思考少年のリセット日和【第36回太宰治賞選考通過作品】
さあ ぼうけんの せかいへ!
ミクルは柏木祐樹を殺したい。と、思う。思う上での殺したいというのは必ずしも生命を剥ぎ取りたいという言語上の意味とは一致せず、ミクルの場合もそうであった。ミクルはお前のことを殺したいと、息を肺から送り出して、発言することができたはずであったが、そうしたところで、柏木がとらえるであろう、殺したい、の意味とは全く異なってしまうであろうということに諦めがついていて、柏木の放つ言葉に頷き、視線を反らしてしまうことを指摘されることが面倒だったので目を見て―が、案の定見ていられなくなって反らし―終いには自分から打撃フォームについてのアドバイスを柏木に求めてしまったことによって、自己表現の喪失は表出した。学校が離れていく。自分が歩いているということを忘れ、夕暮れは夕暮れと思うだけで綺麗、とミクルは頭の中で繰り返した。
「だからお前は引っ張りしかできへんねん。力み過ぎ。矢代みたいに力んでも打てるやつおるけど、お前は根本的にパワーないねんからさ。最初から流す意識持てよ。右に。最悪進塁打でさ。もしくは左打に変えたら?」
「いやあ、まあ、それは、夏の大会までに間に合わんし、さ」
「いやあ、まあって、いっつもお前『いやあ、まあ』やん。言い訳ばっかやん。今まで背番号一回も貰われへんかったやつが、言いそうなこと、お前やっぱ言うねんな。お前やからか」
「……いやあ……だ、だってまあ」
「ほんまドモリ君」
なるべく柏木とは一緒に下校したくなかった。いつも一緒だった谷尾が昨日インフルをこじらせて、二週間は学校に来ない。谷尾が付き添わないミクルの姿を見つけると柏木は間断なくミクルに絡んだ。励ましたいのだろうと理解しようとしたが、打てないことに関してはミクルなりの苦悶があって、それは腰の痛みやピッチャーに対する恐怖心、藤堂香澄のこと、メカジュウ(ゲームカセット『メカニカル獣』)への雑念など、で、それを打ち明けた時に柏木の野球観の中で勝手に解決された風にされるのが嫌だった。人に説教やら、啓蒙やらで気持ちよくなる柏木にミクルは抵抗を感じたし、殺したい、という短絡的な閉鎖で逃げる。中学生が「お前殺すぞ」という幼き戯れの秩序を保守するための「殺す」とも、ミクルの「殺す」は違う。発声されないことがその意を最も明白に示せるような「殺す」で、思って秘めることが正しい。それは柏木なんかには分かってもらえないという諦観、裏を返せば柏木なんかにさえ分かって欲しいという淡い期待で、対話にこたえ、柏木が言ったように、今まで背番号を一度ももらえなかったことを負い目に感じ、蓄積された自信喪失にしがみつくことでヒット一本打てないことを日常化している自分自身に対する殺意では、絶対にない。自分のことは責めてはいけない。短絡的な閉鎖とはいったものの、熟考、そこで停止し続ける決意といったもので、いずれ訪れてくると思われる自己否定を食い止めることができる。柏木に打ち明けても良いことはない。柏木が勧める打撃フォームを実践することで、柏木の野球観に乗っかることもしたくない。お前のことを殺したい、と言って、柏木の、うまくいっていないやつの鼓舞に成功した、という、救済の快感に彼を浸らせたくもない。と、頑なにミクルは柏木に対しての嫌悪を思い起こした。そして、彼にアドバイスを求めるという、自己破綻の道を辿ってでも柏木には負けたくないと、力み、いや、それでも、自己破綻はしてはならない、と、枯葉を拾って、柏木の目の前につきつけた。
「汚っ」
谷尾なら枯葉を無言で受け取って、手元でゴニョゴニョ何かを作りながら、話題はメカジュウの話になる、のになと思う。小学三年の時にブームが到来して、去って、中二の時にまたきた。メカジュウ業界ではどんどん新しいカセットが登場していたが、ミクルと谷尾は初期から数えて二番目のものを延々とプレイしていた。哀愁の権化、とミクルは頭の中で繰り返した。メカジュウ修理センターで瀕死状態のメカ・ギラスを回復させる時、マグネット・ギャオスを仲間にする前にセーブをして、仲間にできずゲームの電源を消して、リセット、セーブ地点からやり直す時、レベルの三のギラスをレベル三百のハイパーギラスのジャンボアタックで一撃粉砕した時―繰り返した―哀愁の―と―柏木はミクルの意味の分からない行動を、言及によって、意味をつけ加えた。
「だから捨てろよ。汚いねん」
ミクルが手をパーにすると枯葉は回転しながら後方に飛んでいった。
「まじ、陰キャやん」
百メートルほど先に柏木のマンションに続く坂道が見える。柏木とはそこで別れることができる。谷尾と帰る時は意識もせず通り過ぎる分かれ道だ。さっきの枯葉は今どこで、という風に振り返ってみたりもしながら、柏木との距離をはかった。
「な、なんでさあ、柏木君は、あれ、の、あ、矢代君ほどのパワーないのに飛ぶん? いや
あ、僕、芯でとらえてもレフトライナーが精一杯や、し、さ」
ミクルは視線を固定せず、継続して自分から仕掛けていく。相手のリズムに合わせたらやられる気がする。
「めっちゃ話すやん。ってか、お前にパワーないとか言われるん腹立つわ」
褒めたつもりでもあったのに、盲点。
「いやあ、まあ、ミート力もあるしさ。メカジュウで言ったらSランクや、というか……」
「メカジュウやってへん」
「そ、あ、やってへんの? 新しいやつ、僕……と、谷尾は古いやつしか、やけど」
「そんなんする暇あったら、素振りする。走る」
「……あ、やっぱ凄いなあ。スタメンは意識ちゃう、意識……」
「お前、俺と距離置こうとしてる?」
「いやあ?」
?
「鞄、俺の方に向けとるやん」
「……?」
テニスラケットを背負った女子三人組が道路を挟んだ向こう側でキャッキャして、中年男性に引かれた犬を撫でている。通行するということを忘れて、の、ように。
「テレビでやっとった。話すとき、鞄を間に挟もうとする人間は相手との距離を置きたがってるって」
「ああ、ごめん」
ミクルは慌ててボストン鞄を左肩にかけ直した。
「そういう話ちゃうねん。別にええけど。お前に嫌われたところで、俺になんのデメリットもないし」
「いやあ、ま、そんなん迷信、や、ろうし」
「迷信とかやなくて心理学やって」
後百メートルと思っていた分かれ道までの距離が、さっきよりも長くなった気がした。谷尾は今頃インフルでメカジュウやりまくりなんやろうなあと羨ましく感じた。
「俺、なんかしつこい?」
「いやあ、別に」
嫌われてもええんちゃうんかー、い。
「高井戸のやつも最近俺のこと無視しよった。約束しとった朝練のティーバッティングもこんかったし」
「え、え、そうなん」
案の定、と思った後、ボーナスタイム! とミクルは頭の中で一度吠えた。高井戸が無視し始めるのは皆に嫌われ始める前兆でもあった。中学生特有の集合意識、とミクルは自分が中学生であることを少し思った。それでいてミクルはここで便乗し、柏木に素直な内発的逆襲ができるかもしれない。嫌いだもの。僕だって、嫌いだものと、嫌いだと一言放って走って帰ってしまおうか、とは鼓動の早まりを感じたものの、歩く速度さえ柏木に合わせて、夕暮れがつくった自分の影を追った。
「日曜、十一号で野球やるけど来るやろ?」
十一号とは十一号棟のマンションの公園のこと。正式には三田東公園といった。明日、土曜は午前中のみ練習で、日曜は休みだった。のに、わざわざ野球?
「四番打たしたるわ。俺のチームで」
お前は俺のこと嫌いにならんとって欲しい、とほぼ同義的に聞こえた。メカジュウする予定だったのに。日曜でメカ番人を倒さないと、谷尾に追い付かれる。メカ番人とはメカジュウの最後のボスのような存在で、四人いて、周知ではあるが、最後に隠れキャラのボスであるメカニカル・オウに勝負を挑まれる。
「……い、いやあ、まあ」
「無理。絶対こいよ」
柏木はそれから、塾間に合わんから、と付け加え走り出した。ミクルが早く失ってしまいたかった距離を一瞬で走り切り、角を曲がる前にこっちを振り返って手を挙げ、ミクルが手を挙げ返す間もなく姿を消した。犬の放置、とミクルの頭の中で繰り返された。犬。向こう側ではテニス部の女子達はいなくなっていて、中年男性は犬を抱きかかえて横断歩道を渡ろうとしていた。塾って真面目かよー
「殺したい」
と呟いてみると、柏木のいなくなった空間では、胸元に不愉快なわだかまりが昇ってきて、その言葉は滞在不可であった。かといって、内在させることも違和感で、殺したいと思うにふさわしい境遇にいる世界のどこかの抑圧された人間の憎しみに、その言葉を返すことにしよう、とミクルは冷静に思った。思うことにした。なるべく、ヒトラーみたいな権力者ではなく、社会的弱者に。ミクルには世界平和を志しているという自負があった。殺したいと思うのは良くないと思っていたが、思うことによってにしか、自分を保てない人間がたくさん世の中にはいて、もっと良くないのはそう思っている自分自身を攻撃して、自己喪失し、狂気化し、本当に人を、または、自分を殺してしまうことだと思っていたから。思ったことは、まず思ったこととして、認識することが必要だ。そうでないと、社会は理性を保てない。平等でない。殺したいという思いは、具現化するものではなく、秘めて、欠落を補うものだ。殺したい、は対象の抹消欲ではなく、輪郭の再構築だ。柏木は、言うまでもなく、生きていく。万が一、万が一この時代のどこかで柏木が殺されるとするならば、それ相応の運命を彼が進んだということだ、と、思うし、柏木の事が嫌いになる僕の感情も普遍的で愛すべきだ、などと、支離滅裂かもしれない、という後ろめたさは肌寒さではぐらかせて、自分の思う、に敏感になりすぎているミクルの返答は、普段、他者、野球部のチームメイトや、家族、犬? などへ、遅いテンポでなされるので、周りからは、ドモリ君という揶揄、吃音とかいう心配を投げかけられていた。ミクルはそろそろ、谷尾にでも、自分がこれだけのことを、思っている、ことを告げてみようと思っていた。谷尾はすごいねって言ってくれる気がした。谷尾は秋季大会で一度だけ背番号十六番をもらったことがあるが、あとは真っ白の背中でグラウンドの外から声を出していた。谷尾はマグネット・ギャオスばかり育てていた。ミクルは早口で他のも育てろよと言ったことがある。メカジュウの話は、あまり、よそう、とも、メカジュウを通して社会が良くなるのなら、話そう、考えよう、とも思う。冬の風は冷たい。
