしと一緒に、見ている。
「……私は」
最初はショックだった。
私の知らない女性が優馬の家の中に居て。そして、キスしていたのだ。
「……うそ。……よね。……だって。……えっ……え?」
私よりも若い女性、髪はゆるふわで、それでいてショート。背は低く目はパッチリ、それはまるでハムスターのような可愛らしさが、その子からは滲み出ていた。
優馬のやつ……。
「これは言い逃れできない、立派な浮気。浮気現場よ!」
人生ではじめての経験だった。
ほんっと、こういうのは、テレビの中だけにしてくれよと、本気で思った。こんなことが実際に起こるわけがない。そう、昨日まで、完全に信じ切っていた私は、言葉を失い。それはやがて怒りのボルテージを一気に振り切り、その針は磁場を失った方位磁石のように、ぐるぐると回り続けていた。
私は、ずけずけと、優馬の家の中に入り、手の形をグーにして怒りの矛先を優馬にぶつけるのである。
すっか……。
「……えっ?」
何が起きたのか、わからなかった。私の渾身の一撃が、優馬には当たらなかったのだ。
避けたとか、そんなんじゃない。優馬には、そんな素振りは一切なかった。私の拳は、あの憎たらしい、優馬の顔を振り抜いたはずなのに、これはまるで……。
すり抜けた?
そう、それ! すり抜けたの。
こんなことある!?
それから何度も、この拳を振り下ろした。
今度は本気で。……すっか。……まだまだ。……すっか。……まだ。すっか。はっ。……すっかすっかすっかすっかすっか……。
いつまで同じことを続ければいい。
いつになったら。私の手は、あなたに届きますか。
それでも、私は手を下ろさない。正直、もう疲れた。最初はショックだったけど。今は許してやっても、いいと思ってる。
だから、ね……。話そうよ! そんな女じゃなくて、私を見てよ。私の名前を呼んでよ! ねぇ。……優馬ぁ。
私は、この手を止めた。最初から、何かおかしいと思ってたんだ。私が家の中に入ってきても、優馬は驚かなかった。焦ってすらいなかった。普通、彼女が家の中に入って来たら、驚くところでしょ?
でも、優馬はまるで、そんなことなかったかのようにその女と、楽しそうに会話を続けている。
それが許せなくて、怒った。……でも、そうなんだ。なんとなく。わかったよ。
……私……やっぱり……あの日の夜に……死んだんだね。
*
私は優馬と、町に出掛けた。
あの日はちょうど、私の誕生日。だから不器用ながらも、精一杯、御粧しした。ただ綺麗な私を見て欲しくて、少し前から練習してたんだ。でも、やっぱり、上手くいかない。
……私。……メイクの才能ないのかなぁ……。
そんな、あまりメイクが上手くない私を見て、優馬は頬を赤くしながら「可愛い」って言ってくれたのが、とても嬉しかった。
だから、つい、優馬をからかっちゃうの。私の悪い癖……。
それから色んなお店を見て回った。
優馬のやつ。私の歩くペースも考えずに、どんどん先に行っちゃうの。だから私、「優馬と一緒に歩くの疲れた。もう歩きたくない!」なんて、ぼやいていると、優馬が私の手を握ってきて、そのまま何処かにグイグイ引っ張って行くの。
優馬の、手を引っ張る力が、とても強くて驚いた。
「ここは……」
着いた場所は、とても懐かしい、公園だった。
「はい。これ……」
「……ありがと」
近くの自販機で買った、水を受け取る。
走った後の水は最高だった。身体の熱が徐々に引いていくのがわかる、風がとても気持ちいい。たまに走るのも。悪くないかも。
優馬は買った水を、一気に流し込む、そんなに焦って飲むと、ほら、思ったとおり。飲んでいた水で、むせていた。
「ばーか」
「さ、さすってくれ! 死ぬぅ……」
「はい、はい」
優馬の背中をさする。ほんっと、しょうがないなぁ。
「なあ? 少し目をつむってくれないか?」
「うん? なんで?」
「いいからはやく!」
「うーん……。どうしようかな。私、いま、目をつむってしまうと死んでしまう病気にかかってるからな」
「そんな病気、聞いたことないぞ!」
「そりゃ、そうでしょう。だって、今のは私が作った病気だから、ちなみに、うつるよ……?」
「こわいわ!」
「あっははは。だよね」
「いいから目をつむれって」
「変なことしない?」
「しない」
「神に誓って?」
「神に誓って」
「私にすべての財産を譲る?」
