知っていたはずの世界、夢に呑まれて
更新です……そろそろちゃんと定期的にやりたいですね、何年目だよって話なんですけど
はあ、みんな働きながらどうやってんだ!
感想などいただけたら励みになります!
アマイモンの部屋を後にしたとしお達は、来た道を引き返していた。
「あれ、陽が傾いてる……。あれも魔法なの?」ととしおは言った。
格子窓の向こうで琥珀色に染まる“吊り庭”の景色は、やはりどこか作為的なものを感じさせた。
「そうだね。ここはフォスフォロスの本拠地でもあり、先の大災害のような未曾有の危機が起こった時、たくさんの人と生き物を匿うための最後の砦でもあるからね。地表の時間と対応して朝には陽が、夜には星と月が昇るし、天気も変われば季節や気温も移り変わるようになってるんだよ」
としおの肩の上に我が物顔で居座るようになったキーファは、銀色の角を前脚で触りながらそう答えた。
「へえ……じゃあ今は外も夕方なんだ」
としおはその美しい作り物の世界を眺めながら、ゆっくりと歩いた。
そして二人はまた、水晶の吊るされている大広間まで戻った。どうやら先ほどよりも人が多いらしく、まだ人混みに慣れていないとしおは歩くのに大変苦労させられた。
「ここがエントランスホール。その名の通り外の世界とこの場所を繋ぐ玄関口だよ。他にも出入り口はあるんだけども——とりあえずはここを覚えておけば大丈夫。向こうに行って」
キーファの指した方角に、一本の緩やかな上り坂になっている橋が伸びていた。
奥には十メートルほどの高さで、壁面をほとんど占拠するほどに巨大な、白い光で満たされた鏡か窓のようなものが見える。としおは言われるがままに橋を渡った。近づいて見ると、その建造物の枠には石造の派手な意匠が施されており、としおは教科書で見た古代の大聖堂を思い出した。
「これが正門だよ。見るからに出入り口って感じするだろう?」とキーファが言った。
正門と呼ばれたその枠の中は、桃色の靄で満たされており、としおはその目の前に立っているというのに、一切向こうが見えない。
正門からは人々が絶えず出入りしていた。靄の向こうから現れる人々は皆、としおがまごついて立っているのを見て訝しげな顔をした。
「じれったいなあ。とにかく入れば帰れるよ」とキーファが言った。
「だから、僕は夢と魔法の世界の初心者なんだってば!」
喚くとしおの肩の上で、キーファは首を振った。
正門に踏み入った瞬間、としおは何かに体ごと掴まれ、引き摺り込まれるような感覚を覚えた。としおの足は地面をとらえていなかった。彼は風に遊ばれる木の葉のように、謎の力に身を任せることしか出来なかった。見た目の違う扉と窓が幾重にも目の前に現れ、開いてはとしおを通し、潜るたびに背後で絶えず閉じる音が聞こえた。
ほんの一瞬の出来事であったが、としおは随分遠くまで来たように感じていた。気がつくと、としおはまた見知らぬ建物の中に立っていた。
「はい。到着」とキーファが言った。
「今の、なんだったの? ドアと窓がバーってなってた気がするんだけど……?」
目まぐるしく視界が変化したせいか、としおは気分が悪そうにそう言った。
「吊り庭の出入り口は、文字通り空間が入れ子になっているのさ。何億もの空間の要素を絶えず組み替えることで、外敵の侵入を防ぐんだよ。偉い悪魔の魔法が為すセキュリティシステムなんだよね」
キーファはとしおの肩の上でそう言った。
「はあ、もう新しいこと頭に入んないよ!」
そう言ってとしおが振り返ると、長方形の大きな鏡があった。鏡には古書の挿絵のような悪魔の意匠が施されていて、いかにも魔法が絡んでいそうな代物である。
「ああ、そうそう。吊り庭にはこの鏡を潜っていけばいつでも行けるからね——と、言ってもそんなに用事はないと思うけど。すっごく便利で、本部のどこへだろうと、勝手に行くべきところまで連れて行ってもらえるんだよ。どこへでも鏡、とでも呼ぼうか」
その異質な鏡に映るキーファの甲羅も、銀色に輝いていた。
