答えの無い問いの存在を問う話
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例えば「人の幸せとは何か」「正義とは何か」など
誰もが一度は考える俗世間的な哲学的問いに対して人はよく「答えは無い」という言葉を口にする
それはそれで当然かもしれない
探し物をする際、必ずどこかにある筈の物でも見つけられなかった場合には「無い」と結論付けることと同じ
いくら考えても答えが出なければ元より答えは無いものだ、とするのは自然なことかもしれない
しかし答えの無い問いなどこの世に存在するのだろうか
強いて言えば問いが問いとして成立していないという場合もあるだろうが、その場合は答えが無いのではなく、問いとして成立していないのだから問いとは言えない
故に答えの無い問いではない
もし問いとして成立しているのなら必ず答えが存在するのではないだろうか
喩えを挙げて考えてみる
喩えば「〜は存在するか?」という問いがあったとする
この答えが「無い」だったとしたらどうか
もし答えが「無い」だったとしても答えが無い訳ではない
「無い」という結論が答えである
喩えば「遠い未来や、現代に伝えられていない過去の出来事について問われたとしたらどうか」
この場合、当然答えは「知らない」だろう
しかしそれは”その時点”、”その人間”にとって知らない事であって答えは過去や未来に存在する
そもそも「知らない」という答えも既に答えである
喩えば「生きる意味が分からなくなった」という者が「生きる意味は何」と問われた場合はどうか
もし意味が無いのなら「無い」が答えとなり、有るのだとしたらその答えが何なのか「分からない」だけだろう
分からないことは勉強不足か究明不足か情報不足である
このように問いが存在すれば同時に答えも必然に存在するのではないだろうか
冒頭に挙げた「人の幸せとは何か」「正義とは何か」などの問いも然り
答えは必ず存在する
例えばよく人の幸せは千差万別、人それぞれだと言われる
もちろんその通りだろう
ただ肝要なのは”この問いをどう捉えるか”にある
「人の幸せとは何か」という問い方はあまりにも言葉足らずで定義不足なため、様々な捉え方が出来てしまう
故に問題をどのように解釈するかによってその答えは変わってくる
その事に気づかず考えを進めた時、答えの無い問いという誤解は生まれるのではないだろうか
順を追って考察していこう
「人の幸せとは何か」と問われると人は次のような理路を辿るのではないだろうか
おそらくまず「人間を客観的に見て、彼ら人間の幸せとは何か」と考え始める
そして「人の幸せの根源とは何か、万人共通の幸せとは何か」と探し始める
すると「幸せとは人それぞれである」という考えに至る
最終的に「万人共通の答えは無い、故にこの問いに答えは無い」と結論付ける
この理路の背景には問題の定義不足による弊害が2つ存在していると考えられる
まず1つは一貫して「人の幸せとは何か」という問題がこの問いの主題となっている点である
本来「万人共通の幸せ」を探し始めたなら万人共通の幸せを問いの主題と定義するべきである
しかし定義は為されていない
そのため万人共通の幸せが無いと思い至ったのなら、その時点で答えとなる筈のところを、
この問いの主題は「人の幸せとは何か」であるとして結論を繰り上げ、「人の幸せとは何か」という問いとして結論を考えるため答えが無いとしてしまうのではないだろうか
つまりこういう事である
まず漠然と「万人共通の幸せ」を探すという”目標”を立てる
これはただ1つの”正解”となる答えを導き出すという事である
そして「幸せとは人それぞれであり、何か1つの”正解”を定められるものではない」と思い至る
この時点で本来は答えとなる筈である
しかし「これは人の幸せとは何かという問いである」として結論を繰り上げる
すると万人共通の幸せの事は置き去りにして、目標が見つからなかったという事実だけが「人の幸せとは何か」という問いに引き継がれる
最終的に「この問いが求めているものはどこにも無い、存在しない、答えの無い問いだ」という結論になってしまう
問題の定義不足が主題を曇らせ結論の出し方を錯誤させてしまうのである
そしてもう1つの弊害は、1つの解釈がその問いの全てだと誤認してしまう点である
もし万人共通の幸せを探すならば「人の幸せとは何か」という問いは「万人共通の幸せとは何か」という問いであると定義するべきである