「なんでだよ!」
「冗談」
「いいから早く目をつむれって、なにもしないから」
「……はあ……わかった」
「よしっ、もういいぞ。……目を開けて」
「……うわぁぁ。……きれい」
目を開けると、私の首には、綺麗なネックレスが掛けられていた。
「誕生日おめでとう。どうかな。気に入ってくれた?」
「うん。すごくいい、大事にするね」
「ああ」
優馬が照れ臭そうに笑う。
「ねえ……優馬………」
「なんだ……。っ……!」
優馬の唇を、私の唇で、塞いだ。
「えっへへ。プレゼントのお返し」
「い。いきなりキスは、ずるいぞ。なんというか、その……」
「あれ、あれ〜、もしかして初めてだった?」
「わるいかよ!」
「じゃあ、優馬のはじめては私か……なんだか嬉しいな。プレゼントより嬉しいかも」
「おいおい、そりゃないぜ」
「冗談!」
「またそれかよ」
「ねえ? 優馬……」
「な・ん・だ・よ・っ!」
「……私ね。実は初めてだったんだ。……キス」
「……うっ。……冗談では」「ありません……」
「……ううううう……ず、ずるいぞ!」
「あっはははは、行こう。私、お腹空いちゃった」
「おい、待てよ!」
あぁああああぁあぁ!!!! や、やってしまった。あんなにも大胆に。むり、恥ずかしすぎる。恥ずかしすぎて、窒息死しそう。むり、見れない。今、優馬の顔を見たら、きっと赤面のあまり即倒しそうになる。
自然と足が速くなった。
「おい、置いて行くなよ!」
「むーり――!」
今日は最高の誕生日だった。本当に幸せだった。こんな幸せがずっと続けばいいのに。
「……ああ、ああ。どうして楽しい時間ってこんなに早く過ぎてしまうんだろ」
「世界の七不思議の一つだよな」
「そうそう。あれ何でだろうね?」
「時間はみんな平等なのに、そう感じさせない。きっと悪い神様の仕業に違いないぜ」
「そっかー。……なら仕方ないね。人間、神様には勝てないもん」
「そうか?」
「そーだよ」
「……」
「……もう。この話は、ここでやめにしようぜ」
「そう。……だね」
いやッぁぁあああぁぁ!!! 誰か止めてっ!!――
「なんだ。なんだ。……て、ちょっ! 待て! 行くな――っ!!!!」
止めようとする優馬の声を、私は無視する。
走り出した身体は、もう止まらない。私は全力で走り抜ける。そして手を伸ばし――間に合った――と同時に、私の身体が宙に浮く。
世界がゆっくり反転する中。無造作に身体は硬い地面に何度も打ちつけられ、転がって行く。頭を強くぶつけたせいか、視界が歪む。それでも薄れゆく意識の中――私は最後まで、見届けた。
「………よかった…………まにあって……」
*
夕暮れ刻。
私は公園に来ていた。
優馬と初めてキスした公園。
私はあの後、家を飛び出した。……とても堪えられなくて……私には無理だった。
優馬は私を見てくれない。私の名前を呼んでくれない。……こんなにもすぐ近くにいるのに、私は優馬に触れることすらできないッ! そんな現実が……とてもつらくて。私はここまで逃げてきた。
大事な事を思い出した、私はあの日の夜。車椅子のお婆さんを助けようと、道路の真ん中に飛び出した。
信号はすでに赤に変わっていた。だけどお婆さんは道路の真ん中から動かなかった。いや、動けなかったんだ。
お婆さんは苦しむ様に自分の服を強く握っていた。呼吸も荒い。もしかしたら心臓が悪いのかもしれない。
そこへ一台の車がやって来た。
運転手は携帯をいじりながら車を運転していて、周りがよく見えていない。顔を上げた時には、もう遅い。とっさに踏み込んだ急ブレーキは、間に合わない。車は徐々に、お婆さんの元へに近づいてくる。
それにいち早く気付いた私は誰よりも早く動きだす。こわいとか、そういうのはなかった。それよりも、間に合え! という気持ちの方が、強かったんだと思う。そして私の足は、お婆さんの元へと急がせた。
車椅子を力の限り押し出す。その衝撃で、車椅子は前へと進み出した。
が、その代わりに。今度は私が、お婆さんの代わりに、車にはね飛ばされる事になった。
……自業自得だ。
何も考えず、感情だけで行動してしまう癖は、大人になった今でも。治ってなかったようだ。
だけど私は、間違ったことはしていない。これは正しい判断だった。そうじゃないと、私が報われない。
………本当にそうかしら?