玄関で靴を脱ぐと、母親がひょいと顔を出して「おかえり」と言った。ミクルは「ただいま」と思って「うっ」と漏らし、風呂場に直行した。黄色い籠に、水色のトランクスと、グレーのスウェット上下が綺麗に折りたたまれて置いてある。ミクルはジャージを破り捨てるように脱いで、鏡に映った上裸の自分を見つめた。拳を握って、肘を折りたたみ、ふおっと唸って腹に力を入れる。少し背中を丸め、腹筋が割れていることを確かめように右手で擦った。幼少期、太っていたせいで、その体格の比率に迎合していた皮が、急激に痩せていったことによって余り、背中を丸めないと腹筋が割れていることが明示できないことをミクルは損に感じていた。なので、水泳の授業の際は腹に力を入れながら、背中を丸めなければならない。女子には筋肉を見せつけなければならない。特に、藤堂香澄には。背番号をもらったことがないとか、ヒットを一本も打てないとか、そういうことは、野球部の内輪話で、特に外部に漏れている様子はなく、むしろ、ミクルの通う中学では野球部というだけで、校内ヒエラルキーにおいて上位を占めているような雰囲気があった。クラスが一緒の矢代や柏木、トッチャンが、ドモリ君とか陰キャとか言って、いじってくるのはとても鬱陶しかったし、殺したかったけれど、女子達には、一応、それがかわいいと弁護されていて、まんざらでもなく、多分、モテているとすら思う。字も結構綺麗に書けるし、合唱コンクールでは指揮も務めた。藤堂香澄とは三学期になった今も、まともに会話をしたことがないが、彼女の好意も自分の方に向いている気がしている。腹筋トレーニングの時だけでなく、練習にへこたれそうになった時はいつも彼女の姿を思い浮かべて凌いでいた。背筋はどないなってるやろ、と鏡に背を向けて、再び、両腕を上げて拳を握り、ふんっと唸って肘を折りたたんだときに、兄やんが引き戸を開けた。
「俺の髪染めしらん?」
「う、うん、しらん」
「うそお。もいっこ買ったんやけど」
「しらん……なあ」
ボディビルダーの格好をしたままのミクルを兄やんは一瞥、ともせず、髪染めを探すこと一点集中で、風呂場を隈なく嘗め回すように眺めた後、扉も閉めずに出て行った。兄やんの頭は、全体的に明るい茶色で、根本や、前髪は黒いままだった。引きこもり巨匠、次に、ハムスター戦法とミクルは頭の中で繰り返した。リビングの方で「おかあーさーん。ブリーチなくなった」「母さんなんも触ってへんよ」と聞こえて、パンツを床に脱ぎ棄てた。女が筋肉好きだとは決めつけてはいけない、女が女であることも、社会的に決めつけは良くないとミクルは思い直して、身体に湯を叩きつけるようにかけた。
兄やんは、新父さんの連れ子だった。旧父さんはミクルが二歳の時に海で死に、母さんは僕が五歳の時に再婚した。いきなり十九歳の兄ができたはずだったが、いきなり、というよりむしろ、記憶上、ふと隣には、一緒にテレビを観たり、夕ご飯を食べたりしている兄やんがいた。近くの道路で、キャッチボールやノックを一緒にしてもらって、兄やんの事はそこそこ慕っていた。だから、会社勤めで東京に行くってなった時の方がミクルにとっては、いきなりだった。良いことだと思った。兄やんみたいな人が、社会に進出すれば、社会はもう少し、優しくなると思った。僕も、いつかはあんな風に、両親にも惜しまれながら、一人の男として、大きな背中で羽ばたくのだと身震いした。自立と自律の両方を携えた人間同士だけが社会において互いを尊重し合えるのだと思った。両親の寂しい表情は、繁栄の証だと、小学校低学年のミクルがソファの上を跳ねまわったことを、今のミクルも覚えている。ミクルが兄やんの部屋で一人眠り始めた小学六年生の冬頃から、両親の兄やんに関する戦略的コミュニケーションは始まった。戦略、とは、いかに兄やんを助けるかというもの。兄やんの部屋と両親が寝る和室との間には廊下があるのだが、両親の声は、床を伝い、壁を伝い、ミクルの耳元まで到達してきた。その日、ミクルは毛布を抱え込むようにして丸くなっていた。
「残業が百時間はあかんでえ」
と、母さんの高く、聞きとるには弱弱しい声。
「せやなあ。でも、そこで頑張って、信頼勝ち取ったら、人脈とかもようさんできて、洋介がしたいこともできるようになるかもしれん」
新父さんは低く、聞き取るには難しくないほどの柔らかい芯のある声だった。洋介とは兄やんの名前。
「でも、もう、しんどいって、本人が私らに言うってのはSOSやと思うよ。あの子から連絡くるって相当珍しい」
「でもなあ、やれると思うんやけどな。小さい頃から逆境は跳ね返してきたから。高校の時はラグビーもよう頑張っとったし」
「見過ぎなんや、あんたは。小さい時から洋介のことずーっと見とるから、先入観かもやで。私はほら、まだ洋介とも、まあ言うても、七年か、八年? 七年か。にしても、まだ人の子やいう視線はもてるから。人の子やとは思ってへんけど」
「うーん。一回、帰らした方がええかな」
「ええと思うよ」
「こっち帰って来てもなあ」
「まずは休むこと優先や」
「映画の道はよう分からん」
「映画と広告とは全然違うって言うとった」
「それはそうやろけど、広告から映画にいく人だって今時多いやん。ほら、なんちゅう監督やっけ。あの」
「知らん」
「あれやん、あの、返せよ僕らのなんちゃらとか、ミスターなんちゃらとか、ミスター吉田マンや、あれとかCMからいった人やろ」
「知らんー」
「まあ、まだ二十六歳やし、一旦こっちでっていうのもアリか。転職もあかんのやろ?」
「うん。会社勤めが向いてないって。バイトはバイトで時間も前よりとられるやろうし」
「芸術家やから」
「芸術家やもんな」
「パトロンの彼女でも見つけーいうたら、黙ってもうた」
「限界か」
「うん」
「俺にも話してくれたらええーのになー」
「私の方が、相談機関として適度なんやと思うよ」
「相談機関ねえ」
「帰ってきたら、家族で温泉でも行こか。ミクルも連れて」
「せやなあ」
「美味しいもん食べて、再出発や」
「あ、釜西いつき」
「誰」
「さっき俺が言うとった、CMの人」
「知らん」
毛布の中に頭ごとズバッと入った。僕が映画監督になりたいなら、今も、この瞬間も撮る。仕事がしんどいしんどいって、広告? と映画はちゃうとか、それすらも撮る! 僕と兄やんは違う! 兄やんは兄やんのやり方で映画監督になる! とミクルは熱苦しく思い、毛布をはぎ捨てて立ち上がった。扉をバフッと開くと、新父さんと母さんの寝室は静まった。ミクルはトイレの扉をパンッと開くと、閉めもせず、ジョボジョボを小便の音を暗い廊下一帯に響き渡らせた。自分はもしかして、ませているのかもしれないと思った。まだ子供なのに損なことでは? と便器に跳ね返って、飛び散った小便を拭こうとはしなかった。その一週間後、ミクルが家の前で素振りをしていると、「スイング早なったな」と後ろから男の声が聞こえた。振り返ると、出て行った時よりはるかに痩せこけた色白の兄やんがキャリーケースを引いてつったっていた。お盆も正月もずっと帰ってこなかったのに、いきなり、兄やんは帰ってきた。兄やん大丈夫か? と思って、何回スイングしたかを忘れ、五十ということにし、再度、百を目指してバットを構えた。
まけた わしに なにも いう けんりは ない!
メカ番人の三人目、ジットをようやく倒してミクルは興奮のあまり、ゲーム機を片手に握ったままベッドから転げ落ちた。午前中の練習は坂ダッシュ、腹筋、背筋の体幹トレーニング、ティーバッティング、最後にもう一度追い込みの坂ダッシュで、終わった。ラスト一本の坂を登り切って、ぜーぜー言っているミクルに、先に登り終えた柏木がぜーぜー言いながら「明日な」と言った。ミクルは、分かってるわと思い、ぜーと言った。日曜にメカジュウができないならと、帰ってすぐ、グレーのスウェットに履き替え、ベッドに置いてあるゲーム機を掴んで横向きに倒れ込んだ。兄やんは帰ってきてから、勿論、ミクルに俺の部屋から出ていけとなどとは決して言わず、和室の方で持って帰ってきたノートパソコンを開いて、襖を閉めて、ポチポチしている。長らく。そろそろ一年ぐらいだろうか。健康保険は新父さんのに入って、国民年金は失業者免除? のどうちゃらこうちゃらで、その辺の事務手続きは母さんと一緒にやった。という、一連のいきさつも、夜中に聞こえてくる、両親の会話、から情報を得た。聞かない方がええなと思った時は、耳にイヤホンを付けて、兄やんに貰った、というか、勝手に使い始めたらいつの間にか自分の物になったMDプレーヤーで、その中に入りっぱなしの青年合唱団・ライツ『光の方へ』を聴いた。兄やん、こんな歌聞いとったんや、幸福は、そんなに簡単なものじゃないで、と思いながら聴くぐらいのスタンスが、僕と『光の方へ』の共栄だと、ミクルは高揚したこともあった。カセットには『光の方へ』だけがなぜか四曲入っていて、そのうち最初の三曲は途中で切れている。コピーを失敗したものと思われた。ミクルは、部屋の静けさを堪能し、今日は夜まで兄やん以外誰も家には居ないことを思った。母さんは買い物で、新父さんは仕事に行っている。新父さんはテレビ局のスイッチャー(画面を切り替える仕事)をやっていて、定年後も、嘱託社員として、給料が半分になりながらも働いていた。土曜日は収録があるらしい。家庭の為やない、自分の為やとは、新父さんに、小学生の時に「はたらくお父さん」という題目で夏休みの作文を書く為の取材をしたとき、言っていた。過去を振り返んのはダサい、と、メカ番人の四人目、マリンとの二戦目、ミクルはAボタンを連打しているのは今で。一度、マリンに負けてリセットしたところだった。一戦目、マリンが繰り出したゲストラウスのショックビームが二回連続ではずれた時は、右手でガッツポーズをし、ガッツポーズをした自分の様態に違和感を催して恥ずかしくなったが、ゲーム機の電源を入れ直し、二戦目となった今、はその感情も忘れている。マリンの目の前でAボタンを押す。
あなたは わたしの あしもとにも およばない たのしませて ごらん
もし、マリンに勝つことができたら藤堂香澄と付き合う事ができる、とミクルは勝利報酬を勝手に決める。藤堂香澄にミクルが告白した場合、断られる理由の権化がマリンそのものだとミクルは鼻息を荒くした。左ひざを立てて、その上に右くるぶしを置いた。一戦目は関係なく、今、からだ。残る手持ちのメガジュウはメガ・ギラスと体力僅かのメカポニーの二体のみで、勝算は低い。だからこそ、だ。寒っと思い、サフッと言い、右腕を伸ばしてホットカーペットの電源を入れた。しかし、ゲストラウスのショックビームの連打で、「みくる」はちからつきた。電源を切って、リセット。今のはなし、というか、さっきのはあくまで断られる理由に負けたのであって、それ以上に、付き合える理由があれば良くって、次の対戦では、マリンは付き合える理由の多くを封印している魔女として登場する予定であったが、背中からきた温かみに眠気を催したミクルはそのまま、目を瞑ると、シーリングライトの残像が粒状に浮かんで消え、真っ暗、とミクルは頭の中で繰り返してみたものの、暗闇の中は赤味がかっていることが気になり、今僕はどこを見ているのだろうと、目を開いたり、閉じたりを繰り返した。角膜、結膜等々。瞼の内側? 乾燥を防ぐため瞼で蓋をしているだけで、眼球はそこにあって、魚は、そうか、眼を開けたままなのは、海の中やもんな。それで、眠るには、意識の遠のきが必要で、瞼を閉じるという僕の選択とはまた別の選択を身体がなさなければならなくって、別種類の脳の指令が必要? なのか、はたまた、眠らされる、ゲーム機の電源スイッチみたいなのが僕の身体のどこかにあって、それを今、僕が僕と思っている僕じゃない何者かに押されるのを待っている状態なのか。ほんで。藤堂香澄と付き合えることができたら命はいらないなと思う。変だけど、もし、それが叶うのなら、藤堂香澄とのそれからの時間よりも、藤堂香澄が僕を選んだ到達点で、僕の身体はバラバラになって死んでしまうことがこの海ではちょうど―うみ……ゆめのなかで ゆめと きがつくことが できたら うまれた のに ねむる のは どうして でしょうか とうさん ぼくは うみのなか そうげんのなか はなばたけのなか もりのなか はいきょのなか あなたがたっている のが みえる ぼくは あなたを よぶ とうさんの かお ぼくが つくった にせものの とうさん もし ほんとうの とうさん なら ぼくは とうさんの せなかを みる はっけん する つごうのいい このように つくられた せかいは ぼくのほうに ばらんすよく むいている ぼくはさかいめに ねむろうと まだ ぜんぜん ねむれない はず ぴこーん かすみ―