しかし明確に定義できるのは、問題に言葉が足りておらず定義が必要だと理解しているからこそである
加えて定義が必要だと理解しているのは様々な解釈が出来ることを承知しているということである
つまり問題の定義不足に気付かなければ様々な解釈が出来ることにも気付くことはない
故に定義不足に気付かず万人共通の幸せを探し始めると様々な解釈の可能性があることは目に入らず、
万人共通の幸せを探すことが「人の幸せとは何か」という問いの全てという事になってしまう
そして前述したように万人共通の幸せは無いという結論に至ると「人の幸せとは何か」という問いは全てにおいて答えが無いという事になってしまう
これら問題の定義不足によって起こる弊害が、答えの無い問いという誤解を生み出しているのではないだろうか
では「人の幸せとは何か」という問いは具体的にどう定義不足なのか
喩えば算数の問題で「A君は親からおつかいを頼まれて文具屋に行き鉛筆と消しゴムを買いました、お釣りはいくらでしょうか」
などと問われても、親からいくら預かっていて、鉛筆はいくらで、消しゴムはいくらなのかが分からなければ答えようなどある筈がない
しかし出題者も回答者もその事に気づかなければ、人により元金や鉛筆や消しゴムの値段の設定が異なり、答えはそれぞれだという事になってしまう
「人の幸せとは何か」という問いはそれくらい定義不足だと言えるだろう
喩えば「人の幸せとは何か」という問いを「統計的に見て人の幸せとは何か」と定義したのならば、統計を取れば当然答えが出る
他も同じことである
もし「人の幸せとは何か」という問いを「人間を客観的に見て、彼ら人間の幸せとは何か」と定義して考えた結果「幸せとは人それぞれ」という結論に至ったのならそれが答えである
もし「人の幸せとは何か」という問いを「万人共通の幸せとは何か」と定義して考えた結果、幸せとは人それぞれで万人共通の幸せなど無いという結論に至ったなら「万人共通の幸せは無い」という答えになる
このように明確な定義が出来ていれば、答えが無いなどという結論に至ることはない
因みに一応断らせてもらうと、ここで挙げた問題の解釈と答えはあくまで喩えであり正否とは別の話である
そもそも何故この様な定義不足な問いが生まれてしまうのか
それは人間が言語を過信するからではないだろうか
元来、世の中にある言葉や問いはそのほとんどが言葉足らずである
喩えばペンを手に取り「これはペンです」と言っても、手にしている物体がペンという名称の器物であると伝えるには本来言葉が足りていない
ペンを手に取る動作をペンと言うのかもしれない
ペンを手に取ったポーズをペンと言うのかもしれない
ペンに触れている一部分だけをペンと言うのかもしれない
ペンを指し棒代りにして何かを差してペンと言っているのかもしれない
ペンという品名、愛称、メーカー名かもしれない
だが実際にはそこまでの説明は不要である
あまりに正確に表現しようとすると文章が長くなり過ぎて伝えている事の本質が分からなくなってしまうし、人間には常識というものがある上、相手の意図を汲み取る能力もある
そのため言葉に字義以上の意味を込めて、片や表現し、片やそれを汲み取ることで会話を円滑に進めている
そのためほとんどの場合全てを言葉にする必要はないのだろう
しかしそれは時として行き過ぎた言葉足らずを生み出し、結果としてこの世には答えの無い問いが存在しているという壮大な誤解を招いているのではないだろうか
人間の言語が担える情報など貧弱である事をゆめゆめ忘れてはならないということではないだろうか
ここで少し話は変わるが、答えの無い問いは無いとすれば必然こんな疑問が出て来るだろう
即ち、答えの無い問いが無いならば「正解の無い問い」も無いのか、という疑問
「答え」と「正解」、少なくともどんな問いでも存在するか否かという点においては同じものとして扱ってもいいように思える
何故なら終始論じている”問題を明確に定義する事”とは、結論という目標を絞るための限定条件を追加してゆく事で、
その条件に合致することがその問題の”正しさ”である
つまり問題が明確に定義されていれば”正しさ”も明確に定義される
そしてその正しき道筋を通って行きついた結論こそが”正解”や”答え”になる
これは正解でも答えでも変わらないからである
しかし実は”正解の無い問い”というものは存在する
一口に”問い”と言っても様々だが「問題」「疑問」「質問」この3つに大別できるだろう