「えっ?」
突然、声を掛けられて、驚いてしまう。
だって、私の姿は、誰にも見えない。
この公園に来るまでに、何人もの人とすれ違った。だけど、私の存在に気づいた人は、一人いなかった。
まるで空気のように私の身体をすり抜けては、そのまま何処かに行ってしまう。
ぶつかった事にも気付かない。すれ違った事にも気付かない。それはとても寂しいこと。
私が死んでしまった事を実感させられる。一番の瞬間だった。
「あなたは私のことが、……見えるん……ですか……?」
どこか神秘的なオーラを放つ、少女。私の目にはそう見えた。
絹の糸のように透き通った白い髪、白い肌、そして赤い瞳。
見た目は少女なのに、そう感じさせない、どこか大人びた雰囲気を持っていた。思わず息をのむ。
私は勇気を出してらその少女に声を掛けた。
……だけど。
もしかしたらこの少女は、ただ独り言をいっていただけかもしれない。もしそうだとしたら、私の心は、また深く傷ついてしまう。
期待すれば期待するほど、それに比例して、私の心もどんどん傷ついていく。だからもし、これがただの勘違いだったら。私はもう何も期待しない。
「安心なさい……ちゃんと見えてるわよ……くすくすくす」
その言葉に、どこか救われたような気がした。
「あなたはどうして私の事が見えるんですか?」
「神様だからよ……だからわたしには……あなたが見える」
「……神様?」
「そうよ。神様。わたしは神様。それじゃ納得いかない?」
「いいえ。正直……あなたが何者でも構いません。私はただこうやって誰かと話せるだけで、それだけで。どこか救われた気がします」
「そう。それはよかったわね……」
「…………………」
「なにかしら? そんなにわたしの顔をじっと見ても、何も出ないわよ?」
「……私はこれからどうなるんですか。神様であるあなたが私の前に現れたということは、きっと私は。ここにいてはいけない存在なんですよね。何となく分かってはいるんです。本当は、ここにいてはいけないことくらい」
死者には死者の世界があるように、優馬が生きるこの世界は、生者の世界。死者である私は、本来なら黄泉の世界へと旅立たなくてはならない。だけど私は、私のわがままだけでこの世界に留まり続けている。
そんなわがままがいつまでも通じるはずがない。だからこうして、神様が直々に私の元を訪れたのだ。
「そこまでわかっているなら。話が早いわ。よく聞きなさい。立花みゆき。あなたは今すぐ、この世から立ち去るの。でないと、あなたはいずれ悪霊に変わってしまう。嫌でしょ。そんなの。……わたしは沢山の死者を見てきたか、わかるの。その中には、あなたと同じようにこの世に留まり続けようとする者もいた。そしてその死者の末路は、どれも悲惨よ。悪霊となってしまった死者は、自我を失い。それはやがて自分の愛する者まで被害が及ぶようになる。死者はさびしがり屋だから、自分の好きな人まで、道連れにしようとするの。そうなってしまったら最後。わたし自らの手で、その悪霊を消すことになるわ。『消す』ということは、その存在全てを『奪う』ということ。つまりね。『いない者』になるの。最初から、この世に存在しなかった者。それは記憶にも残らない。誰も覚えていない。存在そのものが無かったことになる。それが、『消える』ということ。想像してご覧なさい。自分の愛する者に全てを忘れ去られることは、どんな罰よりも重く。それでいて、残酷よ……」
私は想像する。優馬に全てを忘れ去られた、自分の姿を。
っッ。いやだいやだいやだ。優馬に忘れられたくない。そんなの、絶対にイヤ。
優馬との思い出がなくなったら、今の私には何も残らない。そんなの、あんまりだよ……。
「……ぅぅぅ……っ……ううううぅ……」
「はぁー、泣かないで、立花みゆき。これもきっと何かの縁よ。あなたには、少し時間をあげるわ。助けてもらった恩も、あるし……」
「え?」
もう私の前には、あの神様の姿はなかった。
