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『SS倉庫』  作者: K@e:Dё
1/1

『頂いたお題(1)』

Twitterの友人から頂いたお題をSSにしております。お題は以下の通り。


『初めてできた彼女の実家にお呼ばれして夕食をごちそうになったものの、味噌汁も卵焼きも唐揚げもなんかマズイ……食後のコーヒーすら微妙……てか他人の家特有の匂いも気になる……これから大丈夫か?的な男子高校生の複雑な心境SSをお願いします!漠然とした不安を抱えてください。オチはお任せ』



 1


 主曰く、『人はパンのみにて生きるに非ず』だそうだ。それも時と場合に依りけりだと思う。この時と場合、俺は飢えた男子高校生であり、男子高校生が初めての彼女に『もし都合が良ければ明日の夜にでも家に来てご飯とか御一緒にどうですか?』とか何とか誘われたのであれば、それはパンのみにて生きてしまっても致し方がない。致し方がないよな。致し方がないだろう。致し方がないと云う事にする。


 尤も俺とても神は恐れる。だからパンを飽食した後は速やかに改心、然る後、神の教えに則って――だからまあその――『パンのみにて生くるに非ず』に殉じよう。二重の意味で〝据え膳食わぬは男の恥〟だ。だが待て。ヤハウェだかキリストだかは『汝妄りに姦淫するなかれ』とも言っていた気がする。言っていたから何だ。俺の人生は俺が決める。神は死んだ。神様が実在するならば、今頃、俺は甲子園のマウンドに立っている筈だから。


 2


 彼女と馴れ初めたのは三ヶ月前の事だった。俺の髪型も当時はまだ五分刈だった。


 親譲りの何とやらで昔から野球ばかりしていた俺である。思えば小学校で神童と持て囃されたのが不味かった。齢一二歳にして一七〇センチの上背があればそれは同年代に敵はない。俺はその早熟を才能と取り違えて人生の道までも誤ってしまった。中学一年生で将来はプロ確定だと目されて、中学二年生では全国大会、中学三年に背中を少し痛めても同情の声が集まった。『君は努力しているね』と。『怪我をしたのも人一倍努力したからだね』と。事実として努力していなかった訳ではない。俺が地域の記録を塗り替える毎に父は『自慢の息子だ』と俺を褒めた。ご存知だろうか。野球が親に掛ける負担は他のスポーツのそれの比ではない。用具は高いし、試合があれば遠征費は嵩むし、〝お茶当番〟とか言ってチーム全員分の飲み物をメンバーの母親が持ち回りで用意して練習場に差し入れるなんて風習もある。母はそのことに一度も故障を申し立てなかった。口を開けば『お前がやりたい事なんだから』だ。俺は努力していた。確かに。だが、人並み外れて努力したかと言われると、――


 掌の大部分が血豆に覆われていた。血豆は箸を持つだけで潰れてズキズキと痛む。肘も肩も股関節だって痛くなかった事がない。何も身体的な事柄だけでマウントを取ろうとは思わない。土曜日も日曜日も旗日でさえも返上して日に一〇時間も野球に明け暮れた日々を引き合いに出そう。同年代の友達がゲームがスマホがアニメが漫画がと言っている話題に俺は一つも付いていけなかった。そのせいで友達らしい友達もついに出来なかったんだぜ。あれが人並み外れた努力以外の何だと言うんだ。あれで努力していなかったってことになるなら何が努力なんだ?