扉を叩く音が何回か鳴っていて、反射的に身体を起こした。背中に寒気がはしって、汗をかいていることをミクルは思った。「電話。柏木君」完全に金髪になった兄やんの頭が扉の隙間から飛び出ている。
「あ……髪染め見つかったんや」
「そんなんええから、はよ、電話出たり」
「で、電話? 谷尾?」
ミクルは嬉々として立ち上がったが、
「だから、柏木君」
と、言われて一気に億劫になりつつリビングに向かった。受話器をとって、力無く「はい」と言うと「おお」と返ってきた。
「お前B球何個持ってる?」
「いやあ、え、だ。え」
「落ち着けよ」
寝起きなのもあって何様だこいつ、と不確かに思ったが、柏木に迎合するという閉鎖によって、柏木に対抗し続けていたことを本能的に思い出した。
「B級は一個しかない」
「じゃあそれ持ってきて。あと、カーボンのバット、お前持ってへんかった?」
「持ってる。青いやつ?」
「うん。それも」
「分かった」
「じゃあ、九時な」
「ああ、え朝から?」
「当たり前やん。遅れたら、罰金な」
ガチャグチョッと荒っぽく受話器を置く音が聞こえて、プーッと切断音が鳴った。
「雪や」
兄やんがキッチンの方で牛乳を紙パックのまま立ち飲みしたまま、指差す方はベランダで、半開きのカーテンの隙間から白いものが疎らに飛び交っていた。もし、とミクルは思う。世界が反転して、柏木のことが好きになったら、明日の十一号棟での野球は断って、メガジュウがしたい、しかも寒いし、という自分の意志を伝える。よりよい人間関係を目指す。のだろうな。でも世界は反転しないし、ほんで、「世界」といえば、語りつくせないことから逃避できる、安心感もあるよな、とミクルは思う。社会的にも嫌いな人間とよりよく、と、無理する人間はない方がええなと思う。高井戸に嫌われ始めたのなら、ある地点で、柏木と関わるなという同調圧力によっていずれ距離を置くことになることをミクルは予見する。それは、おそらく、柏木の方も、と思う。決定的に僕と柏木は運命を蛇行している、と思う。嫌い、嫌われても、関わり合うこと、言葉を交わすこと、いずれ交わさなくなること、なったこと、互いの運命の境界にぶち当たり、傷つけ合ったことを、後に哀愁とすら呼んで誤魔化していくのか、とミクルは切なく思う。リビングの床には橙色の光が落ちていて、時計の長針が四時十九分から二十分に動く瞬間を目撃した。兄やんは、リビングの方に来るとソファにドシッと腰掛けた。家族が乱暴に扱うせいでソファの革はめくれて、黄色いスポンジのような中身が飛び出ている。
「ミクル、今何番打っとん」
「ぼ僕?」
「そりゃあ、ミクルゆうたら」
「いやあ、ううーん、七番とか八番とか、スタメンじゃないけど、補欠でもないけど、練習試合の二試合目とかにそれぐらいの打順で」
「スイングええのに。何があかんの」
「あ、え、普通に打ててへんし。フライばっかあがる」
「守備は? ライトやっけ」
「そ、うん、セカンドとライト」
「二つも。すごっ」
「あ……すごないで、セカンドとライトは希望人数が少ない、から、そこで、な、まだ出てない人枠で出れるねん」
「義務教育やもんな」
と兄は言ったが、良く分からなかった。多分自分でもよく分かっていない。
「キャッチボールする? 久々に。俺、今全然肩あがらんけど」
「ゆゆ雪降ってるやん」
「ええやん」
「やや、寒い」
「まだそんなや」
「ややメガジュウせなあかん」
「じゃあ今度」
「あ、今度やったら」
兄やんがにキャッチボールに誘われることは久しぶりだった。というより、こっちに戻って来てからは初めてだった。不思議に思いつつ、兄やんは中学校の時、そういえば、何部やったんやとろうとミクルは思い出そうとしたが、まだ知らない、と分かった。高校時代ラグビー部だったことは、リビングに飾ってある総体試合後の集合写真やラグビーの話で盛り上がる新父さんと兄やんの会話で明白だった。ミクルの家に最初にやってきたとき兄やんは十九歳で既に市内の短大に通っていて美容師を目指しているという感じで(はっきりとは聞いていないが、美容系の、とは)、元ラグビー部とは思えない肉付きだった。元ラグビー部なのにほそっ、美容師目指してたのにブリーチ失敗っ、となんだか秘密の関連性に気が付いたようで、ミクルは自尊心を一回り大きくして、今度谷尾に話そうと思った。ほんで今は映画監督? カメレオン兄貴、とミクルは頭の中で繰り返しつつ、じゃあ、中学ん時は帰宅部とかやったんちゃうかな、と身体をくねくねさせて乱舞しつつ、部屋に戻ってホットカーペットに転がっていたゲーム機を再度手に取った。ゲーム機の後ろの部分が熱くなっていて、少し焦って電源をONにしてみたが通常通り起動し、安心する。ベッド側にある小窓から雪がちらつく外界が見え、隣のマンションの同じく三階に住む誰か、おじさんかおばさんが洗濯物を急いで回収している。温かい部屋でゆっくりメガジュウ、ミクルはカーテンを閉め切り、ベッドに仰向けになってメガジュウの世界への旅支度をした。兄やんのトウキョウ時代、と頭に浮かんだ。
その晩、兄やんのつくったカレーがテーブルに三つ並んだ。母さんはすき焼きの材料を買ってきてつくるつもりだったのに、「美味しいわあ。一人でもつくっとったん?」と妙に兄やんを褒めていて、ミクルはイラっとして、イラっとしている理由が分からないことにムズムズして、「ごちそうさん」とは、強い口調でハッキリ言って、米を多めに残し、部屋に戻った。ミクルの背中に母さんは「どないしたん」と言った。戻る場所があって良かったと思った。
マリンをついに倒したミクルは、藤堂香澄と付き合える未来の幸福を噛み締めようとしたが、現在、ではそれに至らなかった。藤堂香澄の事は本当に好きだと思う。ゲーム画面に出てきたピクセル状の曖昧なニンゲンの不気味さがミクルには幽玄的に感じられ、なんとなく、その奥ゆかしさが藤堂香澄への好奇心とつながっているような気がする。藤堂香澄はクラスでキャッキャッ明るい方ではなく、かといって、いわゆるミクルが周りに言われているような隠キャラ、でもなく、透き通った白い肌に、皺ひとつない制服、細い目に宿る光の粒、整頓された破れた教科書、細く力のある字、歌唱の際に揺れる肩、笑顔の中の孤独と野心、によって、彼女が彼女であることから離脱しているような不確かさを魅惑とミクルは思った。そして、ミクルが好きになっている彼女はもしかしたら彼女ではないのかもしれない。それが顕になって、互いを傷付ける恋に発展させてはならないとミクルは藤堂香澄と今までまともな話すらできないでいる。プリントを配ってもらった時に、あ、ありがとう、と言ったぐらい。にしても、筋肉が好きな女子だとは改めて思わないが、嫌いではないだろう、雌の本能として、潜在意識下では、強い雄に魅かれるという動物としての彼女とは言葉を交わさなくとも筋肉さえ見せていれば……とミクルは分析した。毛布と布団を一緒くたに抱きしめ「かすみ」と呟いてみると、「かすみ、かすみ、かすみ、かすみ」と立て続けに放言し、膨張した性器を右手で握っていたが、意識は早く遠のいた。
夜中に目が覚めると「すき焼きが食べたかったのか?」「なんやろねえ」と寝室の方から新父さんと母さんの声が聞こえてきて、新父さん帰ってたのか……うわ、自分の話してる、と、一旦起き上がり急いでMDプレーヤーを手に取った。目覚ましが七時半にセットされている事を再確認して毛布を頭から被った。苦しくなって、顔を出した。カーテンの隙間から闇に溶けていく雪が垣間見え、『光の方へ』を再生しながら、絶望が足りない、とミクルは呟いた。頭の左側にあったリモコンで電気を消し、藤堂香澄は僕のことを気持ち悪いと思っている。そんなことはない。と布団の中でもぞもぞした。『光の方へ』の合唱団の中に、藤堂香澄の姿がみえる。彼女の目は指揮をふる僕の方に、屈託ない―と、中途半端なところで音が切れ、また『光の方へ』のイントロが始まった。
公園に辿り着いたミクルはマウンテンバイクを入口の端に止めチェーンロックをした。公園の広場は昨夜の雪で白い膜を張っていて、静かだった。腕時計は七時四十分を示しており、広場には誰もいない。中止なんじゃないか。寒い、とりあえず、走ろう、と手に持ってきたカーボンバットを自転車に立てかけ、ミクルはグラウンドの方へ駆け始めた。未踏の地、とミクルは頭の中で繰り返しながら走った。ミクルの足跡に土のグラウンドが姿を現していく。キャンキャン、と走るミクルを視界に入れ、追う、という本能をむき出しにした犬が中年男性の手に掴まれたリードを引っ張っていた。一昨日の……、「おはようございます!」身体を動かしている時だけ、ミクルは言葉を詰まらさずに発することができた。軽く会釈をした中年男性はリードを離さないように、重心を犬と逆方向にかけるように踏ん張っている。犬は薄汚れた白毛に、所々黒い斑点が統一性を欠いてできていて、雑種のように思われる。ミクルは、犬が、というより、犬を引っ張る中年男性の事を思いやり、走るのをやめ、歩きながら、肩のストレッチをすることに変更した。のに、犬はきた。犬は僕の右足の匂いを嗅いで、続いて左足の方を嗅いだ。
「ありゃああ」
中年男性はリードだけを手に持っていて、ミクルの方に向かってきた。
「すまん。すまん」
「あ、あ、いえ」
「人好きでねえ」
「あ、はい、そ、うなんですね」
「お兄さん、陸上の?」
お兄さんと、この歳で言われるのはあまり経験がない。陸上でもない。
「い、え、野球で」
「ああ、そう」
ミクルがしゃがむと犬は股の間に飛び込んで、ミクルの顔を舐めた。
「あ、リード。大丈夫、ですか。つけましょうか」
と言ったものの犬は飼ったことがない上に、付け方も分からない。寒い。
「もう切れちまってるから」
「あ、あ、」
臭い。犬に鼻の下を舐められて、臭い。その後、グラウンドの奥、つまり入口と反対側間まで、犬はあっという間に駆けて行った。
「あ、あれ、やばいっですね、僕、行きま―」