霧のように現れては、すぐにどこかに消えてしまう、そんな不思議な存在。それがあの神様だ。
*
私は神様から少しの時間をもらった。
少しの時間といっても、一体どれぐらいの時間が残されているのか分からない。それは、もしかしたら今日までかもしれないし、もしかしたら明日までかもしれない。正確な時間がわからないからこそ、私はそれがいつ終わってしまうのか不安に駆られる。
この世に永遠と呼べるものが存在しないように、それもまた、いつか終わってしまうもの。幸せもまた有限。長くは続かない。あの幸せの中にいた頃の私には、絶対に気付かなかったこと。私はそれが永遠に続くものと、思い込んでいたから。
幸せを手放さなければ。その努力を怠らなけらば。それは永遠に続くものと、信じて疑わない。
だけど、幸せは有限だった。
それは賞味期限のようなもの。切れてしまえば、勝手に何処かに行ってしまう。
いくら私が手放したくなくても。それは、私の手元からすり抜け、どこかに消えてしまう。
それが、わかっているから。私はこの限りある時間を、大切にしたい。
……いつ終わってしまっても、……良いように……。
それから、一日一日を大切に過ごした。
やっぱりあの神様はいじわるだ。そう心に思う。
*
「お〜い。そんなに毎日コンビニ弁当食べてたら、栄養偏るぞ〜! て、聞こえてないか……とほほ…」
行く宛もない私は今は優馬の家に住んでいる。というか……住みついている。
私が元住んでいた場所には別の誰かが住んでいた。名前も知らない人、さすがに気まずかった。
どうやら私が死んでから、だいぶ時間が経っているようだ。……時の流れとは、無慈悲なものである。
何言ってんだろう。……私。
気を取り直して。
優馬と一緒に過ごせるこの時間は本当に幸せだった。こんな時間がいつまでも続けばいいのに、と思う反面。
やっぱり、どこか寂しい……。
心の真ん中に、ぽっかり穴が開いてしまったような……。そんなさみしさ。これはちょっとやそっとではとても埋めることが出来ない。私の時間は、あの日からずっと止まったままなのだ。
最初は優馬に気付いてほしくて色々と試してみた。
けど、どれも失敗に終わった。
腕は確かにあるのに。私の手は、物を掴む事が出来ない! だから窓を叩いて驚かしてやる事も出来ない。
……ちょっと残念。……きっと優馬、驚いただろうなー。
私は優馬を眺める。
優馬はテレビを見ている。
………そして……。………私の。……一番、イヤナジカンが、来た……。
突然、部屋に鳴り響く呼び出し音。
この音が嫌いだ。嫌い嫌い、大っ嫌い。私と優馬の時間を奪おうとする。ホント、嫌な音。
「優馬〜、遊びに来たよ〜、って。またそんな体に悪い物ばかり食べてる! ちょっと待って、私が代わりに何か作ってあげる」
「いいよ……別に、そんなに気を使わなくても」
「だめっ! 優馬にはいつまでも元気でいてほしいもん。私たちの将来のためにも、……ね?」
優馬は照れ臭そうに笑う。
私に向けてではなく、その女に向けて。チクリと、針のようなものが刺さったような気がした。おかしいよね。私には、……針なんて刺さるような体なんて無いのに。
……でも、痛い。
すごく痛いの。体の奥の部分が。すごく痛い……。
ふ〜ふぅ〜ふ〜♪ ふぅ〜ふ〜ふぅ〜♪
台所でひとり。あの女が鼻歌混じりで料理していた。
その場所は、私の場所なのに、今は別の女が、その場所に立って料理している。何食わぬ顔で。当然のように……。
……ねぇ。あなたはその料理を、いったい、ダレに振る舞おうとしているの。ダレの許可を得て、そこに立っているの。なんでワタシではなく、アナタが、優馬の横に立って笑っているの。
……なんで? なんで? ………なんで………?
あっはははははは、おかしいよね! あなたが今立っているその場所は! ワタシの場所なのに!
………ねぇ。……かえしてよ……。
かえして、かえして、かえして、かえして、かえしてッ! ワタシから優馬を、取らないでぇええぇぇッ!!!!