「なんでかわからないけど、語呂が気持ち悪いなあ……」
キーファが鏡につけた愛称に、としおはむず痒そうな顔をしていた。
鏡のあった部屋は漆喰の壁に囲われた円形の広間で、その中心を示すように長机が置かれていた。奥には壁に沿うように上へ伸びる階段があり、細工の施された硝子から注ぐ虹色の光がその一段一段を染めている。
「……で、ここは?」
色鮮やかでどことなく落ち着かない空間を見回しながら、としおはそう尋ねた。
「としおが昨日襲われた公園と、第七学園のちょうど間くらいの場所だよ。そうだね、普段ボクとフリルが使ってるアジト、とでも呼ぼうか。ちなみに、ボクの家もあるよ」
キーファは前脚で向こうの隅にある透明な箱を指した。その中にはおがくずが敷かれ、太いブナの枝が置かれていた。
「カブトムシの悪魔だっていうけど、だいぶ虫よりだよね」
「失礼だなあ。あいつらはなんでも食べるけど、ボクは美食家だから決まったメーカーのゼリーしか食べないよ——そんなのはどうでもよくて、キミもここに見覚えはない? 昨日二階のベッドで寝てたじゃないか」
キーファに言われて、としおは階段の向こうへ目を凝らした。
「そう言われると見覚えある気がしてきた……」
としおはそう言いながら、自身がフリルに投げつけた言葉を思い出した。
「化け物」
そう言った時、フリルの薄笑いには確かに影が差していた。
「——あのさ、フリル先輩って、大丈夫なの」
口の中で罪悪感を転がすように、曖昧な口調でとしおはそう言った。
「ああ、明日には退院すると思うよ。今頃主治医にガン詰めされてる頃じゃないかな。フリルはいっつも無茶して怪我するんだ」と、キーファはさほど気にしていない様子でそう答えた。
「それなら、本当に良かった」
としおはばつが悪そうに呟いた。
「ま、キミも疲れただろうし、今日はもうやることないから帰ってもらって大丈夫だよ。この建物を出たら、レンガが敷いてあるからそこを道なりに。並木を抜けたらすぐ駅があるから」
キーファは
「ええ? また随分と急だなあ……って! 今日って何曜日?」
としおは急に何かを思い出し、スマホを取り出して日付を確認した。
「やっぱり! 学校サボっちゃった!」ととしおは叫んだ。
「ああ、学校はディアボロスが公欠扱いにしたから平気だよ。ただ、授業内容に関しては友達に聞いてね。言ってただろう? 理事長だって」
キーファはそれも当然のことのように言った。
「アレって本当なの!? だってどう見ても子供だし……入学前に見たパンフレットにもあんな人載ってなかったよ」
あのやたら高慢な少女は、一体何者なのだろうか。自身の常識がすっかり無駄になっていくのに、としおはまだ慣れていないようだった。
「パンフレットに載っていたのは多分、ディアボロスの傀儡だろうね……この教育特別地区にある公立の教育機関の大半は、彼女が実権を握ってるはずだよ。ボクら悪魔の生涯は長いから。道楽のつもりで人間を教育してるんじゃないかな、きっと。ホラ」
キーファは長机の上に古いアルバムを広げた。色褪せた写真には全てディアボロスが一人で写っており、決まってその背後には学校らしき建物があった。としおの学校の校舎が完成した時のものらしき写真もあったが、ディアボロスの風貌は先程見た時と全く違わない。
「これ全部あの人!? こっわ……」
年代が違う写真の中に、全く同じ顔の人物が写り込んでいることがこれほど気味悪いのだと、としおは新しい気付きを得た様だった。
「本当に悪魔ってなんなの? 人間の味方なんだよね?」
としおはアルバムから目を背け、表紙をつまむようにして閉じながらそう言った。机の上のキーファはとしおの顔をまっすぐ見つめた。
「それはキミたち次第、だよ」とキーファは言った。
カブトムシに人間らしい表情は一切ないが、としおにはキーファが無邪気な笑みを浮かべている様な気がした。
「なるほどね……」