 高校一年生で世界がギュッと縮んだ。一四〇キロを投げられても全国規模で見れば『だからなに?』だ。頼みの綱の背丈も一七五で止まった。二年生になってからはどうだ。地区大会三回戦でコールド負けを喫した俺の代わりに一年生がエースになった。一年生だと。粋がるな。野球の原則は年功序列だ。分からせてやろうと思った。


 しかし、奴の掌には俺の掌の倍以上の数の血豆があった。


 俺は何も言えなくなった。違う。言わなかったんだ。俺は先輩だから。年上だから。大人だから。野球の原則が年功序列だなんて古い考え方だから。


 監督は俺に野手転向を申し渡した。その肩を活かして捕手か右翼手になれとか宣う。ふざけるんじゃない。俺を誰だと思っているんだ。畜生め。俺は何者でもない。それは俺が一番分かっている。それでも捕手はねえだろう。捕手なんてのは裏方だ。あれは俺の気分を察して俺の投げたい所に気持ちよく投げさせる為の。畜生めだ。畜生め。捕手のあの野郎は『俺も色々と見てきたけどお前の球はずば抜けてるよ』って言ったじゃねえか。それなのに何で今はアイツの球に同じことを言ってんだ?


 父は『まだ大丈夫だ』と言ったが、そうは言っても父は勤め先の弱小野球部で高が二番手投手止まりの男で、そのアンタに俺の苦しみの何が分かるってんだ。母はこの期に及んで『お前がやりたい事なんだから』を繰り返す。壊れた音楽再生機器なのかアンタは。それとも何か。その『お前がやりたい事なんだから』は嫌味だったのか。その後には『だから母さんは犠牲になってあげるね』が続くのか。『母さんは本当はお前の為にパートを続けるのが辛いし父さんの安月給で生活を設計するのもそろそろ疲れてて毎晩のように父さんと口論してるのもそれが原因なんだけどお前は何も分かってくれないもんね』とでも言いたいのか?


 怖かった。弱りもした。野球、野球、野球に野球、野球漬けの毎日で勉強もロクにして来なかったある意味ではツケ、ツケだとしてもそれは俺のツケではないが、畜生め、俺は勉強がカラキシで因数分解でさえも意味不明、『人並みに奢れや』と言われると『人並み以上に驕った結果がこれだわボケ』と言い返したくなる始末、挙句の果てに在籍している高校はプロを何人も排出してるてんで安直に選んだ進学並びに就職実績がサブマリン投法のリリース・ポイントよりも低い工業高校で、俺の只今の人生は九回裏ツーアウトって所か? どうだ? 『まだ若いんだから』とでも言うか? 『その程度で気軽に絶望するな』とでもお説教してくれるか?

 

 言ってくれ。説教も大歓迎だ。俺の周りにはもう苦言を呈してくれる奴も説教してくれる奴も誰も居ないんだよ。構ってくれ。せめて一人にしないでくれ。野球は九人でやるスポーツだろうに。


 ……と、彼女に出会ったのはそんな具合に俺が弱っていた頃だった。


 3


 三ヶ月もあれば季節も変わる。季節が変われば人々の気分も変わる。気分が変われば巷の装いも変わる。何せ時候の花さえも移ろった。灰色の街角を(言われてみれば確かにカラフルに)彩っていた紫陽花が枯れてしまったのを彼女は酷く悼んだ。俺は花に豪も興味が無かった。でも彼女が『夏になるのはいいけど向日葵は嫌いなんだよなあ』と嘆いたその日から花の勉強をすることに決めた。何もかもが変わっても俺が彼女に向けるこの気持ちだけは変わらない。


 それにしても、と、〝おはなのずかん〟を読みながら思った。あんなに綺麗に咲く紫陽花なのにこの枯れ方の汚さは何だ。晩節を汚しながら二〇〇〇本安打を打とうとする往年の名選手のようだ。違う。卑怯な比喩を使うのは止めよう。あの咲き方と枯れ方ではまるで俺だ。俺かな。俺がそんなに立派だったか。それに俺風情が二〇〇〇本安打を打った選手を比喩として使って良いのだろうか。剰え〝卑怯な比喩〟だなどと。まあいい。俺はもう二度と紫陽花を昔のように無関心には見られない。見られなくても困らない。困らなくても気に掛かりはする。気に掛かるのは剣呑だ。彼女はどうしてあんな花が好きなんだろう。俺は彼女をその点に於いては信頼していない。無論、口先では『向日葵は嫌な花だよな』と同調していたけれども――