しかし、その中年男性は犬の方に見向きもせずに立っていた。臭い。このおじさんが。
「いいよ。どうせ盗んだ犬だから」
「……?」
「二丁目六番地一〇二で盗んだ犬だから」
でもだめです、ちゃんと育てないと、と思ったが、何も言葉が出てこなかった。おじさんは思い返してみれば、一昨日と同じ黒いパーカーに、ジーンズ。寒いだろうに、と思った。チャリンチャリンと、自転車の集団が公園に沿った坂を下りているのが見えた。おじさんは何も言わず、木の根で小便をしている犬の方に歩いて行った。テニス部の女子は悪臭を可愛さで打ち消すのかと、やや感心した。そもそも女子は匂いに強い、のか。雌は。
ミクル、柏木、矢代、トッチャン、高井戸は野球部で、大戸、佐々木はサッカー部、まえちゃんは帰宅部、ミクルとは初対面の幸之助君は隣の中学校の野球部で、矢代と小学校が同じだったらしい、の計、九人が集まった。「やるか」と柏木が言った。相手チームが揃いに揃ってまだ来ていないことにおかしく思って、視界に入った小さくなっていく、犬とおじさんとその余白を眺めていたが、「グッパするで。何ボーっとしとんねん、ミクル」と言われ、九人を二つのチームに分けるのかと勘づいた。
「グッパで分かれましょっ」
「しょっ」
「しょっ」
「うーわ、惜しい」
とは、佐々木が言って、
「しょっ」
「しょっ」
「しょっ」
で、ようやく四対五に分かれた。四人の方にミクルは所属し、高井戸、トッチャン、まえちゃんが仲間だった。野球部がきっかり三人ずつに分かれたが、大戸も佐々木もサッカー部とはいえ運動センスには優れていてまずまずの動きをすると思われる。それに比べて、こちらのまえちゃんは一年の時に卓球部だったぐらいで、今はギターに明け暮れていて運動不足だという。「最近、ダイアトニックだけで作曲したんやけど、やっぱ遊びがない」と、まえちゃんに話しかけられた高井戸は「ほーん」とだけ言っていて、ほんまに分かってんのか? もしそう発声してしまえば、高井戸の標的になるだろうと、ミクルは持ってきたカーボンバットを手に取って黙って素振りを始めた。谷尾がいたらちょうどなのにな。人数的にというか、精神的に。
高井戸に前回、無視され始めたのは、矢谷というショートの補欠だった。高井戸がレフトを守っている時に、レフト方向の強めのゴロを矢谷が無理矢理飛びついて、追い付かず、カバーに入った高井戸がまさかのトンネルをして、散々顧問の吉井先生に怒鳴られた時ぐらいからだった。高井戸は、飛びついた矢谷の身体でボールを見失ったと言い訳をした。試合終わりのバスの中で、「矢谷、無駄なダイビングやったと思うやつ」とまあまあの達筆で書かれた文字の横に「正」がいくつか並んでいて、あと一本足せば「正」になる「正」が一番端に書かれた紙が後ろの、たしかトッチャンか三崎あたりから、ミクルに手渡された。理科のプリントを乱雑に千切ったようなやつで裏面にはビーカーがガスバーナーで加熱されている図がプリントされていた。ミクルは書くものを持っていなかったので、ということにして、そのまま前の、柏木の肩を二回叩いた。柏木は何の躊躇もなく受け取って、結局、その後、紙はどこへ行ったかもしらない、ということにする為に、窓にもたれかかって目を閉じた。隣には、後輩の神子田が座っていたが、後輩にはその紙は回らない。それぐらい学年の差というのは、価値共有の断絶を起こすほど深いものだった。チームのスローガンは一戦一勝で、高井戸の案だった。「まずは目の前の試合に集中した方が良い。俺らは高望みしすぎている。地に足つけようや」という理屈が通った。高井戸は女子みたいに、口が動いた。女、男ということで人間性の差別化を図ってはいけないという独自の思想を抱いていたミクルにとっては、女子みたいに、というのは、引っかかりがあったが、ひとまず社会通念としての女、女性性として、高井戸はそれに近い特性をもっていた。具体的には、漫画、テレビドラマ、音楽、映画、学校の先生、仕事、トレンド、靴のブランド、流行りの芸人、について、幅広い見識があるようで(虚勢なのだろうが)、個々の趣味趣向に合わせて必要な情報を提供し、無難な会話を構築できた。高井戸の言うこと、やることが、野球部内世論の形成に直で影響を及ぼしているのは間違いなかった。付和雷同、とミクルの頭の中では繰り返された。それは、バッターボックスに立った矢谷に応援の声を出さなくなったとき、矢谷の「おはよう」を俯きで返したとき、遂には顧問の吉井先生までもがノックで矢谷の方に打球を飛ばさなくなったとき、矢谷が部活にも学校にも来なくなったとき、その言葉は脳内を闊歩した。高井戸はメガジュウにも精通していて、ミクルに裏技をいくつか教えた。ミクルのメガ・ギラスは裏技の複製によって二体手持ちにおり、そのおかげで、メガ番人のマリンを倒すところまでいくことができたのだった。谷尾にはそのことを話していない、話せない気がした。谷尾に、ミクル君って卑怯だねと言われる気がした。僕のような弱者は、社会的に、僅かに与えられるものの中から生きる術を見出し、特定の技術を身に付け、特異なポジショニングによって資本主義をのぼっていくしかないと、ミクルは曖昧に自己正当化した。矢谷は引きこもった先で、矢谷にしか身につかない技術と知識を獲得して、いずれ社会に羽ばたく、とミクルは、思った。そう思い切った。絶対的に。そう、思った! のだった。
柏木がこちらのチームのまとまりにやってきて「今日は、ミクルに四番打たしたってな」と勝手に打順を提案した。四番つったって、四人なんやから九番バッターみたいなもんやん。高井戸はどんな顔しとんやろうとミクルは視線を移したが、まえちゃんと二人ベンチに座ってショパンはどうとかバッハは、とか、音楽の教科書で太字の音楽家の名前を適当に列挙してまえちゃんのご機嫌取りをしている。柏木と高井戸は今、野球部ではレフトのポジション争いをしている。元々、ファーストのスタメンだった柏木に吉井先生が外野転向を命じたのがきっかけだった。ちょくちょく代打で出場していた一年の神子田の打撃がかなり好調で、ファーストのスタメンとして起用したかったのだろう。柏木が高井戸の邪魔者になるのは、ミクルにとって(もはや柏木にとってもだろう)明白なことだった。
「ちょっと振らしてや」
と言う柏木にミクルはカーボンバットを渡すと、「軽っ」と呟きブォンブォン振り始めた。柏木のスイングは風を切ってブォン、で音は心地良いが、個人的に構えが好かない。というか、右打ちの選手で構えが良いと思ったことがない。
「俺もメガジュウやり始めた」
「あ、え? どの?」
「お前と谷尾がやってるやつ」
「え、あ、ほんまに? 持ってたん? あんな古いやつ」
「中古で五千円もせんかった。ゲーム機付きで」
なんて健気なやつなのだろうと、ミクルは呆れがてら感心する。レフトにライバルが増えたらといって、そのライバルを野球以外の領域で蹴落とそうとする高井戸の卑劣さに、抗うほどの価値もないだろうと思うし、嫌われたんなら、嫌われたで、それなりの不自由さを享受して、卒業して、中学ん時あーいうやつがおってなって、話のタネにして、淡々と己の道を進めばいいのに、まあたしかに、吉井先生まで敵に回したら、矢谷みたいに野球部におるのもきつくなるのは分かるけど、他人事やからそう言えるんかな、にしても、なんで僕なんやろう、とミクルは沈黙し、柏木のスイングを眺めていると、
「ミクル、ちょっと」
と、高井戸に呼ばれた。このタイミングで呼んでくる高井戸の言葉には何となく想像がついて、気持ちが萎縮する。
「あんなやつにバット貸すなよ」
「ああ、あ」
「なあ、まえちゃん」
「こっちのチームのやしな」
まえちゃん、洗脳はや。
「ほな、先攻後攻決めようぜえ」
トッチャンが天を指さしながら、ポーズを決めて言うと、ストレッチをしていたサッカー部の大戸、佐々木、キャッチボールをしていた、矢代、幸之助君も集まってきた。いつの間にか代表になっていた矢代とトッチャンがジャンケンをし、勝ったトッチャンは先行を選択した。
バットと靴で雪を削りとるようにしてベースやラインは描かれた。本来であれば、土の表層を抉り取って、現れた濃い地層を目印にするのだが、ミクルと犬と中年男性がつけた足跡以外真っ白で、そうした方が視覚的に分かりやすかった。ピッチャーに柏木、サードとショートの間に矢代、セカンドに佐々木、左中間に幸之助、右中間に大戸という配置で、ファーストベースに走り切るまでにボールを捕ってストップと言ったらアウトになる、キャッチャーには攻撃側の誰かが交代で入り球審も兼任する、フォアボールは無し、云々、肩慣らしにボールを投げながら柏木はその場で決めていくように言った。一番のトッチャンは左打で、普段チームでは普段八番、九番辺りを打っている。「ヨシタケ」と言って、メジャーリーガーの構えを真似た。その後は、一球ごとにマルネス、山内というプロ野球選手、漫画の『筋肉おまわり』のおまわり、吉井先生、と変化し、最後には知らない近所のおじさん、の打撃フォームを推定、真似し、三振になった。柏木はほくそ笑みながら「ちゃんとせいや」と言って、毎回ど真ん中辺りに六十キロぐらいの山なりの球をキャッチャーのミクルの方へ投げ込んできた。トッチャンが空振りする度に、目を瞑ってしまい、一瞬、球を見失うので、毎回身体を外側に逃がしながらキャッチした。三振をしたトッチャンはそのまま隅っこで倒れ込んで「ゆきがああああふるううう こいのおおおつづきいい」と有名演歌歌手・ホタテの『雪の接吻』を歌い始めていて、柏木は次の投球の姿勢に入っており、ミクルはそのまま継続してキャッチャーをするハメになった。二番のまえちゃんは投げられた山なりのボールにバットを当てることすらできず、ツーストライク、柏木は「もうちょっと普通に投げた方が打ちやすい?」と、敵であるはずのまえちゃんに気を遣っていて、ええやつやなとは思うが、僕と柏木の関係においては別だ、とミクルは頭の中で仕分けた。三球目の外角を見逃し、四球目に来た低めのボール球を掬い上げるようにして、レフト前に落とし、敵味方関係なく、皆から「ナイバッティン!」という称賛がまえちゃんに贈られた。ミクルも、「お、お」と言った。右打席に入った三番の高井戸は、普段の試合と同じように、屈伸した後、バットを肩に乗せ、左足を外に開いてオープンスタンスの構えをとった。さっきまで、ヘラヘラしていた柏木も、試合でピッチャーを任されたことはないが、まるでそうなったように、真面目にセットポジションの構えをとり、ランナーの前ちゃんに牽制の視線を送ることさえした。盗塁は禁止なのに。それから「キャッチャー誰?」と一旦セットポジションを崩した。キャッチャーは基本、手が空いている攻撃チームの、その時点で打順が一番遠いやつ、がやることになっていたはずで、今で言えばトッチャン(まえちゃんは塁に出ているので)、で、階段で仰向けになって掌にできた豆をいじっているトッチャンは「キャッチャー、ミスタードモリ!」と次の打席に向けてバットを振っていたミクルを中心とした全体に向かって高らかに叫んだ。