55.温泉編 酒と聖書(挿絵あり)
たっぷりと外湯めぐりを満喫し、豪華な夕飯を楽しんだ俺たちは、部屋でゆっくり最後の夜を過ごしていた。
文字通り川の字に敷いてもらった布団は、ふかふかで寝心地バツグンだ。ごろんと転がり、天井を見上げる。
この三日、店長の手のひらで転がされていたような複雑な気分だが、それでもやっぱり老舗の高級温泉旅館は露天風呂も食事も素晴らしい。
幸せ気分で寝転がった俺は、すぐにうとうとしてしまった。
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どれくらい経っただろう……ふと、眠りが浅くなって薄っすら目を開ける。綺麗な丸い月を見上げて日本酒を楽しんでいる店長が見えた。
アレクは店長の横で何か読んでいる。聖書かな。
夜風にふわりと店長の髪が揺れる。
こうして見ると本当に美人だよなぁ……性格はアレだけど。
二人の姿が月光に浮かび上がり、まるで一枚の絵のようだ。
まだ半分夢の中にいるような感覚で、俺はぼんやりと二人を眺めていた。
ふいにアレクの唇が動く。
「あの時、橘が無抵抗なのは予想してただろう? 都築が止めなかったら、どうするつもりだったんだ?」
アレクは聖書から視線を上げることなく問いかける。
「都築くんなら、絶対に止める」
店長は小さく笑みを零して、日本酒をこくりと喉へ流し込んだ。
「ずいぶん信用してるんだな」
アレクの言葉に、店長はほんの少し驚いたように目を瞬かせた。
「信用? 僕が、都築くんを? ――…いや、僕は誰のことも信用しない。都築くんは行動を読みやすいだけだよ。単純だからね」
「はははっ、そういう事にしておくか。それにしても、俺は都築を取り押さえたり尾張を羽交い絞めにしたり……道化もいいとこだ。尾張も人が悪いぞ。最初から鏡のことを教えておいてくれれば、俺だってもう少し上手く立ち回れたのに……」
愚痴をこぼすアレクだが、決して責めてるようには聞こえない。それどころか、ちょっと楽しんでいるようだ。
「僕は誰のことも信用しないって言ってるだろ。アレクみたいな唐変木、最初から全部知ってたら、下手な演技で橘くんにすぐ見抜かれちゃうよ」
ぷいっと顔を逸らした店長は、再び月を見上げた。
しばらくの沈黙の後、店長は月から視線を逸らすことなく独り言のようにぽつりと呟く。
「橘くんのこと、どう思う?」
「頑張ってるんじゃないか? まだ十六なのにストイック過ぎて心配になるくらいだ」
「そうだね」
「でも都築がいるからな。都築の存在がいいガス抜きになるだろうし、成長にも繋がると思うぞ」
「……うん、そうだね」
店長はゆっくりと日本酒を口に運んだ。
「僕にも、あんな風に叱ってくれる人がいたら……こんなに狡くて汚い『大人』にはならなかったかも……橘くんが羨ましいよ」
店長が自嘲気味に笑う。
アレクがパタンと聖書を閉じた。
「そうだな。俺が見たところ、尾張は狡くて汚くて――…実は傷つきやすく、臆病で、寂しがり屋だ」
「……いいところが一つもない」
店長はジト目でアレクを睨み、不満げに軽く唇を尖らせた。
「そう、それから……甘い」
「甘い? 僕のどこが……?」
不思議そうな店長の声は本当に「分からない」と言いたげだ。
「今回の仕事、お座敷様の捕獲に都築が反対するのは俺でも予想がつく。それでも都築を連れてきたのは、橘の背中を押してサポートさせてやりたかったんだろう? ずいぶん優しいじゃないか、甘すぎるくらいだ」
ニヤニヤ笑うアレクに、店長は軽く目を伏せた。
「やっぱり、いいところが一つもない……」
「そういう奴、俺は好きだぞ」
ニカッと白い歯を見せるアレクに心の中でそっと同意し、俺は目を閉じて再び眠りに落ちた。
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旅館の豪華な朝食でしっかり満腹になった俺は、晴れ渡った空を見上げて大きく息を吸い込んだ。
昨日橘と十和子さんを見送った旅館の玄関先に、今朝は女将と番頭さん、そして仲居さん達がずらりと並んでいる。すごい見送りだ。
俺達は車に乗り込んだ。来た時と同様、アレクは運転席、俺は助手席、そして店長は後部座席。
シートベルトを引っ張り出してカチャリと止め、さて出発! と思ったが、いっこうに車は発進しない。
「アレク? どうかしたのか?」
「いや、……えーっと……尾張、いいのか?」
アレクが目を泳がせつつ、ものすごく言いにくそうにバックミラー越しに店長へ問いかけた。
店長は軽く肩を竦めて苦笑する。
「う~~~ん、いいんじゃない?」
「何なんですかっ!? 俺だけ状況が分かってないとか、仲間外れですか!?」
二人を交互に睨む。
店長は涼しい表情だが、アレクはちょっぴり気まずそうにポリポリと頬を掻いた。
「都築の膝の上に、だな……」
「ん? 俺の膝の上???」
自分の膝へと視線を落とす。が、特に何も――…っ!? ま、まさかっ! 俺には見えない霊的な何かが!?