黒くてドロドロしたものが、身体の奥らか一気に溢れ出す。それはまるで黒い水のように、私の心を少しずつ飲み込んでいった。
息継ぎできない。
溺れそう。
でも、いいや。私がどうなっても。
それよりも。
この女の苦しむ顔が見たい。この女が、どんどん不幸になって行くところを、見てみたい。
………私。こんなに悪い子だったっけ。人の不幸を願ってしまうなんて……。
今の私はどうかしている。……でも、なぜだろう。今はこの女が、……憎くて憎くてたまらないのッ!
今なら何でもできるような気がした。
確証はない。……でも。
私がそれを本当に望めば、それは現実に起こってしまうことなのだ。
私が望めば……この女を絞め殺すことも。刃物で串刺しにすることだって出来る。
……私が望めば。
ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひっひっひっひっひひひひひひひひひひひッ!!!!!
………にくい。憎い憎い憎い憎い憎い憎。この女が、憎いッ!
………だめ。……もう止められない。……私が私でなくなる……。
ごめんね。私のために……死んでくれる……?
私の手が、彼女の首元に伸びようとしていた。
……ほらッ、こんなにもすぐ近くに! っッ…! ……………。
私は優馬の家を飛び出した。
あてもなく走り続ける。暗い夜道をどこまでも。街灯だけが道標。私の行く道を、明るく照らしてくれる。この先に、いったい何があるのだろう。目的のない私は、ただひたすら走り続ける。この身体が、夜に染まってしまわないように、街灯だけを、頼りにして。
行き着いた先には、公園があった。
この公園にはよく縁がある。そう思いながらも。私は公園のベンチに腰を下ろした。
もうあの場所には戻れない。
私はきっと、彼女を殺してしまうから。
この手が彼女の首に触れた時、すごく怖かった。まるで私が私じゃないように、平気で人を殺そうとした。あの時の自分が、本当に恐ろしかった。
……もう……いや。……誰か私を。……とめて……。
そんな私の前に、あのいじわるな神様が姿を現した。それはまるで霧のように、突然と……。
神様は何も喋らなかった。
……でも神様は知ってるはず。
今の私が、邪悪な存在になりつつあることを。
だって、神様だもん。……知らないはずがない。
神様は、そのままベンチに腰を下ろし、私の隣に座る。そして無言の時間が、ただ過ぎて行くのであった。
神様は私を責めるわけでもなく、ただ夜空を見上げている。
………今日は月が綺麗ね。
その言葉につられて、私も夜空を見上げる。するとそこには、まん丸とした大きな月が夜空を明るく照らしていた。
「人はね。辛いことがあると……つい下ばかり見てしまう。だからこんな綺麗な月が夜空に浮かんでいても気づかない。……下ばかり見ているから。あなたはどう。あなたの目には、……どう見える?」
「……………………。人はそんなに強くはないです。辛いことがあれば、すぐに落ち込むし、悩みごとがあれば、それについて一生悩んでしまう。だから自然と、下を向いてしまうんだと思います。前だけを見て、生きている人は少ないと思います! ……私も、……そのひとりだから」
「そうね。人間はそんなに強くないわ。でもね。人間には、それを乗り越えるための強さを持っている。たとえ一人では無理でも、二人なら乗り越えていける。二人が無理なら、三人で乗り越えて行けばいい。人はすでに、そのために必要な術を持っている」
「それは……いったい……何ですか?」
「……言葉よ。言葉は想いを届け、それを人に伝える。それは人にしか出来ないこと。だから人間はすごいのよ」
「……でも、もうすでに死んでいる私の言葉は、誰にも届かない。私にはもう頼れる人なんて居ない。だから、こんなにも、寂しくて寂しくて、仕方がないのに」
「想いは時として奇跡を起こす。でも、奇跡はそう簡単には起こらない。だけど、奇跡を起こすために必要な、魔法の言葉ならある。それは、いったい、何だと思う」
「……私には……そんなの……わからないです」
「はぁー、いいわ。あなたに一度だけ。その奇跡を見せてあげる。いい? 奇跡を起こすために必要な魔法の言葉は――」
私は再び走り出す。もう戻れないと思っていたあの場所に、いや、多分これが最後。私が優馬に会える最後のチャンス。
これは、あの神様がくれた、最後の別れを告げる為の、そのわずかな時間。その奇跡に縋っている。
もしかしたら。私はただあの神様に騙されているだけかもしれない。だけど、それでも良い。今は奇跡が起こると、信じよう。
信じる心が奇跡を起こす。信じないものには奇跡は起こらない。奇跡とは願い。願う心が奇跡を起こす。だから、奇跡が起こると信じなさい。その願いはきっと、……かなうから。
私は優馬の住むアパートに着いた。でも、そこから動き出せない。いまさらどんな顔をして優馬に会えというのか……。
今の私は、優馬には見えない。
ここに居るけど、……そこにいない。目には映らない存在。それが今の、……私。
でも。あの神様は言った。
言葉は想いを届け、それを人に伝える。それは人にしか出来ないこと。だから人間はすごいんだって。
今の私は人間ですか?