 彼女とは図書室で知り合った。


 我が校の図書室は学校が学校、男女比が九対一であることも手伝ってオタクの巣窟、それも複数分野に跨った濃いオタクの巣窟だから天外魔境も良い所で、正気な輩が一歩でも踏み入ればその瘴気に当てられて即発狂、二度と帰って来られず、帰って来られたとしても学業は疎か健康で文化的な最低限度の生活さえも満足に送れなくなると聞き及ぶ。俺はオタクではない。正気も辛うじてながら保っていると自負している。その俺が何故に悪魔的図書室を訪れたのか。


 補習だった。精密には補習の免除と引き換えに提出を約束させられた課題、その〝参考文献〟を仕入れに赴いたのであって、図書室の最深部に存在すると実しやかに囁かれているフランス書院文庫を手に取る為では断じてなかった。それはどうでもいい。俺は参考文献になりそうなものを適当に見繕って――中身は見ずに。見たことにして題名だけを拝借すればそれで済む話だ――受付に貸し出し手続きを依頼した。で、その依頼した相手が彼女だった。


 実は、遠目に彼女を見た瞬間から『このコは普通とは違うぞ』と予感していた。


 先に触れたように我が校の男女比は絶望的だ。女の子と云うだけで〝普通とは違う〟の要件を概ね満たす。彼女はそれに加えて容姿にしても雰囲気にしても清楚だった。手に革手袋、足にはゴム長、安全眼鏡を掛けて熱々でドロドロのアルミニウムを何かの型に流し込んだりするようにはとても見えない。事実、そのときも彼女は受付の内側でぶ厚い文学書(本人に言わせれば哲学書だそうだ)を読んでいて、それが奇妙に似合っていた。本は、何だったか、ヘーゲルかカントかのどちらかだったと思う。ヘーゲルて。カントて。


 或いはデザイン科の生徒だろうか。俺は推理した。毎年、〝デザイン〟と云う音の響きに惑わされた可哀想な子が一人や二人は入学して来るそうだ。彼女もその手合いか。それならば指があんなに白くて長くて清潔なのも頷ける。だとすれば急がねばならない。理想の〝デザイン〟と現実の〝デザイン〟の差を目の当たりにしたあの手のコは気が付くと退学するなり転校するなりしている。お近付きになるならば今だ。


 お近付きになるならば今だ?


 俺の恋人は長く野球だった。女の子に興味がない訳ではそれは断じてない。しかしながら俺は強いて彼女を作ろうと考えたことがなかった。その俺がどうして彼女には惹かれたのか。謎だ。謎でも俺は彼女に物理的に急接近した。腐っても元は体育会系だ。〝爽やかさ〟では人後に落ちない自信がある。


 果たして予感は的中した。彼女は俺の『探している本があって』に『どんな本ですか?』と上目遣いに返事、その涼しげな上目遣いだけでも俺の血圧は俄に上昇したが、『タイトルも分からなくて粗筋も漠然としか』と言った俺に『それでも探せますので』と怯まずに言い返したのには恐れ入ったし、実際、大昔に一度だけ読んだ――筈の――本の内容を超大雑把に説明したらずばりその本が登場したのには御見逸れした。


『あの』と、俺は尋ねた。


『何でしょうか』と、彼女は機械的に答えた。まあここは工業高校だからな。


『野球はお好きですか?』


『一ミリも興味ありません』


 この答えが俺に彼女を愛させた。


 俺は外堀を埋めることにした。図書館に通い、彼女が居れば喜び、『実は今日も本を探していて』と嘘を吐いた。嘘を吐く為に暇に飽かしてウィキペディアで文學の欄を漁っては小説の梗概を覚えた。太宰治が自殺したのを俺はこの流れで初めて知った。その知識を披露したくて『自殺した作家の本を探している』と言ったら、彼女は『心中ですか?』と尋ねたので、『いや自殺です』と答えたらば、『それなら太宰治ではないですね』とのことだった。後で調べ直したら太宰治は情人と二人で入水自殺をしたらしい。紛らわしい奴め。太宰治は俺が彼女と結ばれるまで俺の仇になった。