としおはそう言いながら、悪魔というものに対して、自身が抱いている気持ちが変化したことに驚いていた。話しているうちに、キーファが馴染みの深い友人のようにさえ感じられたのだ。
それから間も無くして、としおは挨拶をしてからその場を後にした。赤い扉の外へ出ると、そこは小高い崖の上であった。目下には潮が引いて顔を出した廃墟たちが、誰かを呼ぶように風を吸い込んで唸っている。
帰りの路面電車の中、もうほとんど水平線に吸い込まれた陽を見て、としおは妙な感慨に浸っていた。他の乗客は老婆と母親とその子供、あとは男性が一人のみで、しきりに子供の小さな笑い声がする以外は何も聞こえなかった。あの子供はネフィリムなのだろうか。きっとそうではないだろう。彼はあの恐ろしい怪物のことも、この世界に裏側があることも知らない。銀色の友好的なカブトムシのことも、フリルの様に傷つきながら戦うネフィリム達の運命のことも。父親によって、これまで信じてきた世界を取り上げられたとしおには、その感慨こそがネフィリムの抱える孤独であると自覚することはまだ出来なかった。
一日ぶりにルームメイトの吉田に会った時も、としおはその妙な感覚を思い出した。
「おい! 体調大丈夫か?」
吉田はとしおの顔を見るなりそう尋ねた。
「——え? うん。すっかり」
としおがそう答えると、吉田はすぐに納得したようで、「そうか、よかった! ちゃんと朝飯食えよ」とだけ言い、それ以上何も聞いてこなかった。吉田の口ぶりからして、としおは貧血により医務室で寝ていたことになっていたらしかった。
「もう飯食った? 俺まだなんだけど」と吉田は尋ねた。
「まだ! 行こう」ととしおは答えた。
吉田はたったの二日間で、としおの人生が覆ってしまったことを知らない。しかし、彼が確かに良き友であることを、としおは改めて実感した。
その夜、としおは奇妙な夢を見た。疲れていたので眠りにつくのは容易かったが、それは決して安らかなものではなかった。
夢の中、故郷の島の浜辺にとしおは立っていた。そこでは星々が闇を満たし、穏やかな風が吹いていた。
「どうして何も言わずに消えたんだよ。僕のこと嫌いになったの?」
そう問いかけるとしおの目の前に、父が立っていた。
「おかしいだろ。なんで何も教えてくれなかったの? ねえ、なんでだよ! 答えてよ」
としおが叫んでも、それはレイジの耳に全く届いていないようだ。レイジは蝋人形のように動かないまま、としおの背後にある何かを見つめていた。夢の中のとしおは、思うように体を動かせなかった。背後に何があるのか、全く分からない。
「父さん!」
としおがもう一度叫ぶと、背後から女性の笑い声が聞こえた。としおは何故かその声を遠く昔に耳にしていたような気がした。
「誰?」
としおは後ろを向くことが出来なかった。父の顔をもう一度見ると、その頬に涙がつたっているのが見えた。風が強くなりはじめている。それに伴って、響く笑い声も大きくなった。
笑い声は決してとしおを嘲っているのではなかった。しかし、それと同時に、としおにとって包み込むような優しさを与えるようなものでもなかった。としおはその奥に狂気を感じてすらいた。
そしてとしおが海の方を向くと、自分にそっくりな人影がいくつか波の中に立っているのを見つけた。星明かりに照らされた彼らは皆、としおと同じ顔をしていた。それらはまさにとしおの偽物と呼ぶに相応しく、としおは言いようのない嫌悪感に襲われた。
「何……お前達、なんなんだよ!」
としおが声を荒げると、途端に波の音がごうごうと強くなり、空気が強くうねりだした。ようやく父は何か言っていたが、としおは聞き取れなかった。笑い声はいつしか空気の歪みにかき消されて消えて言ってしまったようだった。波が高くなり、としおの偽物達はそれに飲み込まれた。
やがて星空が音を立てて、泥の様にこぼれだした。溶けた夜は容赦無く降り注ぎ、としおの体にまとわりついた。
「父さん!」
としおが手を伸ばすのと同時に、闇がとしおの視界を覆い尽くした。
「待って——」
としおの声が父に届くことは、ついになかった。