58.クリスマス編 不運な事故
男の子は玄関ホールの大階段をトトトッと上がっていく。
踊り場で振り返り、こちらへ向かって手招きした。
「どうしたの?」
誘われるまま俺は階段を上がる。
男の子は何度も振り返って俺がついて来るのを確認しつつ、二階の廊下を奥へ進んでいく。奥様や家政婦さんの許可なく勝手にこんなところまで入り込んでいいものか不安になってきたところで、男の子がドアの一つを開いた。
そしてまた、小さな可愛い手で「おいでおいで」と手招きしてから中に入ってしまった。
ここまで来て今さら引き返すわけにもいかず、ドアの前に立って中を覗く。
子供部屋だ。
青と白の清潔感ある壁紙、家具やファブリックは黄色の差し色が品よくまとまっている。
だが……なにかおかしい。不自然だ。
子供部屋特有の雑然とした感じがない。
オモチャも転がっていなければ、読みかけの絵本が置いてあるわけでもない。
男の子はベッドに腰かけて足をぶらぶらさせながらこっちを見ている。
「俺になにか用かな?」
俺はなるべくフレンドリーに話しかけた。なにしろ『お客様の坊ちゃん』だ、仲良くしておきたい。
「お兄さん、犬……連れてるね。怖い……」
「えっ!?」
犬といえばパトラッシュのことだろう。この子は『見える』タイプなのか。
男の子を怖がらせないように「ハウス!」と口を開きかけて、アレクの言葉を思い出す。
『今日はパトラッシュにハウスさせるな、ずっと自由にさせておくんだ』
愛想笑いを浮かべて、なるべく明るい声で答えた。
「えーっと、大丈夫! 見た目はおっかないかも知れないけど、いい奴なんだよ!」
伝わらないのは分かってるが、心の中で『お前も笑え!』とパトラッシュに声をかける。
「そう……」
男の子は怖がっているというより、ちょっとつまらなそうに呟いた。
俺はさっきの子供達のことを思い出して声をかける。
「サンルームに友達が来てたみたいだけど、一緒に遊ばなくていいの?」
「いいんだ、……友達なんかじゃないから」
「そ、そうなんだ……」
……会話が続かない。
こういうパーティの場合、親同士の付き合いのみで顔も知らない子が来るなんて事もありそうだ。
すぐに仲良くなれるタイプじゃなかったら気まずいかもしれない。
それで一人でいるんだろうか……。
「坊ちゃん、どうかなさったんですか?」
背後から女性の声がして振り返る。さっきの家政婦さんが立っている。
「……あ、すみません。俺――…」
二階の子供部屋にまで入り込んでしまったことを咎められるかと思ったが、家政婦さんは俺をちらりと見ただけで男の子の方へ歩み寄った。
「パーティが始まるまでに書き取りの課題を済ませておくよう、奥様が仰ってましたよね? 終わったのですか?」
「終わった」
どう見てもまだ小学校には上がってなさそうなのに、課題!?
こんな豪邸に住んでるんだ、もしかしたら私立小学校をお受験するのかも知れない。
それにしたって、何もクリスマスイブにまで勉強しなくても……大変だなぁ。
家政婦さんは部屋の隅の勉強机へと近づいた。引き出しを開けて数枚のプリントを取り出し確認する。
「やってませんね。私が叱られます、早く始めてください」
え? 嘘だったのか?
こんな小さな子が、こんなしれっと嘘なんかつけるのか……。
「今日はやりたくない」
男の子は嘘がバレて開き直ったように、ぷいっと横を向いてしまった。
「いけません。このプリントが終わらないと、夕食はお出しできませんよ」
「…………分かった」
男の子は渋々といった様子でベッドから下りた。勉強机に近づき、家政婦さんからプリントを受け取って椅子に座る。鉛筆を持って何やら書き始めた。
その様子を確認した家政婦さんは、俺に軽く頭を下げて部屋を出て行く。
このまま子供部屋に残っていて勉強の邪魔しちゃ悪いよな。
俺は家政婦さんに続いて部屋を出た。すぐに追いつき、並んで歩く。
「あの、すみません……二階にまで上がってしまって」
家政婦さんは俺の方を見ることなく、前を向いたまま驚くほど小さな声で答えた。
「いえ、ご無事で何よりです」
「え……?」
聞き間違いか?
今このタイミングで『ご無事で何より』???