 さて、図書館に彼女が居なければ、気弱そうな男子の貸し出し担当を狙って『てめえこの野郎あの子の名前は何だ?』と管を巻き、一喜一憂、割と真面目に切ない数週間を俺は過ごした。眠ろうとすると彼女の顔が瞼の裏をチラつく。瞼を揉もうにも俺の手はゴツゴツと厳つ過ぎた。あの子があの華奢な手で俺のこの瞼を擦ってくれさえすれば。彼女への想いが高まると高まった分だけどうしてか利き手が痺れるように痛んだ。


 恋は一ヶ月で決着を迎えた。一日、彼女が『良く図書室に来ますね』と訊くもんだから俺は興奮、『まあその』と後頭部を掻きながら言い、利発な彼女はそれだけで事の次第の大方を悟ったらしくある。『で?』と彼女は尋ねた。『だからその』と俺は目線を彼女と天井の間を行きつ戻りつさせながら言った。沈黙してしまえばそれで終わりだ。〝恋はタイミングが全てだ〟と俺が崇拝している哲学書にも書いてあった。


『俺と付き合ってくれませんか?』


『はい』と、彼女は淡々と言った。


『いいですよ』


 彼女は笑わない子だった。


 4


 夜風を掻き分けるようにして歩く。俺の邪魔はもう誰にも出来ねえんだ、と、思った。国道沿いの田舎町の午後七時の風はガソリンの匂いがした。


 彼女との二ヶ月間は素晴らしかった。彼女は俺の知らない事を死ぬほど知っていたし、それらを開陳するのに一切の躊躇が無かったし、現実にそうだから何も言い返せないが、俺に教養が無い前提で話した。


『〝人はパンのみにて生くるにあらず〟ですよ』


『つまり?』


『貴方みたいな人生を送ってるとロクなことになりませんよってことです』


『酷いな』


『酷いですかね』


『酷いね』


『じゃ、酷くていいです』と、彼女はツンと澄まして言い切る。素敵だ。


 でも、俺が彼女に纏わる事柄で何よりも素敵だと思うのは、彼女が俺に身体を決して許さない事だった。俺は一介の男子高校生として彼女にまあそれ相応の性欲を抱いていた。それでいて彼女の側から『どうぞお好きに』と言われるのを決して望んでいなかった。変な話だろう。それでも矛盾はしていないように思う。俺はそのように考える自分自身に密かに誇りを持っていたりもした。だから、


『もし都合が良ければ明日の夜にでも家に来てご飯とか御一緒にどうですか?』


 俺はこの控え目で遠回しな誘いにまんまと引っかかった。


 コンビニに寄る。彼女の家は目と鼻の先だ。トイレを借りた。身嗜みを整える。〝身嗜み〟は三ヶ月前の俺には無縁の代物だった。それを気にしている俺を俺は褒めてやりたい。少しだけ得意になってトイレを出た。後は手土産を買うだけだ。俺が崇拝している哲学書――『歌舞伎町の元ナンバーワンホストが教える超モテ術』――にも『気になるあの子の家を訪れるときは手土産をチェケラ』と書かれていた。ハイド(源氏名)は嘘を吐かない。例の外堀を埋める作戦もハイド(源氏名)の示したテンプレートに則って遂行されたものだ。俺はハイド(源氏名)が『これを選んでおけば手堅いぜチェケラ』と称していたクッキーの詰め合わせを買った。どうせ買うなら何処か気取った店で買うべきだったか。否である。ハイド(源氏名)を信じろ。『敢えてコンビニで買う事で身近さをアピール出来るぜチェケラ』とハイド(源氏名)は書いていた。ハイド(源氏名)は嘘を吐かない。絶対にだ。


『ありがとうございました』を背に受けながら店を後にする。暗い。列を成す電灯はどれもチクタクと時計のように点滅していた。俺はそのチクタクに急かされるように彼女の家へと走った。インター・ホンを押す。押す前にスマホを使って身嗜みをもう一度だけでいいから確かめるべきだったかなと軽く後悔した。