この中で唯一、正解を求めなくとも成立するのが「質問」である
具体的には、「正解ではなく人それぞれの考え方や答え方を聞くための質問」である
喩えばただ漠然と「正義とは何か」と問うたとする
すると人により様々な問題の定義をして答えることになる
相手がどのように考え問題を定義し答えを導き出すか、それを聞くのが目的であれば正解を求めていないため正解は無い
「それはただの定義不足な問いではないのか」と言われるかもしれないが、
確かにこれが正解を求めている問いならば、ただの定義不足な問いである
もし正解を求めているなら、正解を導き出す目的に対して定義が足りていないため問いとして未完成である
未完成なのだから、ただの定義不足な問いである
しかし考え方や答え方を聞く目的ならばあえて定義不足にして相手に定義をさせなければならない
故に定義不足な状態でこそ問いとして完成している
この目的の違いが”ただの定義不足な問い”との違いである
「だったら答えも無いのではないか」と考えたりもするが、これは当然誤りだろう
それぞれの答えや答え方を聞くことを目的としているのだから、それぞれの回答が答えとなるのである
故にこの問いには”正解”は無いが、”答え”はある
しかしこの様な”質問”でもない限り正解を求めないということはなく、正解が無いなどということもないだろう
なぜならこの”質問”は意図して正解を排除しているからであり、正解の排除が可能なのは”質問”という情報を収集するための問いだからで、その中でも相手の答え方や考え方という情報収集を目的にしているが故、唯一相手に定義を求め正解を排除できる問いだと考えられるからである
つまり少なくとも正解を求める問いならば”正解”は必ず存在する
それは答えの無い問いが無いことを証明する事と同じである
”答え”がどんな問いにも存在すると言えるのは、”問い”とはつまり”答えを求めること”に他ならないからである
答えを求めないなら元より問う必要などないのだから問いではない
では最後に、なぜ答えを求めれば必ず答えが存在するのかという根拠について考えていこう
答えが無い問いは無いと証明するためにいくつかの問いを例に挙げ論じてきたが、たかが数問の問いを例に出したところで答えの無い問いは存在しないという証明にはならない
故に問いには必ず答えが在ることが理であるという根拠が必要である
分かり易くするため例として”問い”を”疑問”として考える
疑問が生まれた時点で答えも存在している
それは何故か
まず疑問とは情報が無ければ生まれないものである
喩えばサンタクロースを知らなければ「サンタクロースはいるのか」などという疑問を持つことはない
疑問とは持ち得る情報に不足を見た時に生まれるものである
情報が何も無ければ不足を知ることもない
疑問を持つという事はつまり知っているものについてより深く知ろうとしている状態である
それはつまりあらかじめ対象を設定していて、その対象のある部分について知ろうとしているということ
知ろうとしている対象が決められていて、それを知ることが答えを知ることならば”答えが必ず存在する”というのは当然の理ではないだろうか
これだけではどういう事か分かり辛いだろう
物に喩えると分かり易いかもしれない
喩えば地球に未知の物体、Xが降ってきたとする
物体Xを回収し調べると「この部分はなんだろう?」という疑問を持つ
そこに答えが無い筈はないのではないだろうか
その正体不明の部分を知ることが答えを知ることである
人間が正体を明らかにした時、それを人間がどう定義するかは分からないが
”正体が無い”という事はあり得ないだろう
正体が無いという状況は物体Xが初めから存在しないという状況以外にはない
物体Xが存在しているなら正体も存在している
その正体を知ろうとする事が疑問を持つことで、そしてその正体を知ることが答えを知ることなのだから、
疑問が生まれた時点で答えも存在している事は当然である
これは”問題”でも”質問”でもそのまま置き換えることが出来る
正体を問う事が問題を出すことで、正体を知ることが答えを知ること
正体を聞く事が質問をすることで、正体を知ることが答えを知ること
全ての問いにおいて言えることだろう
故に答えは必ず存在するのではないだろうか
『この世には”答えの無い問い”があるのではなく、”定義不足の問い”があるだけである』
これが最終的結論である