青ざめた俺に、後部座席から店長が説明してくれる。
「都築くんの膝の上に、お座敷様が座ってらっしゃるんだよ」
えぇぇええぇぇ~~~~~~~~~っ!?
「な、な、なんでっ!? 俺の膝に――…ッ……!?」
「気に入られちゃったんじゃない?」
「お座敷様を解放したのは橘と十和子さんなのに、なんで俺が気に入られるんですかっ!?」
「そんなの、僕に聞かれても知らないよ」
店長はもう会話に飽きたとばかりに小さく欠伸をし、目を閉じてしまった。
「お、俺……いったい、どうしたら……?」
助けを求めるようにアレクを見ても、どうしようもないと首を振られてしまう。
車はゆっくり滑るように走り出した。
運転席にアレク、後部座席に店長、そして、助手席に俺とお座敷様を乗せて――…。
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「ありがとう、ござい……ましたっ! ……はぁ~~~っ」
ランチタイム最後の客を何とか笑顔で送り出し、大きく息を吐く。俺は疲労困憊でよろよろとカウンターの椅子に腰を下ろした。
「店長、どうなってるんですか? 今日のお客さん、いつもの三倍はいましたよ」
今日は開店前から店の前に大行列ができ、ものすごい数の客が押し寄せてきたのだ。文字通り『てんてこ舞い』だった。もう舞い過ぎて目が回っている。
「本当にすごかったね。二日分の食材が空っぽだよ。お疲れ様」
店長が苦笑しつつ厨房から出てくる。レモン水の入ったグラスを俺の前に置いてくれた。
ぐびぐびと一気に飲み干し、喉を潤してからもう一度盛大に息を吐く。
「はぁ~~~、どっかのレビューサイトで紹介でもされたのかな」
「いや、原因はお座敷様だと思うよ」
「は???」
「お座敷様、ずっとそこに座ってらっしゃるから……」
店長が指さす方へ目をやるが、当然俺には見えない。
そこは店内でも一番陽当たりのいい場所で、観葉植物の横に小さな可愛い椅子がちょこんと置いてあった。カフェバーの雰囲気を壊さないよう、落ち着いた色合いのテディベアが座らせてある。
店長、いつの間にあんなの用意したんだ?
「あの椅子にお座敷様がっ!?」
「うちを気に入って下さったみたいだね。さすが商売繁盛の効果はすごいなぁ……食材の発注を増やさないと!」
うきうき上機嫌の店長を横目に、俺はバタンとカウンターに突っ伏した。
お座敷様がうちに飽きて他所に行かれるまで、ずっとこの状態ってことか!?
「もう、お腹ペコペコですっ! 店長、今日のお昼ご飯は何ですかっ!?」
疲労と空腹で涙目の俺に、店長は胸の前で両手を合わせた。
「ごめーん! ランチタイムで、まかない用の食材も全部使っちゃった!」
「えぇぇぇぇぇええええええ~~~~~~っ!?」
俺は情けない悲鳴を上げながら『絶望』という名の奈落へと落ちていった。