 月の雲に隠れて見えない宵だった。


 5


 ドイツ人哲学者の著書だの聖書だのを読み耽る彼女は如何なる環境で育ったのか。俺はその塩梅に思いを馳せては想像を逞しくしていた。彼女の生家は豪邸だろうか。豪邸とまでは行かずとも育ちは良さそうだ。それは彼女の一挙手一投足に現れている。だって育ちが良くなければ背筋があんなにピンと伸びてはいないだろう。眼鏡が銀縁なのも実家が太くなければ有り得ないセンスだ。彼女は如何なる環境で育ったのか、と、俺は再三に渡って考えた。食べている物も普通の物ではないだろう。


 彼女は自分の家の話を余りしたがらない。したがらないのか。本当か。俺の方で訊かないだけなんじゃないのか。俺はその方面では臆病だった。俺は紫陽花以外に彼女の好きなものを知らない。知らないから為出かした。


「私、クッキーは嫌いでして」――だそうだ。俺は慌てて頭を下げた。彼女は「いえいえ」と言った。「いえいえ」なら「嫌いで」なんて言わなければいいのに。俺は胸中で舌打ちした。後で物凄く極まりが悪くなった。悪いことをしたのは彼女ではなくて俺なのに。


 彼女の家は普通の一軒家だった。


 それだけで俺は『どうしよう』と思った。どうしようじゃねーよ。


 上がり框を踏む。靴脱には幾つかのスニーカーが無残に脱ぎ捨ててあった。サイズからして兄弟のものだろうか。俺は意図的に鈍感になることを決めた。無駄だった。彼女は「今日は家族が留守なんです」と言った。「そうか」と俺はすげなく言った。言ってしまった。台所から漂う薫りが唐揚げのそれであることに俺は気が付いてしまっていた。君はあのショーペンハウエルの本をパラパラと捲るその手で唐揚げを揚げるのか? 菜種油で? 


「先輩は」と、彼女は俺を居間に導きながら尋ねた。


「唐揚げはお好きですか?」


「好きだ」と、俺は言った。それは本心だった。


「ありがとう」


 居間には取り立てて特筆するに値するものが無かった。それが俺には寂しかった。「しばらく座って待っていて下さい」と案内されたソファの柔らかさは中産階級の所得に相応なものだった。俺はその頼り甲斐はあるにしてもダラシのない柔らかさに腰を埋めた。こんなことではいけない。視線を窓の外の庭に向けた。何かの常緑樹の葉が風に揺れている。風の匂いがグッと俺の嗅覚に蘇って咽そうになった。民法を垂れ流しているテレビが煩わしい。勝手に音量を下げてもいいものだろうか?


 食事の支度は三〇分余りで片付いた。俺が早く来過ぎたのか。それとも彼女は俺を焦らしているのだろうか。何を三〇分も彼女は準備していたのだろう。手際が悪かったのだとすれば可愛らしい。いじらしくもある。しかし、可愛らしくていじらしいと云うのがそもそも彼女に相応しくないではないか。