はあ? また? さっきもやらへんかったのに、ずっと僕キャッチャーやん、とミクルは不満に思ったが、ここでごねたところで、トッチャンはいつもの調子で有耶無耶にかわしてくるだけで、というか、そもそも、僕のごねるという抵抗の姿勢を、部内の集合意識は処理する能力を持っておらず、ごねたら、僕のごねるをどう処理しようかと試合進行が停滞する、早く帰ってメガジュウがしたい、と諦め、平常を装った顔面のまま再びグローブをはめてキャッチャーの位置にしゃがんだ。一球目、百十キロぐらいのストレートが外角低めに飛び込んできた。「ス、ストライク」とミクルは言った。日曜出勤、とミクルは頭の中で繰り返し、球を柏木に投げ返した。柏木がまだファーストを守っていた頃、柏木と高井戸はゲームセンターでコインゲームをしたり、パンチの威力を測ったり、していると、それも高井戸の口から聞いていたのに、この日曜野球のことも、柏木と俺で始めたとか言っていたのに、ポジション争いになった今、そんな、いとも簡単に、関係に亀裂が入るとは、いや、だからこそ、仲が良かったからこそ、離れることに過剰なまで敏感になって、「ボウル」、近づく為に遠ざけていた互いの繊細な価値意識を取り戻したかのような排他的な冷気を二人は纏っていて、野球部の集合意識の中で有利なポジションを獲得している高井戸は、仲が良かった頃に形成された柏木への善良な思いまでも投げ捨てて、レギュラーをとりにいく己の非情さを、「ファウル!」、組織の中のポジション取りに徹するという男、男性性の中に埋没していく不甲斐なさを、淡々と投げられた球に淡々と対応する「ススストライク!」という情念の棄却によって、平静を保っているのか、でも、そこまでの体力を使うなら、神子田を排除した方が良いのではないか、と思ったが、一年には一年の、何度も言うが、実際に言ってはいないが、集合意識、があって、『ひどい先輩』というレッテルを張られれば、何らかの逆襲にあうのだろう、そうか、そうやんな、「ファウル!」で、一方、の柏木は、というところで、高井戸は真ん中高めのストレートを芯でとらえたが、左中間を守っていた幸之助君のグラブの中に、一直線に吸い込まれツーアウト。高井戸は舌打ちをして、キャッチャーの位置についた。今度、二人の関係に関して、谷尾の意見も聞いてみよう、裏技のことは言えへんけど、とミクルは思い、打席についた。トッチャンが「ほいほいほいほい うてー うてー ドモリー ほいほいほいほい うてー ドモリー」と変な応援歌を歌った。変な応援歌を歌うヤツにロクなやつはいない。だから笑えへんねん。とミクルは込み上げた怒りを忘れようと、素振りをする。トッチャンはさあ、十人中八人を笑わせたら、正義で、二人はこの世に存在する意味がないみたいな、エネルギーを出すやん、それがウザい、殺したい、ってことは僕がその二人のうち一人で、マイノリティー? 、マイノリティーゆうたって、マジョリティー側が、弱者を踏みつけたことで催した罪悪感から逃避する為に、せめて居場所を与えてやろうと決めつけた枠組みでしかなくって、それにはまっていくマイノリティーとかもウザいし、殺したいとまでは思わへんけど、僕のことやから、根底に、自分のことを責めるのが一番いけないというのがあるから、思わへんけど、トッチャンの、そういう、僕のキャラクタライズをはかって、僕の居場所を与えようという、プロデュース意欲みたいなところは、見当違いとはいえ、有難いとは思うけれど、何というか、僕もトッチャンも、複合体で、癒着? しているのと、苛立ち合う部分があって、それが、事なかれ、という事に集約する為には、僕が、いつも通り、ドモッて、陰キャ、であることが必要なのだろうし、どうせ、お笑い芸人の功罪は、芸人が片付けられるものじゃないし、笑えないと卑下する僕のような見方もあるから、ぎりぎり、社会は事なく、均衡を保っていて、時にそれは、笑いの対象にされたやつが、もしくはそれにすら及ばなかったやつが犯罪とか自殺とか、暴動で突発的に、事あるけれど、具現化された途端に、報道する、しないの恣意の篩に徹底的にかけられ、仮定された悪をみなで叩く、或いは、無関心に落とし込むことで、完璧にやばいやつだと他者化し、そんなやつはいなかったと記憶から抹消し、或いは、困惑そのものを笑いという一芸に昇華する、ことで、均衡は、やはり、保たれてしまっているとミクルは思い、三球見逃し三振をした。ツーストライクになったら粘るつもりだった。柏木に「振れよ!」と一喝され、「誰の打ち方やねん」と足されたので、藤原選手、と思い、でも、フォアボールなしやったら意味ないか、と反省し、「いやあ……」とだけ言った。それでも、矢谷、矢谷? 自殺、は、あかん、最悪、殺せ、とミクルは躍起になる。矢谷、絶対にそれはあかんで。谷尾、矢谷あいつ死なへんよな。「あいつ調子乗ってんな」とキャッチャーをしていた高井戸は、ミクルにだけ届くぐらいの声量で囁いた。あいつ、というのが柏木なことは明白で、冬の滑らかな陽射を受けぬかるんだ土が徐々に露になっていき、裸の街路樹に集まった雀は打球音と共に太陽が昇る方へ下っていった。『芸人は去れ。命を分かったものとして、笑い尊ぶな。去った先の星に住め。分からないものを分からないというエスケイプで、笑いという肉のリリースでいくらでも刻み合えばよい。俺がこっちで大いに笑ってやる。サムシング・ボーン』こんな、詩、どうだろうか、まえちゃん、曲になりそう? ………ごめん。矢谷。やっぱり、僕、ら、は―ミクルは、右中間の守備についた。
「めっちゃいびきかいとったで」
ソファにもたれかかった兄やんの金髪の後頭部がそう言ったので、寝起きがてら「う、そお」とだけ返して、実際、まだいびきをかく年齢でもないのにな、とミクルは半ばショックを受けた。時計は七時五十分で、結構寝たな、とミクルは頭皮を掻き毟った。結局、野球は、積もった雪のせいでゴロを打った時に打球が変速的な転がり方をするのと、視覚的に白いボールは雪に紛れて見えないのと、寒いのと、でグダグダになって、中止になり、近くのファミレスでポテトだけをつまんで暖を取った。柏木がトイレに行った隙に、高井戸が「あいつ無視な」と想定内の文言を発して(事情を知らない他校の幸之助君やサッカー部の大戸、佐々木は驚いていたが、ゲームだと錯覚させられ)、皆に口を聞いてもらえなくなった柏木は悟ったように、五百円をだけを置いてその場を立ち去った。その異様な空気に耐えられなくなったミクルたちも結局解散することになった。ポテトは二百二十円で、そのお釣りは高井戸からミクルに押し付けられた。どうせなら、山分けで良かったやん……、と長針が動くまでを見てやろうと、ソファで横になったまま壁時計を凝視していたが、テレビから「僕は学校の先生に期待したいですね」「やっぱり、親ですよ。親、教師に子供の問題を投げっぱなしじゃいかん」「いやあ、そもそもね、教育委員会の組織構造が、ダメでね」と何やら、タイムリー? (ミクルにとってのタイムリーは、タイムリーヒットのタイムリーで、他に互換性を見出す意志を持ったことはなかったが、いつの間にか、思念上使用していることがあった。言葉はどこからくるのか、とミクルは静観したこともあるが、どうやら、空洞、から、と、空洞、という言葉に頭の中で遭遇した)にいじめ問題を討論している番組がやっているようで、思わずテレビ画面に見入ってしまった。ひな壇に座ったいじめ体験をした芸人やタレントと、いじめ問題に詳しい専門家や学校の校長先生、精神科医などとの、司会者を媒介した対面トークであるようで、何故かスタジオのセットは華やかに彩られていることに目が付いた。有名なおバカタレントが、自身のいじめ体験から当時の親の愛を、半べそをかきながら語り出した時、兄やんの後頭部が「そこでBGかよ!」と放った後すぐ、「だからテレビはあかんねん」と付け加え、ふわあ、と声を出しながら背伸びをした兄やんの両腕に挟まれた。後頭部が半分になって、兄やんの褐色の顔面が顕になると同時に、「これ父さんが切ってる」と兄やんの唇が言った。新父さんがその番組をスイッチャーとして画面を、切っている、という意味だと気が付くまで、ミクルは、金髪あんまり似合ってへんなあ、顔面とのコントラストがないし、だけでなく、いじめ、について自分なりの考察をしており、この討論という形式そのものがいじめの構図ではないかという結論が先にきていて、なぜかといえば、というところから、おバカタレントが語り出すと、おバカな部分を集団で指摘して、集団で笑っているし、それがおバカタレントの自主演出だったとしても、いじめの構図が形骸化しているだけで、そもそも、おバカタレントという非人間を作り出す、我々、国民の、集合、うーん、他の言葉はないかな、ってか、国民って僕、つまり、視聴者、視聴者に話を振ることは司会者にはできないし―ぐらいまで、寝ぼけ頭を酷使して、自分の理論立てに陶酔していた。で、新父さんが、切っている、のか。兄やんは、立て続けに「そこ切ったらあかんやろ」「今のリアクションのカットいるって」「作為的すぎ」とか、ぶつぶつ言っているのが、少し耳障りだったので、さすが、映画監督、と思ってみたが、しっくりこず、僕が、今、映画監督なら、いじめ、という本質について、創作の根源を探すけど、兄やんと僕は違うし、違うと言えば、流れている血も、な、とミクルは、身体を起こした。キッチンの方から、甘い重厚な香りが漂ってきて、すき焼きだ、とミクルは高揚した。キッチンの方では黙々と作業をしている、母さんがいた。便意を催して、藤原選手の盗塁を模倣しながら、トイレに行く途中、あれ、なんで兄やん「いびきかいとったで」って僕が起きたん分かったんやろ、と、どうでも良い発見が訪れ、目ん玉うしろウンコサイヤ人、とミクルは頭の中で一回だけ思った。思ってしまった、に近い。初めて自分を責めそうになった。語呂が悪い、という、ただその一点において。
僕は、いじめの加害者? と、ミクルは意識の遠のきに任せる。