「それって、どういう――…」
「あら、照明が切れかけてる……」
家政婦さんの言葉が俺の問いを遮った。
視線の先には階段踊り場の壁掛けライトがあり、明滅している。
さっき階段を上がった時には何ともなかったが……。
「電球を交換しないと……」
「けっこう高い場所ですね、手伝いますよ!」
「ありがとうございます。それでは替えの電球と踏み台を取ってきます」
数分後、家政婦さんは踏み台になりそうなスツールと新しい電球を手に戻って来た。
俺が電球を受け取ると、家政婦さんは揺れないようにスツールを掴んで固定してくれる。
俺は慎重に座面へのっかった。
「届きそうですか?」
「はい、大丈夫です」
心配そうな家政婦さんに答えながら古い電球を外す。
サンルームにいた子供達が出て来て遊びだしたのだろう、階段下の玄関ホールから楽しそうな声が聞こえてきた。
「えーっと、これでいいのかな……よっと」
新しい電球をはめようとした、その時――…
「あーっ! ボールがっ!」
子供の声がひと際大きく玄関ホールに響く。
ボール遊びでもしてるのかと思った瞬間、俺の背中にボンッと衝撃が!
「えっ!? …――ちょ、……わゎっ……」
ボールがぶつかったと理解するより先に、俺は壁にぶち当たった。
手から滑り落ちた電球が家政婦さんに直撃して割れ、驚いた俺たちは完全にバランスを崩し――…
「うわあっ!」
「きゃあっ!」
俺はスツールから踊り場へ転落し、家政婦さんを巻き込んで一緒に階段を転がり落ちた。
意識がなかったのが数秒か数分か分からない。
目を開けると、心配そうに覗き込んでくる店長の顔と、その後ろで申し訳なさそうにしている子供達が見えた。
「都築くん、大丈夫?」
「う、……いたたっ、俺は大丈夫……って! 家政婦さんは!?」
慌てて顔を上げる。
家政婦さんは床に座り込み、奥様から手当を受けていた。足を挫いたのか痛そうに足首を押さえている。その上、電球で頭を切ったのだろう、額から血が流れていた……申し訳ない。
俺はあちこち打ち身した程度だが、家政婦さんの怪我が酷い。
奥様は家政婦さんと俺を心配そうに見比べた。
「頭を打っているかも知れないので、二人とも病院で診てもらった方がいいですね。救急車を呼びましょう」
「お願いします」
店長が頭を下げる。
パーティの直前に怪我なんて……水を差してしまった。
俺は情けなくも申し訳ない気持ちで項垂れた。
「すみません、……」
☆*:;;;:**:;;;:*☆*:;;☆*:;;;:**:;;;:*☆
救急車で病院に運ばれた俺たちは、すぐに手当を受けることができた。
やっぱりただの打ち身の俺は、あちこち湿布を貼られたが大したことはない。
しかし家政婦さんは頭に包帯を巻かれ、足首はなんと骨が折れていて、松葉杖をつくことになってしまった。
時間外受け付けの待合に二人並んで座り、会計を待つ。
「せっかくのイブなのに、大変なことになっちゃいましたね……」
「完治まで数ヶ月と言われましたから、これで私もあのお屋敷を辞めることができます」
家政婦さんの声にはどこかホッとしたような安堵が混じっていて、仕事を失う残念さは全く感じられない。
「……お仕事、辞めたかったんですか?」
「家政婦の仕事は好きです。でも、あのお屋敷は……ちょっと」
奥様も優しそうな人だったし、特別大変そうには見えなかったが……実際に勤めてみると色々あるのかも知れない。
ムーンサイドだって、ただのカフェバーじゃないもんな……。
俺は立ち上がり、すぐ横の自動販売機で「あったか~い」お茶を二つ買った。
長椅子に戻り、一つを家政婦さんに渡す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
俺たちは二人並んでゆっくりとお茶をすする。
しばらくして家政婦さんがポツポツと話し出した。
「あのお屋敷では、使用人が次々怪我をするんです。特に家庭教師は一週間ももたないので今は雇われていません」
「……え? ど、どういうことですか?」
「命に関わるような大怪我をした人も少なくありません。私はこの程度で済んでマシな方なんです。……家政婦協会に連絡して、私はこのまま自宅に戻ります。もうあそこへ行くことはありません」
俺は家政婦さんの話を聞きながら、店長とアレクのただならぬ様子を思い出していた。