まだ人の心を持っていますか?
きっとあの神様は答えてくれない。だって…いじわるだから、だからそれを、自分で決める!
私は人間だ…! 目に映らなくても、声が届かなくても、触れられなくたって、それでも私は人間なんだ! 私がそう信じている限り、私は人であり続ける! 奇跡は信じないと起こらない。想いは必ず届く! そう信じて! 私は彼の名前を呼ぶ。
この想いを……ただ……届けるために。
ドア越しに、彼がいるような気がした。気がするだけで。いないのかもしれない。でも。それでも良いから……どうか私のひとりごとを……聞いてほしい。
優馬、私と初めて会ったときのこと、……覚えてる?
あなたのことだから……きっと覚えてないよね。
だって。
あなたはいつも鈍感でおっちょこちょい。大切なことはすぐに忘れてしまう。
あれだけ記念日は一緒に祝おうねって、私。口を酸っぱくして言ったのに、それでもあなたは忘れてた。
今でもそのこと、根に持ってるんだからね!
でも。なぜかなぁ。どうしてもあなたのことが憎めない。
……ごめんね。私。あなたを置いて先に死んじゃった。
私がもっと賢ければ……こんな事にはならなかったはずなのに。
私、バカだから! 優馬が呼び止める声。本当は聞こえてたんだ。
でも、それを無視した。
私は優馬ではなく……あのお婆さんを助けることを選んだの……。
でも。今はすごく、後悔してる。
私が選んだ選択は、間違いじゃなかったはずなのに…! それでも私は、後悔してる。
私、汚いよね…! 本当に汚いよ……。
……あの時。本当は助けなきゃよかったんじゃないかってッ! 今はそればかり考えてしまう!
……私が選んだ選択は、……まちがい? だったのかなぁ。
私はその声が聞こえていた。
だけど聞こえないふりをした。
周りは動こうとしなかった。
でも私は動いた。
そこが多分。運命の分かれ道。
それでも私は選んだ。
自分の意志で、この選択が正しいと信じて。
そこに後悔がないといえば、嘘になる。
あの楽しかった日々は、もう私の元には帰ってこない。それを自分の手で壊してしまったから。
今は冷たい世界が私を包んでいる。
夜の世界はとても冷たい。この体に体温があれば。きっと私は、この寒さに凍えてしまうだろう。
だから死者は、人の温もりを求めてしまうのだ。
……死者はさびしがり屋だから……。だから私もいつまでもここに留まり続けている。
彼はもう新しい人生を踏み出してしまった。そこに私の姿はない。でも彼は私がいなくても、前を向いて生きて行くだろう。
彼は決して弱い人じゃない。私が好きになった彼は、そういう人だから……。
……私も、前を向かなくてはならない……。
彼のために? ……違う…。自分のために! 私は前を向かなくてはならないのだ。それが今の私に出来ること。それが私、立花みゆきが選ぶ、人生最後の選択。この選択に後悔はない。今は少しだけ胸を張ろう。
……私が私らしくいられた事に。
誰かに笑われてもいい。
馬鹿だと言われてもいい。
それでも私は一生懸命生きたんだ!!
私の人生は確かに立派なものとは呼べないかもしれない。……だけど生きた。強く、生きたんだ!
それを誰かに否定されたくない。私は私らしく……生きたんだから!