旧父さんがいたことを忘れないために、思念上、新父さんというが、新父さんのことを、父さん、とも、何とも、ミクルは呼称したことがない。話さないわけでもなく、話す場合は、話題、から入った。新父さんとはよく、テレビを観ながら高校野球の話をする。新父さんは、高校野球が、というより、仕事で野球中継のスイッチングもしているので、勉強がてら、とは言っていたが、実際に試合が始まると、うぉー、すげえ、といって逐一、ワンプレーに昂奮していた。そして、「ミクルも甲子園やな」とミクルの肩を叩く。「体格が違うねん」という一辺倒な返答しかしなかったが、一度だけ、自分ももしかしたら、と希望に満ちた一時があった。ミクルが小学四年生の夏、強豪・K高校に藤原忠人選手という二番バッターが彗星の如く現れた。彼にとっては、そこまでコツコツと積み上げて、ただ人生の延長線上のバッターボックスに立っていただけなのだろうが、ミクルにとっては、現れた、と認知するほどの衝撃と新鮮な感覚があって、というのも、藤原選手は身長百五十五センチで、高校野球児の中でも群を抜いて小さかった。バッターボックスに立った彼は、拳一個分バットを短く持ち、身体をくの字に曲げ、百五十センチの身長をさらに縮め、ストライクゾーンを狭くする。そして、投げられた球、一球一球丁寧に見極め、ボールゾーンに近い球には手を出さない。ツーストライクに追い込まれると、ストライクゾーンに近い球はカットしていくという打法に切り替え、球数を投げて疲弊したピッチャーはボール球を重ね、遂には四球を投じてしまう。まだ終わらない。出塁した藤原選手は盗塁技術にも長けており、幾度もの牽制を受けたにも関わらず、二盗を成功させてしまうという、革命。外野に、いや、内野にすら打ち返さず、ツーベースヒットと同じ仕事を果たす彼は、当時、少年野球チームの中で、下から二番目に身長が低く、球を外野に飛ばすこともままならないことを負い目に感じていたミクルにとって、(また、ミクルより背の低い女子の智子はまさかのスタメンで、ホームランも一本打ったことがあるほど、足腰がしっかりしていて、身長を言い訳にもできず、ただただ、もう自分には才能がない、中学に入ったら野球はやめようと、試合に出るのも監督のお情けで、きた球に全力スイングをして、飛ばずとも、当たらずとも、その健気さを褒めてもらうという一環の無難さに逃げ込んでいた、ミクルにとって、)その概念を覆した彼は、革命家でありヒーローであった。ミクルは新父さんの肩を叩き返し、テレビ画面に意識を攫われ、「中学ではセカンドを守りたい。こ、高校になったら、こ、甲子園にも行きたい」と豪語した。新父さんは、翌日のミクルの誕生日に、新しいカーボンのバットをプレゼントした。
そうさくの こんげん ほんとうに それで すててしまう のか
月曜日の朝、僕が起きると母さんが兄やんのボクサーパンツを手に取って顔をうずめていた。何しとん、と僕が言うと、柔軟剤変えたから、と母さんは堂々と言った。襖を少し開いて、和室を覗くと、目ん玉うしろウンコサイヤ人は仰向きになって、電気もつけっぱなしで眠っていて、リビングではそいつの父親がソファで、布団にくるまって静かな寝息を立てている。新奇の到来者、とミクルは頭の中で繰り返し、メガ・ギラスの鳴きまねをしながら部屋を駆け回ってみた。ミクルは襖を荒々しく開き、ソファの隙間で飛び跳ね、兄やんのボクサーパンツを母さんから奪い取って頭に被った。和室とリビングの段差に足の小指をぶつけ、せっかくだから、この痛みを心底味わってみようと、その場にうずくまった。母さんは「あんた、背伸びたな」と一言だけ放った。朝は明るかった。ミクルの朝の舞に無意識ながらも感銘を受けて起きた兄やんと新父さんは、交代でトイレにオシッコしつつ、食卓についた。ミクルは、そういえば、昔、兄やんと同じ便器に向けて一緒にオシッコしたよな、と足の痛みを糧に、記憶を辿ってみたが、よくよくその映像を「みて」みると、隣でいっしょにオシッコしている少年の顔は、どうあがいても谷尾の顔になった。コーヒー、食パン、ベーコン、ほうれんそう、半熟卵、ヨーグルト、コーンスープ、昨日の残りのすき焼き、を家族四人で囲んだ。以前から、ミクルは、家族四人揃った時に、もう一人の気配を感じていた。単純に旧父さんの霊、この家に住み着つている霊、霊なんていない、と頭の中をぐるぐる、その気配は、寝てみたときの夢心地と繋がっている、とも思え、空洞、と仮定した。半熟卵を体内に入れたときから、頭が冴え、パワーが湧いてきた。卵は栄養があるから、喰え、と顧問の吉井先生が言っていたので、そのような気がしているだけかもしれない。兄やんが半熟卵を呑み込むのを見計らって、ミクルは、これで場は整ったと、
「ほんで、兄やんは、いつまで、い、家おんの?」
と、ヨーグルトをかきこんだ。
一瞬、空洞が前面に広がって、家族が遠くに、というような静けさが訪れた。
「ミクル、今、兄やんは準備中なんや」
新父さんは、まだ、ほうれんそうしか呑み込んでおらず新聞を読んでいたので、声が小さい。でも、ちょっと驚いた様子。
「そうやで、ミクルも大人になったら、分かるけど、色々あるんやから」
母さんは、パンを半分呑み込んでいたからまずまず声はでかい。
「ぼ、ぼく、兄やんに聞いてる。なあ、映画監督は、どうやって、なる。僕、兄やん、見てたら、ここずっと住もうと、してるように、みえる。ま、あー、ま、毎日、パソコンで何しとん。もう、一年、も。カメラは、カ、メ、ラ、は―」
新父さんの会社から借りたらええやん、と言いたかったが、新父さんの呼び名が無いことを今になって不便に感じた。
「脚本書いてる」
と、兄やんはコーヒーを啜った。
「どん、な脚本? それ、おもしろいん?」
「中学生には、どうやろ、分からん」
「芸術や」
と、新父さんが食パンにどでっとベーコンと半熟卵をのせて齧った。
「どんな脚本?」
と、繰り返し、ミクルは真ん中に置いてあったすき焼きに手を伸ばした。
「っさいなあ、ミクルに話しても、しゃーない」
兄やんの半熟卵の効力がきた。
「そんな、背番号一回もとったことない子に言われれても、なあ」
続けて、ミクルと十四歳差の兄やんは、ミクルに十四歳差みたいな突き放し方をした。
「か、関係、」
「関係あるやん。ゲームばっかして、そんな暇あるんやったら、バット振れば。何? 俺が、映画監督になることから逃げてるって言いたいん? 関係あるやん。それやったら、ミクルだって、背番号もらうことから逃げとんちゃうの?」
「ち……ちゃう、なんで、脚本……なんで、金髪にしたん」
「それこそ関係ないやろ」
たしかに、それは。
「はいはい、終わり終わり。すき焼きみんな食べてよー。コーヒーお替りいる人、言ってよ」
と、母さんはコーンスープの器を両手で抱えて飲み干して、「うわっ粉全部溶けきってへんわ、皆、混ぜてなー」と言った。新父さんはテレビのリモコンを手に取って、電源ボタンを押すと、「クリスマスのご予定は?」という宮下誠司の声がリビングに足されて、藤堂香澄は、クリスマスどうするんやろ……くそう、テレビは、人と人が向き合わない為につくられた、散漫製造機や、とミクルは奮起して、だから、テレビはあかんねん、という兄やんの言語上の意味とは同じ、だけれど中身は違う、ことを思った。新父さんと母さんはどうせ、今日の夜にでも寝室で僕と、兄やんの、今さっきの、出来事について、こそこそ話し合うんやろうなと、なんだか気色悪くなって、コーンスープを一気飲みしようとしたが、熱くて、舌が痛くて、やめた。いっそのこと、旧父さんの名前を叫んでみようかなとミクルは硬直した。狂気化。でも、とミクルは思う。書いてる脚本の内容によるよな、と。しかし、とミクルは考える。映画監督にはどうやってなるものなのか、と。なるって、何? 映画監督って、なるもんやなくて、撮る人やないの? 書く人でもあるのか。書く人は脚本家ちゃうの。自分で書いて撮る、んか。その辺の細かい役割はミクルには分からなかったが、なる、というのは、なにか、自分ではどうしようもなく、他者からの承認、背番号をくれる顧問の吉井さん、みたいな、存在が不可欠で、難しいことだと思う、一方、本人がやりたいことやり続けて、社会がその状態を勝手にカテゴライズすることが、なる、ということのような気もして、無邪気に撮っていること(脚本を書いてること?)、きた球を打つこと、が結局重要だと、飲み切った。最後の方は粉が残っていて味が濃かった。ほんで、どんな脚本なんやろう。「白熱! 高校野球!」とテレビは女の声で言った。新父さんが「おっあの子やん」と言った。僕は、そちら、を観た。藤原選手のプレーがダイジェストで流れていた。藤原選手が、インタビューの中で「将来の夢は教師になって、監督さんの元に生徒を送り出すことです」と話していた。それと、彼の得意としていた送りバント、という行為は通じている、ということを半ば強引に発見したミクルは高揚した。野球で成り上がることができなくても、野球部の活動を続けること、藤堂香澄に見せる為の腹筋をつくっていること、また、メガジュウに夢中になっていることでさえ、将来、社会的意義のある何らかの仕事に連結していくのだと、躍起になっていた。兄やん、も、たとえ、脚本を書いてなくても、脚本が書いてないことが、何かにつながるんやから、と、カシャッと食パンを齧って、口の中で舞った粉にむせた。
鼓膜をつんざくようなチャイムが鳴って、「先ほど、音量の設定を間違えたチャイムが鳴ったことをお詫びします」と校内アナウンスが流れた。一時間目の休み時間、「まじうっさかったもんな。耳とれそうやったわ。耳とれて、ドモリにあげてしまうとこやったわ」と、わざわざミクルの席までやってきたトッチャンが言った。トッチャンと柏木は後ろの方の席で、普段、サッカー部の大戸や佐々木と、駄弁っていたり、グラウウンド傍の冷水機を飲みに行ったり、「お前もこいや」とミクルも度々連れていかれて、早口言葉を言わされ揶揄われたりしていたのに、高井戸に何かを吹き込まれたのだろう、トッチャンは従順なやつやな、とミクルは頭というより、心でため息をついた。空いていた席に座って、特段話すこともないやろうに、僕の方にトッチャンは向き合った。「いやあ、」と言ったのはトッチャンで、トッチャンが視線で後ろを見ろ、と指示したのでミクルが後ろを見ると、机に伏せている柏木の姿があった。「ネクストターゲット」とトッチャンは呟いた。やっぱり。周りのサッカー部もどこかへいなくなっていて、教室の空洞、の中心に柏木は伏せていた。「あ」トッチャンが見た方向の後ろの扉から、高井戸と矢代が首を長くしていた。柏木がハブられているのを確認しにくるかのように。高井戸がこちらに向かって、手を振ってきたので、ミクルは、思わず、右腕を浮かしたところ、トッチャンが「俺らちゃうって」と言った。? と思い、この距離で振る大きさではないと気が付き、後ろを振り返ると、藤堂香澄が高井戸の方に恥ずかし気に小さく手を振り返していた。トッチャンが「ええなあ、フォーリンラブ」と言った。
「え、え……あ、え」
「落ち着け。どうした」
「え、あ? 付き合って、る?」
「知らんの、情報おそっ。極めろっ陰キャ君、やな。そんな番組ありそう」
「そ、うなん。いつ、から」
「なにードモリ君。もーしかーしてー?」
「え、や」
「もーしかしてー?」
おい、触るなよお。きもおい。と言われて、トッチャンの腕を掴もうとしてはじかれた自分の右手に気が付く。後ろ扉の方には高井戸の姿は既になく、次の体育の準備で階段を降りていく隣のクラスの雑多な背中達が朧げに見えるだけだった。