「どうですか?」と、彼女は眉間に皺を寄せながら尋ねた。


「美味い」と、俺は三日前から用意しておいた笑顔を披瀝した。


「そうですか」と、彼女は緊張を解いた。緊張してもその緊張が表に出るのを眉間にしか許さない彼女は得な人なのだろうか損な人なのだろうか。


 彼女の唐揚げは味付けと脂とがキツ過ぎて美味しくなかった。唐揚げの下に敷いてあったレタスの方が程よく脂と絡んで美味しかったような気がする。それでもまあ付け合せの卵焼きならばと俺は箸を運んだ。卵焼きを不味く作れるとしたらそれは才能だ。彼女には才能があった。それも天才級の才能がだ。俺は「美味しいね」と言いながら母の言葉を脳内で反芻していた。『お前がやりたい事だから』だ。母の言葉は嫌味でも皮肉でも当てつけでも無かったことが逆説的に証明されてしまった。真心を込めねばあの味の唐揚げは作れまい。俺は野球を辞めた事を今更のように悔やんだ。俺は母の唐揚げは二度と食べられない。球場の控室で一瞬を惜しんで掻き込む冷や飯と夜六時に家族団欒しながら食べる飯とでは味が違うのは当たり前だ。『辛かったならもっと早く言ってくれれば良かったのに』と母は俺が野球を辞めたいと言い出したときに言った。『無理することはないのよ』とも。『良く頑張ったわね』とも。畜生め。何が唐揚げだ。唐揚げなんて好きでもなんでもない。昔、俺が『今日の弁当は美味かった』と、母の苦労に報いると云うか、労うと云うと偉そうだが、兎に角、そんな感じの事を言ったら、その日のメインディッシュだった唐揚げが次の日からもヘビロテされるようになった。それだけのことだ。それだけのことでも俺の舌は母さんの唐揚げの味に躾けられている。その躾けと彼女の唐揚げの味が少し乖離しているからといって彼女を責めるのはお門違いではないか?


 食後の珈琲は焦げたように苦かった。


 思う。俺はこの感じで大人になるのか。彼女と付き合って、手を繋ぎ、携えて、キスをして、セックスをして、高校を卒業したら地元で電気工事とかの会社に就職、この田舎だから少年野球時代の顔馴染みが同じ職場に居たりして『お互いに大変だなあ』とか笑い合い、同じようにガキの頃にソリが合わなくて嫌いだった奴と再会して『もうお互い大人になったんだから』とか言って和解したり、そもそも就職した会社が知り合いの知り合いのそのまた知り合いの父親が経営しているとかで、その知り合いの知り合いのそのまた知り合いに『何だよアイツのツレならもっと先に言えよ』とか言われたりしながら肩を叩かれて、『俺の代になったら俺はもっと会社を大きくするつもりだから』とそいつは笑って、でも何を笑ってんだって話、お前みたいに家庭的に経済的に恵まれてる奴の夢物語を聞かされるのは凄く息苦しいと云うか、彼女と結婚して、子供を作って、『もう俺一人の身体じゃないんだから』とか抜かして健康に気を遣って、生命保険に加入? 緑黄色野菜をバランス良く食べる? 彼女の手料理の? ついでに野菜ジュースとかも飲んで、サプリも飲んで、半年に一度は健康診断で人間ドック、MRIでグルグルと回されて全然未来じゃねえのに『未来だなあ』とか思い、医者のお墨付きを貰ってホッとして、『良い身体をしてますが昔は何かしてらっしゃったんですか?』に『野球です』と恥ずかしげに答えるのに頭の中はコレステロールとカロリーの事で一杯で、酒も煙草も程々、夜は十一時には寝て鉢時間睡眠、良い夢を見られるように寝る前に身体を温めるとかの工夫をして、スマホを見るときはブルー・ライト・カットのサングラスを使い、子供が出来たならば『お父さんも昔は憧れたのさ』とか言いながら押し入れの奥から後生大事に保管してある自分の野球用具をさも大事そうに取り出して息子に贈るのか? 節税や蓄財に務めながら? 資格を取るための勉強は? ペットを飼って可愛がるのはどうだ? 家族仲への配慮は? 日曜日は車でドライブか? 嫌なことがあっても物や他人に当たり散らさずに友達に愚痴るとかして明日に明後日には持ち越さず、近所で評判の旦那さん、『あの人も昔は凄かったらしいよ』とか向こう三軒両隣で噂される――


 俺にそれが出来るのか?


