35.黒崎奇譚 夕方の教室(挿絵あり)
翌朝――…。
俺は教室を見渡した。珍しく欠席が多い。
休んでいるのは昨日橘と揉めていた女子達のようだ。
朝のホームルームにやってきた担任は難しい表情で状況を説明した。
「…――ということで、休んでる者は全員が熱と腹痛だ。食中毒の疑いで入院しているが、はっきりとした原因はまだ分かっていない。熱や腹痛など、酷くはなくとも症状がある者は他にいないか? いたら申し出てくれ」
担任はゆっくりと生徒たちに視線を巡らせる。
しかし誰も手を上げない。
俺はさりげなく振り返り、一番後ろの席の橘を見た。
昨日、彼女たちと揉めていたが……もし、陰陽師というのが橘の冗談なんかじゃなかったら?
彼女たちに何かした、とか?
思い返せば、橘はかなり異質だ。
家だけじゃなく、橘自身普通の高校生とはちょっとかけ離れた雰囲気を持っている。
俺達とはちょっと『違う』存在――…。
あまりに現実離れしていると自分でも思う。
しかし、もしかしたら橘は本当に陰陽師で彼女たちに何かしたのでは? という考えが頭から離れない。
昼休み、橘は昼食を食べることなく席を立った。
俺は迷わず、教室を出ていく橘の後を追った。
声はかけず、様子を窺いながらついていく。
校舎の裏手……普段生徒が立ち入ることなどない場所に、橘は躊躇なく入って行く。
こんな場所に何の用事があるんだろう……。
俺は校舎の陰に身を隠した。橘が何をしているのか良く見ようと目を凝らす。
足をとめた橘はポケットから何か小さな丸く白い……碁石のようなものを取り出した。
橘の唇が動く。
何か呟いているようだが、ここまで聞こえない。
気のせいか橘の全身がぼんやりと光を帯びているように見える。
しばらくして、橘はその石のようなものを地面に埋めた。
その後も橘は校内のあちこちに移動し、同じことを繰り返した。
いったい何をしているのか分からないが、橘のしていることが何かの儀式のようにも思え、俺は最後まで声をかけることができなかった。
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放課後、俺は思い切って橘を問い詰めることにした。
クラスの皆がそれぞれカバンを手に教室を出ていくが、橘は珍しく教室に残っている。机に座ったまま文庫本を読んでいた。
教室にはまだ数人残っている。
ただの憶測と妄想だけで、他生徒の前で橘を糾弾するわけにはいかない。
俺は時間を稼ぐため、そして自分を落ち着かせるためにトイレへと向かった。
教室に戻ろうと廊下を歩いていると、残っていた生徒達がちょうど教室から出て来るのが見えた。
今なら橘一人か……。
教室のドアを開こうとした、その時――…
「…――?」
話し声? 橘の声が聞こえる。
橘以外もう誰も残っていないはずだ。
そっと薄くドアを開き、中の様子を窺う。
陽が傾き、空間自体が夕焼けに染まっているような……オレンジの世界。
女子達がこっくりさんをしていた机の前に、橘が立っている。
やはり橘が彼女たちに何かしたのだろうか……。
「ごめんなさい……」
謝罪?
「昨日、ちゃんと話してやめさせるべきでした……本当に、ごめんなさい。今後、この地で何者も降霊できないようにしました。だから、安心して下さい」
何をしたって? 今後、この地では降霊できない?
昼休みに学校中を回っていた、あの儀式のようなもののことだろうか……。
橘はポケットから何か紙を取り出した。
薄暗い教室で、橘の体がぼんやりと光を放っているように見える。
「今後、この地であなた方の眠りを妨げないこと……『橘京一』の名で約束します。どうぞ、お帰り下さい。そして安らかに――…」
橘は紙を口に咥え、両手で何か印のようなものを結んだ。
上空にふっと息を吹くと同時に、紙がひらめく。
「…――っ!?」
俺は見た。
橘の目線の先に、女性の姿があった。
輪郭がぼやけて向こう側が透けて見える……しかし、それは確かに女性だと認識できた。
橘と女性は共鳴するように光を放つ。
重力を感じさせない不思議な浮遊感で、橘の髪も制服もふわりと大きく揺れた。
橘が咥えていた紙がふっと消えると同時に、女性の姿も消えた。
自分の目で見たものが信じられないなんてこと、初めてだ。
高熱や腹痛の原因は橘ではなく、あの女性の霊だったということか……。
俺は教室のドアを開いた。
驚いたように橘の体がビクッと大きく震え、こちらを振り向く。
引きつった表情の橘は、あからさまに不自然な動きで教室端の机へと戻っていく。
誤魔化すの、下手すぎだろ。
誰にも見られたくないのなら、部活の奴等も全員下校するまで待てば良かったのに……そういうところ、ちょっと抜けてるというか無防備というのか。
「橘、まだ残ってたのか……珍しいな」
俺は何も知らない振りで教室へと足を踏み入れた。自分の机に向かう。
「今、帰ろうと思ってたところ」
橘の声はちょっと空々しい。本当に下手くそな奴だ。
俺はカバンからノートのコピーを取り出した。
ちょっと慌てたように帰り支度をしている橘へ近づき、コピーを差し出す。
「……これって?」
「数学のノートのコピー。渡すって言ってただろ」
「あ、そっか……うん、ありがとう」
橘はコピーを受け取り、大事そうにカバンへしまった。
さらに陽は傾き、教室は暗くなって橘の表情もほとんど分からない。
俺は自分でも驚くほど自然に声をかけた。
「帰ろう」
「えっ? ……一緒に?」
「いちいち確認するなよ」
「ご、ごめん……」
俺達は教室を出た。
誰かと一緒に帰るなんて初めてだ。
特に何を話すでもなく、廊下を歩き、靴を履き替え、並んで校門を出る。
俺は何となく……本当になんとなく、気まぐれで、ポケットからスマホを取りだした。
「橘、お前……LIMEとか――…」
俺の言葉を遮るように橘のポケットでスマホが鳴った。
橘は慌ててスマホを取り出し、画面表示を確認してすぐに通話ボタンを押す。
「もしもし? 都築さん? この間はありがとうございました! とっても楽しかったです……え? ふふっ……そんな事ないですってば!」
なんだなんだ?
橘の声のトーンが一気にはね上がった。
都築さん? 年上の恋人……か?
年上の女性と付き合うようなタイプには見えないが、人は見かけによらないな。
それにしても、こんなに楽しそうに明るい声で話せるなんて……まるで別人のようだ。
呆気に取られている俺の横で、橘は驚くほど柔らかく嬉しそうな笑顔を浮かべた。
なんだ、普通に笑えるじゃないか。
「はい! じゃあ今度そちらへ行く時には、僕オススメの栗ようかん持っていきますね! すっごく美味しいので、楽しみにしててください! はい、……はい! それでは、失礼します!」
通話を切った橘は、思い出したように俺を見た。
「ごめん、黒崎くん……さっき何か言いかけなかった?」
「ん? あぁ、いや……良かったらLIMEの登録、どうかと思って」
「いいの? 嬉しい!」
楽しそうな通話の直後だからか、橘のテンションはまだ高い。
俺たちはLIMEの登録をした。
スマホの時間を確認する。
塾までまだ少し時間があるな……。
「橘、たい焼きでも食べていくか?」
橘は驚いたように目を瞬かせてから、にっこりと笑った。
「うん、行く……!」