二時間目、三時間目、四時間目、記憶がない、とミクルは振り返る。蘇るのは強烈なチャイムの音だけで、意識の遠のきが、ずっと近くにいるようだった。藤堂香澄と僕、藤堂香澄と僕、藤堂香澄と僕? オナニーオナニー、さて、と、三階の教室の窓から下を覗くと、グラウンドでトッチャンや高井戸、矢代、大戸、佐々木、が、「うほっ」とか「しゃあい」とか言いながらボールを追い回している。まえちゃんはキーパーをしている。まえちゃん、いっつもキーパーさせられて、可哀想やなあ、でも、機嫌よう歌ってるからええか、とも思う。窓から入ってくる冬の風は冷たい。冷たいって痛い。さむっ。お腹痛い、お腹痛いってことにして、トッチャンのサッカーいこ、は、断ったけど、ほんまにちょっと痛い気がしてきた。閉めよっ。空洞、とミクルは昼休みの教室を見回した。あれ、今、僕、藤堂香澄と付き合ってた? 藤堂香澄はどこいったんやろう、いや、そんな子、元々おらんかったで、僕の妄想やで、なあ、柏木。狂気化。
「柏木君。これ、昨日の」
「ちょっと今、集中してるから」
あかんやん、学校にゲーム機持ってきたら。吉井先生にバレたら、試合出られんようなるで。完全に。とミクルは思いながら、昨日の、お釣り二百八十円を、柏木の机の上に置いた。
「メガジュウくそはまった」
「……か、あ、そう」
「お前さあ、海見て泣いたことある?」
「ん?」
「やから、海、見て泣いたことある?」
「え、ない、あ、……分からん。昔はあるかも、最近は、あ、覚えて無い」
「俺、お前がな、海見て泣いてる夢みんねん。結構、頻繁に。でも、俺はお前の背中と浜辺しか見て無くて、あれが、お前で、しかも泣いてるって、なんで分かるか分からへんねんけど、絶対そうやねん」
「いやあ、まあ。あ、うん。ちっちゃい頃に、父親が海で死んだ、から。それちゃう? かな。単純な話、やけど」
「あー悪い」
「い、や、いいよ。全然。覚えてへん」
「メガ・ギラス、めっちゃ育てるのむずない? 全然レベルあがらん。マグネット・ギャオスばっか使ってまう」
「た、た谷尾君も、マグネット・ギャオスばっかり育ててる、で」
「そうなん、やっぱなあ」
「そう」
「お前もサッカーしてこいよ」
「サッカー、寒い、や……ん」
「サッカーあったかいやろ。やっとたら」
「もう、いやや」
「あ? うーわ、コイツつよっ」
「……高井、戸君」
「うわっ負けた最悪。何?」
教室にいた数人の女子が窓の外を見て「かわいい!」「ああ、どっからきたん?」とか言っている。犬。あの雑種犬が一匹、サッカーボールを追い回していた。遂にはボールを奪って、抱え込んで、舐めまわして、噛み千切ろうとさえして、胴体をウネウネさせている。奪え、奪え、殺せ、おじさんは、とミクルは、おじさんの顔を思い浮かべたが、窓の外を眺める柏木の背中に全て集約され、思い出すことも忘れた。
早退した。
「病院行かなー。谷尾君もインフルなんやろ?」
部屋の外から母さんはしつこく言った。
「ね……熱ない!」
「なくっても、今のうちにやん」
扉には鍵がついていないので、枕を重ねた上にカーボンバットを縦向きに乗せ、扉のグリップと床の間に突っ張り棒のように、挟み込み、入室できないようにした。新父さんや、兄やんの力では開けられると思うが、母さんには無理。なのだろう。
「なんで、これ入れんの」
と、何度も扉を叩く。ミクルはMDプレーヤーを取り出し、イヤホンを耳に素早くねじ込み、『光の方へ』を再生。繰り返し聴いているうちに、安心をおぼえるようになった。ゲーム機を手に取って、電源を入れると、さあ ぼうけんの せかいへ! と、メカ・テンシにメガジュウの世界に案内される。前回のセーブ位置、最後のボス、メカニカル・オウの目の前に、ピクセル状になった「みくる」は立っている。メカ番人、四人を倒したミクルにとっての手持ちはあと、メカ・ギラスの一体。メカニカル・オウの繰り出すメカ・メガ・メイトリウスのゴールデンサックという技に、「みくる」のメカ・ギラスは四度倒れ、これで五戦目となる。その技は百パーセントの命中で、メカ・ギラス一体では到底太刀打ちできるものでなく、敗北は決まっていた。負けてしまえば、再びメカ番人を四人倒さなければ、ここまではこれない。ミクルは、負け試合と分かっていながら、負け続け、リセットし、負けていない、今、を取り戻し続けていた。Aボタンを押せば、メカニカル・オウとの試合は再び始まる。ミクルがゲーム機のスティックをグリグリと回すと「みくる」はメカニカル・オウから離れて、彼を倒さなければ出られないこの閉鎖空間を縦横無尽に動いた。スティックを右に倒し続けると、「みくる」は壁、にぶつかって、それ以上進む事など不可能であるのに、足を動かし続けた。「みくる」は「かばん」から「にっき」を取り出し、「かく」を選択した。
ぼくは にんげんです しってください おもいがばらばらの にんげんです しってください すくいようのない にんげんです さみしい にんげんです ぼくをえらんでください ぼくに ことばをください ぼくに「これいじょうは かみが たりないぞ!」
高井戸に複製してもらったメカ・バンギラスにカーソルを合わせ「はき」を選択した。「ほんとうはきしますか?」「はい」手持ちメガジュウがいなくなった「みくる」は、強制的にメカキャッスルの外に投げ出された。社会、に足らないのは、沈黙への配慮、だ、とミクルは『光の方へ』の旋律に扇情されるように、思い、セーブをして電源を切った。谷尾はもうクリアしたやろうなあ―思っているだけではいけない、のだ、と思い、思う。思う。思う。思う。好きと言っていれば―ごめん、て―あああああああああああっイヤホンを外すと、母さんが静かな声で「大丈夫?」と言っているのが聞こえた。あああああああああああ、と僕は叫んだのだろうか?
冷蔵庫を開けると、タッパーに入ったカレーとすき焼きが一つずつ並んでいた。母さんの「病院行きよ」には「あとで」、「はよ行かな閉まるで」には「うん」と返し、病院代の折りたたまれた五千円を無理矢理握らされながら、隙間から、小さい紙パックの黒糖を取り出して、飲んだ。頭が冴える、には糖分がいる。和室の襖を開くと、兄やんは「びっくりしたああ」と、耳に装着していたヘッドフォンを取った。
「きゃっ……く……あう」
「学校は?」
「ききゃ、脚本、みして」
「ええけど、学校は、練習は?」
「みして!」
「どないしたん」
「、や」
「……ほな、短篇でええか。短いやつ」
「う、ん」
「ほなこっち」
兄やんは座布団を隅から一つ持ってきて、ミクルに用意してくれた。パソコン画面には、文章が整頓されていて、意味を追う前に、読みやすいと感じた。
1 河川敷・橋の下
ラジオを聴いている多田博(62)。
ラジオから流れるムーンユニオンズの野球実況。
多田、震えた手でタバコに火をつける。
2 廃れた道
ラブホテルから出てくる若い男女。
街を監視するようなカラスが一羽。
段ボールを乗せたリアカーを引いている多田。
多田、汚れたジャケットとスウェット姿。
ラブホテルの前で口論になっている伊勢崎真理(30)と伊勢崎渡(30)。
真理「良いから車出してって言ってんの」
渡「何年耐えたと思ってんだ」
渡、真理の手を掴む。
真理、その手をはらう。
真理「痛い」
渡、真理の腕を再び掴む。
渡「なんなんだ。愛していないならそう言えっ」
真理、座り込んで伏せる。
真理「痛い。痛い」
3 車内
真理と渡の様子を見ている伊勢崎加奈(7)。
真理と渡の横を通り過ぎていく多田の姿。
4 廃れた道
ただ無関心にリアカーを引いていく多田。
「なんや、ほんまに何も書いてへんとでも思っとったん?」
と話しかけてきた兄やんに、ミクルは「『ムーンユニオンズ』って何?」と質問で返すと「架空の野球チーム」と返ってきた。「どこまで読んだん?」という兄やんの言葉には返答を忘れて、再び文字が想起させる映像の中に飛び込んだ。
5 倉庫
リアカーから段ボールを積み下ろす遠野忠(19)。
遠野の作業を見ている多田。
遠野「俺、宮下四番はやめた方が良いと思うんすよ。転がすのうまいじゃないですか。あたったらホームラン外しても最悪、進塁打。あ、座っててください」
多田、それでも立ったまま見ている。
遠野「適材適所。おやっさんも俺も本当はこうしてるべきじゃないかもしんないすね」
遠野、段ボールを奥へ持っていく。
リアカーに段ボールが一つ取り残されている。
それを見つめる多田。
多田の元に戻ってくる遠野。
遠野、多田に百円玉を手渡す。
遠野、多田の肩を軽く叩く。
遠野「(満面の笑みで)どうっすか。二番宮下なんて」
6 廃れた道
段ボールが一つ残ったリアカーを引く多田。
多田、リアカーを路肩に留める。
多田、自動販売機の前に立つ。
多田、立ったまま前傾になり自動販売機の下を覗き込む。身体が柔らかい。
ふと隣に同じように覗き込む加奈の姿。
多田、ゆっくりと身体を起こし辺りを見るが加奈以外誰もいない。
加奈、多田を見つめている。
7 廃れた道
リアカーを引く多田。
ゆっくり振り返る多田。
距離を置いてついてきている加奈。
多田、少し歩くペースを速めて角を曲がる。
多田、止まる。
加奈、角から顔を出す。
多田、加奈と向き合う。
多田、加奈の上方を睨んで奇妙に唸る。
多田の口から涎が落ちる。
加奈、多田を屈託なく見ている。
8 河川敷・橋の下
力なく座り込んでいる多田。
加奈、川辺でうろうろしている。
多田、半分になったタバコをポケットから取り出し火をつける。
カラスが飛んでいく。
マキタの声「あなたの子じゃないでしょう」
隣にいつの間にか立っている警官服姿のマキタ(54)。
無関心にタバコを吸い始める多田。
マキタ「くたばるまでの時間稼ぎですか。ええ、今日もあなたには何も見えていなかった。所詮、時代に忘却される残滓。さようなら。さようなら。そんな声も聞こえませんね。ええ、だから。あなた。彼女にもあなたは見えていない。彼女をめいいっぱい愛するが良いさ」
タバコの煙に加奈の姿が重なる。
マキタ、多田の手に拳銃を握らせ、タバコが落ちる。
マキタ「あなたに殺して欲しい人がいます。率直に、私の部下ですよ。彼は本当に優秀な巡査です。まもなく彼は昇進して私は追い出される。いえ、そういうことではありませんとも。……率直に、私は彼に恋している。彼に……(涙ぐむ)……彼に……私は見えていない……」
加奈、多田の前に立っている。
多田の手に握った拳銃が加奈に向いている。
マキタ、立ったままただ泣いている。
多田、呆然として加奈の上方を見つめる。
多田、発砲する。
加奈、倒れている。
多田、ハッとしてゆっくり視線を加奈におろす。
加奈、何ともないようにそこにいる。
加奈の手には濡れた東南シャークズ(ムーンユニオンズの前身)のキャップ帽が握られている。
多田、拳銃を捨て加奈を抱き寄せる。
マキノの姿は消えている。
多田、加奈の肉体を震えた手で擦って確かめる。
加奈、持っているキャップ帽を多田に被せて笑う。
9 廃れた道
リアカーを引くキャップ帽を被った多田。
リアカーに段ボールと一緒に乗っている加奈。
通行人、彼らに無関心に通り過ぎる。
10 倉庫
リアカーから段ボールを積み下ろす遠野。
リアカーに乗っている加奈。
多田、座ってタバコを吸っている。
遠野「星豊。あれはムーンユニオンズの星っすよ。やあ、景気良い走りっすね。個人的にはやっぱあの三盗っすね。完全に牽制よんでますよ。あれは」
多田、何度か頷く。
遠野「良いんじゃないっすか。良い感じっすよ」