最後の言葉は送らない。その言葉は永遠の別れを告げるものだから。
なら普段通りの、私の言葉を贈ろう。あの楽しかった日々を思い出しながら……私はドアの前で……彼に手を振った。
…………じゃあ……………またね…………。
強い光が私を包み込む、すべてが解かされて行くような。心も体もやがて白く、雪のように消えてゆく。
降り積もった雪が、太陽の光に当たって少しずつ溶けて行くように、私の凍った時間も、心までも…ゆっくりと解きほぐされて行く。
思い出が一つ消えるたびに、心が軽く、そしてまた一つ消えるたびに、…何かを失った。そして徐々に……私の中が空っぽになって行く。
こうして私はすべてを忘れ……やがて生まれ変わるのだ。
その時、ドアが突然、開いた。そして目の前には、私の愛しい人が……私を強く抱きしめる。
見えない私を、触れられない私を、彼は生きていた頃と同じように、私を強く抱きしめる。……こんな幸せなこと……あっていいのかなぁ…。
…………本当に…………奇跡だね…………。
あの神様は本当にいじわるだ。最後に……こんな奇跡を見せてくれるなんて……。
でも。今はその奇跡に感謝します。
こんな私を……最後に救ってくれて……ありがとう……。
「ごめんね。…私。本当はずっとあなたと一緒に生きていたかった! 優馬と結婚して、そして子供を産んで、お互い歳をとって、あの時はいっぱい喧嘩もしたけど、今はいい思い出だね、なんて言いながら。ずっとあなたと一緒に笑っていたかった! ……ごめんね、…ごめんなさい。……私は…」
本当はこんなことを伝えたいわけじゃないのに……。私の口からは、そんな言葉しか出てこなかった。
優馬は頷きながら、最後までそれを聞いてくれる。
そして。
「みゆき、オレたちが初めて出会った時のこと、覚えてるか? みゆきは、ひとり公園のベンチに座って、泣いてたんだ。最初は、そんなみゆきを見て、声を掛けようかすごく迷った。オレなんかが声を掛けたところで、正直、迷惑だと思ったし。オレもそこまで出来た人間じゃないし。でも、やっぱりどこか放って置けなくて。気付いたら、みゆきに声を掛けてた。でも今は、声を掛けて良かったと思ってる。オレがあの時、みゆきに声を掛けていなかったら、オレたちは付き合うこともなかった。そしたら、みゆきとの思い出もなかった。今じゃ考えられないよな。最初はお互い、何処かぎこちなくて、会話なんてろくに出来なかったのに。いつの間にか、それが当たり前のように出来るようになってて。お互い何も言わなくても相手の考えが分かってさ。オレたち通じ合ってたんだよ。……本当は、ずっと近くに居たんだろ。何となく、みゆきが側にいるような気がして、そんなことあるはずないって、自分にそう言い聞かせてた、考えすぎだって。だけど、やっぱりみゆきは近くに居たんだな。ごめんな。今まで気付いてやれなくて。沢山、寂しい思いをしただろ。分かるんだ。みゆきのことなら。何でも。……みゆきはいたずら好きで、負けず嫌いなところもあって、すぐ拗ねたりもするけど。本当は誰よりも優しくて。……そんな。そんなみゆきが。……大好きだった……」
「ばーか。……そんなの知ってる」
「みゆき、いかな――っ」
みゆきは人差し指で優馬の口を抑える。
「そこから先の言葉は、言っちゃだめ。……優馬、あなたは今を生きてる。私は優馬にとって、もう過去の女。……忘れて……」
「忘れれるわけ――!」
「……優馬っ! ……最後まで私を困らせないで……」
「……っッ……」
「……優馬、…私に沢山の思い出をくれて、ありがとう。優馬との過ごした日々は、私にとって一番の宝物だよ! もう他に何もいらない。充分だよ。……その愛を、私じゃない次の人にも分けてあげて、そしてその人と幸せになるの。私は優馬が幸せになることを、誰よりも一番に願ってるんだから!」
「…あぁ、…あぁ。分かったよ。それがみゆきの願いなら、……オレはその願いを、一生かけて叶えてみせる」
「うん」
ふたりは互いを見つめ合い、そして同時に、手を伸ばした。
「「最後の別れの言葉は送らない。その言葉は永遠の別れを告げるものだから。私達が贈る言葉は、別れの言葉ではなく、いつもと変わらない笑顔で、互いに手を振り、またいつか会うその日のために。その約束の言葉を交わす」」
「じゃあ、またね」
「ああ、またな」
この別れは永遠じゃない。オレたちはまた、いつか何処かで会えるさ。
……互いに思う気持ちがあれば……。
「「いずれ!!」」
「ねえ、優馬……起きて」
「あ、あぁあ、もうこんな時間か」
とても懐かしい夢を見ていたような気がする。
変だなぁ……。
何も思い出せない。
でも、ともて懐かしかった。
「ねえ優馬。手が空いてるなら……ハナちゃんにミルクあげて」
「オレのご飯は?」
「ハナちゃんが先!」
「…は、はい」
嫁が鬼のような形相で、こちらを睨みつけていたので……仕方なしに動く。
休日にもかかわらず、オレは家でだらだら過ごす事も出来ない。それを言うと……私は毎日、育児に洗濯、あと掃除に、それと優馬の世話まで! 私には休みの日なんてないのにー! と、こっぴどく怒られてしまう。それが分かっているからこそ、何も言えない。
嫁は夕ご飯の準備をしている。
オレも嫁の負担が少しでも減らせるように協力しないとな!