 息を吸う。肺の底に空気の塊を落とし込むように。他人の家に特有の匂いがした。そうだ。ここは俺の家ではない。彼女の家だ。俺の家の匂いはどんなだったか。思い出そう。思い出そうとしないと思い出せないのか。壁掛け時計が九時になったからってチーンとか鳴った。うるせえんだよ。俺の家の匂いは脂ではなくて油に近い。親父が自前の用具の手入れに使うあの油の匂いだ。お袋がそれを『臭い臭い』と囃す。囃すけれども『外でやって』とは絶対に言わない。


 何時からだ。野球が楽しくなくなったのは。それとも最初からか。他人に凄いと言われるのが楽しかっただけなのかもしれない。嫌になるな。


「貴方の手は」彼女は何時の間にか俺の隣に座っていた。手と手が触れている。「とても大きいんですね」


「野球をしてたから」


「そうですか」彼女は俺の手の甲をソッと撫でた。「沢山努力したんですね」


 6


 悪いことをしたと思う。でも、「沢山努力したんですね」と言われては我慢出来なかった。俺は「気分が悪くなったから」で押し切って彼女の家から逃げ出した。


 走る。国道から横道に一本入るだけで視界の尽くがキャベツ畑に充たされる。息が切れるまで走った。走って走って走ったら此処が何処だか分からなくなった。畦道だ。暑い。背中と額が脂汗でベチョベチョになっている。肩を上下させながら襟元のネクタイを毟り取った。何がネクタイだ。何をめかし込んでいるのか。何を張り切っていたのか。俺は馬鹿か。馬鹿だ。そんな事にさえも今になって気が付いたのか。気が付いただけマシではないか。マシって何がだ。何と比べてだ。他人と比べてしか自分の価値を決められねえのか。ズボンのポケットの中でスマホが振動した。彼女からの着信だろう。通知を見るのが怖い。俺はフラれるのだろうか。


 俺に何が残っているだろう?


 と、大袈裟に考えたとき――だって彼女は『ごめん』と謝れば許してくれるだろう。残念な事に。そして有り難いことに。俺は何も喪ってはいない――右手が痺れるように痛んだ。道端に向日葵が咲いている。太陽が居ないから寂しくて項垂れているようだった。俺は、だから、その向日葵とは真逆に空を見上げることにした。


 月を覆っていた雲が消えている。俺はその丸い月をフォーシームの握りで掴んだ。


 血豆とその痕も消えかかっていた。でも、まだ完全には消えていない。


 7

 

 後日、『君の作ってくれた唐揚げは本当に美味しかったよ』と彼女に伝えたら、『嘘ばっかり!』と笑われた。『貴方はそう云う所を直しなさい』と説教もされた。


 君も笑うのかと思った。しかも君が嫌いな向日葵のようにパッと。失望した。嬉しかった。


 お陰様でと言うべきなのだろう。俺の血豆の数は順調に増え直した。彼女は何度か俺に手製の弁当を持たせてくれた。アルミの弁当箱の中には白米と唐揚げとがギュウギュウに詰め込まれていた。『だって唐揚げがお好きなんですよね?』だそうだ。そうですとも。彼女の唐揚げの味は何時まで経っても改良されなかった。わざとではないか、と、俺は疑ったが、わざとであるならばわざとであるでそれも愛嬌な気がする。


 それはそれとして、母に『唐揚げはどうすれば旨く作れるんスかね?』と尋ねたら、


『市販の唐揚げ粉を使えばいいだけよ』


 だそうだ。


 矢張り神様は死んだのだろう。でもそれでいいのだと思う。だって、『人はパンのみにて生くるに非ず』なのは確かだが、どんなに不味いものでも、口に合わないものでも、食って消化して栄養に変えなきゃ人は死んでしまうのだから。


 俺は今日も俺好みではない唐揚げを噛み締めながらそれでも生きていく。

 

好き放題に解釈して魔改造した結果、お題から掛け離れたSSが出来上がってしまって、いや、あの、申し訳ないです。お題提供ありがとうございました。

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[良い点] めっちゃ面白かった! まさかあのお題からこんなものが生まれるとは…… 主人公の掘り下げが唐揚げお題に繋がって唐揚げの回想で母が母さんになって最後の唐揚げオチ、もうなんか一本の骨が通ったフラ…
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