はー。完全に嫁の尻に敷かれてるな……オレ。
まあ、でも。かわいい娘のためだと思うと、その分。がんばれる! って、あれ? ミルクないぞ??
「あぁ、ごめん! わすれてた!」
……こりゃスーパーまで一走りかな。
「いいよいいよ。オレが買ってくるから」
「そう? じゃあ、ついでに……」
「……おいおい」
ちょっとスーパーに行くつもりが、紙一面……びっしりと書かれた買い物リストを渡された。
「これ、ひとりで持って帰れる量じゃないんだが……」
「大丈夫大丈夫! パパは力持ちだもんねー!」
嫁は娘に向かって笑顔で語りかける。……それに返事する娘。言葉はおぼろげで、まだうまくは喋れないが、一生懸命喋ろうとする姿がまたかわいい。
……くっそう、娘を武器にするなんてずるいぞ!
って。
……なっ、なんだ。このハナの偉大なる父に対し、向けたかのような。その期待を宿した、キラキラと輝くその目は!
ま、まさかな。ハナまでもお母さんの味方ってわけじゃ……。
「うっ!」
ちくしょうー! この家にオレの味方がいねーッ!! バタン!!
「変なお父さんだね。ハナちゃんは、お父さんみたいになったらだめよ? ふふっ、かわいい」
ピンポーン!
「宅配でーす」
「はーい、ちょっと待って、ごめんねハナちゃん、少しだけ大人しくしててね!」
うぅううう。
うぅ…?
……ふっふふ、そう。それでもあなたは、……彼のことが好きなのね。負けたわ。別にあなたと勝負してた分けじゃないんだけどね。……くすくすくすくす……。
ううッううぅぅううっ…!
何? 不満? ……そう。でもいいじゃない。今のあなたには未来があるんだから。
未来はね、自分の手で掴み取って行くものなのよ? といっても、今のあなたにはまだ早いかしら? くすくす、そんな事ないわよね……。
あなたはこれから沢山の未来を掴んで行くのだから。
死んでしまったらもう動き出すことは出来ない。だけど生きてさえいれば。
また動き出すことが出来る。
人生は辛いことの連続よ? それが生きるということ。甘いみつばかり啜っていたら人はそこに幸せを感じられなくなる。そしてそれが当たり前となってしまった時。……人は死ぬ。
だからわたしは多くの人に選択を与え、そして迷わせる。
ううっううっううー!!
え? いじわる? くすくす。……本当にそうかしら?
あなたがそう思うのなら、……きっとそうなのでしょうね。
だけど、そうでもしないと。あなた達は今を生きられない。人生に飽きてしまう。だからいじわるするのよ。
悩み、苦しみ、生きた人生には、その分、大きな輝きが宿る。そこに至るまでにあなた達は多くの選択肢を乗り越えてきたから。
何かを失い、そしてまた新しい何かを手に入れる。
時には残酷な選択を迫られることもあるかもしれない。
それを選択するのにも…勇気は必要だ。だけど。そこで決して、楽をしてはだめよ。楽をして選んだ人生(選択)に未来はない。あなたは誰かの敷いたレールの上で一生走り続けることになる。それはもう……あなたの人生とは、呼べないんじゃない?
誰も選ばなかった人生(選択)を、あなたが代わりにやっているのと同じことよ。嫌でしょ? そんなの。
だから、自分の人生ぐらい自分で選びなさい。誰かの意思ではなく、自分の意志で。
それが今を生きると言うことよ。
……ねぇ、そう考えると、今を生きるのも……案外悪くないでしょ? ……くすくすくすくすくす……。
おしまい。