遠野、段ボールを奥に持っていく。
段ボールがリアカーに一つ取り残される。
加奈、その段ボールを遠野の元に持っていく。
遠野、受け取る。
遠野「ありがとう」
11 河川敷・橋の下
野球実況が流れるラジオ。
ラジオ『八十年代のムーンユニオンズの実況』
寝転んでいる多田。
隣にいる加奈、ラジオのスイッチを回す。
ラジオ、不協和音を放ち乱れる。
多田、加奈を抱き寄せる。
多田、震えた手つきで加奈の身体を再び確かめる。
多田、ハッとする。
遠方よりこちらを見ているマキノ。
加奈、橋の下から出ていく。
多田「あっ」
多田、追いかけようとして何かを蹴飛ばす。
無防備に横たわっている拳銃。
12 華やかな道(夕)
路肩に座り込む多田と加奈。
加奈、立ち上がって柱の方へ行く。
多田、ポケットから小銭を取り出す。
多田の掌に小銭『百四十円』。
小銭、新しく光沢がある。
加奈、柱に添えられた花を摘んでいる。
加奈の傍に女のレイ(19)が立っている。
女のレイのモノローグ『子供は苦手。子供の前ではすっごく緊張する』
13 商店街・駄菓子屋前(夜)
多田、加奈にアイスクリームを手渡す。
加奈、片方の手には花を握っている。
加奈の隣に立っている女のレイ。
女のレイのモノローグ『子供は下にいる。でも本当は私の方がもっと下にいる』
14 同・道(夜)
手を繋いで歩く多田と加奈。
その後ろをついてくる女のレイ。
女のレイのモノローグ『学校の先生になりたい。三年になったら歴史を頑張らなきゃ。歴史は嫌い。知らない時代は知らない。父さんと母さんと姉ちゃん、ワカナ、ユウト、カオリ、ハナちゃん、伊藤先生。私にはそれだけ。私には―』
ギターの演奏が聞こえてくる。
15 同・ある一角(夜)
シャッターの閉まった店の前に座り込んでギターを演奏しているタク。
観客はいない。
タクの目の前に座り込む加奈。
タク、気にせず演奏を続ける。
離れたところで座っている多田。
演奏が終わる。
拍手の音。
加奈も多田も拍手をしていない。
多田、後ろを振り返る。
マキノと部下・田辺仁(24)が立っている。
マキノ、多田を捕らえる。
田辺、加奈を抱き上げて去ろうとする。
加奈、田辺の手の中で唸って暴れる。
タク、何事もなく二曲目を演奏し始める。
マキノ、多田のポケットから拳銃を取り出して多田に握らせる。
加奈を抱える田辺の後ろ姿。
マキノ「(拳銃を握った多田の手を田辺の方に向けさせて)これが私たちの姿だ。憶するな。時代に知らせてやれ」
多田、マキノを振り払ってマキノの足に発砲する。
マキノ、その場に倒れる。
多田、田辺の方を追いかけていく。
タク、無心に演奏している。
女のレイ、タクの隣に寄り添うように座り込む。
16 廃れた道(夜)
ネオン街を力なく歩く多田。
多田、足を引きずっている。
遠野の声「おやっさん!」
駆けつけてくる遠野。
遠野、倒れそうな多田を支える。
多田「……腹いっぱい喰いてえ」
遠野、多田を抱きしめる。
17 焼肉屋・店内(夜)
年季の入った木造建築。
多田、無心に肉を頬張る。
多田の顔、肉を焼いた煙で朧げになる。
遠野、ビール片手に多田を悲しげに見ている。
遠野「その帽子かっこいいっすよね。何の帽子っすか?」
多田、こたえずビールを飲み干す。
18 同・外(夜)
多田、陽気にふらつく。
店から出てくる遠野。
多田、ポケットからありったけの小銭を取り出し、遠野に握らせる。
遠野「いいっすよ」
多田、陽気に被っていたキャップ帽をとってお辞儀し、踵を返す。
遠野「おやっさん」
多田、そのまま歩いていく。
遠野「おやっさん! 明日、野球見に行きましょう! 外野自由席、チケットあまって
んすよ! きっと僕らのとこまで飛ばしてくれます! 我らムーンユニオンズはここか
らっす! おやっさん!」
多田、聞いているのか聞いていないのか分からないまま闇に消えていく。
× × ×
多田、『東南シャークズ応援歌』を歌いながら歩いていく。
片手にキャップ帽。
近くを川が流れている。
多田、立ち止まってキャップ帽を川に投げ返す。
川面に眩い光が映っている。
多田、空を見上げる。
空には「何か」がある。
多田、表情が和らぐ。
多田、再び歌いながら歩き始める。
多田、自分のこめかみに拳銃を向ける。
躊躇なく一発、発砲する。
そのまましばらく歩き続けて突然倒れる。
19 商店街(早朝)
誰もいない。朝日が差し込む。
タク、シャッターにもたれかかったまま一人眠っている。
20 新しい道(朝)
整頓された街路樹、行き交う人々。
加奈、真理に手を引かれていく。
加奈、真理から手を離して立ち止まり、空を見上げる。
空には「何か」が残っている。
真理「また迷子になるよ」
加奈、真理に手を引かれていく。
終わり。
「終わった」
「どやった、感想は」
「あ、え、自殺? したん?」
「頭撃ってもうたからな」
「え、そう、あ」
「撃たん方が良かった?」
「撃っても、ええけど、何か、んーっと。そのまま、どこまでも、歩いていって欲しかった」
兄やんは、ハッハと笑って、「それありかも」と真面目な顔で言った。
「他は? 感想」
「あ、と、なんか、不思議……というか、これ、え、タイトル、とかは」
「『残月』」
「どういう意味?」
「残った、月。新しい時代に取り残されていく人が、残月のように、まだここに生きてるんやって、言いたいんやけど、まあ、抽象的というか、読んだ人の気持ちが全てって感じかな」
「へー。これ、あ」
ミクルは脚本に登場した多田、という人物にあの犬のおじさん、を重ねていたことを思い出した。
「こ、これ、撮るん?」
「ううん、やあ、短編の脚本賞があるからそっちに出そうかなって」
撮るんやったら、あの犬のおじさんを紹介してやろうとミクルは思ったが、役者じゃないし、どこおるかも分からへんし、臭いのいややし、そもそも撮らへんのかと、言うのはやめた。
「もうない?」
「いや、まあ、えっと、時代の残滓? みたいなのがあって、共感し、た、かな」
「ざんし? なにそれ」
「残滓」
兄やんがネットを開いてキーボードをカタカタ打って「残りかす。時代の残りかす。へーこんな言葉よう知っとんなあ。小説家なったら?」とミクルの方に目を丸くして微笑んだ。
「いやあ、まあ、でも、僕は、兄やんみたいに頭がまとまれへんから」
「まとまれへんことを書いたらええと思うで」
「いやあ、まあ、でも読む人が大変というか、そんな、うん……」
「ほんで? 今日なんか学校であったん?」
「え、いやあ」
「別に誰にも言わへんけど、」
「いやあ、特に」
「そ。ほなあ、俺の心配はええから、ミクルはミクルのことしーや」
「う、うん」
「何? 俺、帰ってきたのウザかった?」
「いやそれは」
「一応、毎月家賃三万は母さんに渡してるから。そろそろ金無くなってきたから、もうちょいで出なあかんかもやけど」
「ああ、ええ、そんなん別に。ほんまにい?」
「仕事で参って逃げてきたんは確かや。CM監督の手伝いとかをしとったんやけどな、残業残業で、何目指してるか分からんようなってもうて。でも辞めよって決意したのは、その監督がな俺に言ったんや。『映画目指してるやつはいっぱいいる。でもほとんどが夢破れていくんだよ』って、俺、それは違うと思ってん。『夢破れる』って何? って話。どこで何をしたら『破れ』たことになるん? って。評価されんくても、お金が稼げんくてもな、俺、映画監督っていうのは、ただの手段やと思うねん。思ってん。だから、俺は俺が表現したい事、『夢破れる』って何? っていうような投げかけをな、世の中にしていきたいんや。そんな考え方の監督と一緒やってたら、腐ってまうんちゃうかって。CMと映画は根本的にちゃうけどな。すまん、なんか、語ってもうたわ。でも、なんかな、ミクルはそういう感性みたいなところで、分かってくれる気がした。感想聞いて。血繋がってへんのに、すげえ、なんか、通じるってか。やっぱミクルはできる子やと思うで。俺的には背番号とって、というか、レギュラー目指して欲しいけどな。俺的に、やけど。今年の夏? で引退やっけ、まだまだ全然いけるわ。スポーツはええと思うよ」
「うん」
「ごめんってか、さんきゅーな。ミクルに脚本見せて良かったわ」
「うん、や、うん。ありがとう」
脱力したミクルは、ふと、再びパソコン画面に意識を攫われた。兄やんが開いたネットのトップページにニュース記事が並んでいる。『K高校 藤原忠人選手 死亡』
「ああ、これ!」
「どうした?」
「ああ!」
「どうした」
「ああ、ああ、ああ!」
ぼくは なにもの いか
藤原選手が、学生寮の近くで、首にベルトを巻きつけ死亡しているのを発見された。残されたメモから、自殺と断定された。ミクルは、ホームセンターを飛び出し、走った道の途中で座り込み、鞄から時間割表とボールペンを乱雑に取り出し、白紙の裏面に『ぜいたくな嘘』と書き留め、泣こう、と顔を歪めたが、馬鹿野郎、涙に辿り着くまではずっと遠い、自分の顔面を両手で強く叩き込み、昇りつめた声にならない音を喉で受け止め、雑草を爪で抉り取ろうとした。その時、たった一度だけ、ミクルは本気で、小説家になろうと思った。今すぐになりたい、と思った。彼の事を少しでも忘れないうちに書こうと思った。しかし、彼のことをただのモチーフにするのなら、書けない、書かない、と誓った。僕は小説家には絶対なれないと、すぐにミクルは確信した。彼の為に書くという動機の儚さに落胆し、再び立ち上がり、コンクリートを蹴って、走り出した。テレビの映像になった藤原選手のスガタとパソコンの文字になった藤原選手のジジョウに、真実を宿す肉、骨、血、汗、呼吸、眼、スイングの風、泥の付着したグローブは存在しない。悲しむ資格も、僕には無い。そんな藤原選手が―といえるほど「そんな藤原選手」はミクルにとって像、でしかなく、自殺はあかんことだという一般論で、なるべく押し切るように、一歩、一歩、蛇行して走る。いずれ、パソコンを開いて「藤原忠人 自殺」「藤原忠人 真相」と、検索して、その原因は、いじめだったとか、将来への悲観だったとか、自分の中の虚構を完成させる為に、必死になることも、虚しい、ミクルはミクル自身の中にいる彼の背中を、悶えながら探した。しかし、そこで見つけたのは、旧父さんの背中だった。自分の、思考の散漫さに、溺れ死にそうで、苦しい、旧父さん、は新父さんが来るまで、父さんだったはずで、海で、溺れて、死んだ、はずで、父さんと一度も、呼んだことはない、まま、分からへん、僕は、父さん、に届ける、言葉が、ない、母さん、が、父さんの、指輪を、外さない、でも、新父さんは、何も、言わない、誰も、何も言わない、母さんは、旧父さんのことを、何も、話さない、話した、言葉よりも、話せない、言葉の方が、この世界にはたくさんあって、それに気が付こうとしても、僕は僕の、話せない、言葉にしか、気が付かない、誰も、僕が、思う、ことには、僕も、僕の思う、ことには、到達できない、この海では、何も、見えない、空洞、暗い暗い、暗さを失くした、空洞、水も、塩も、魚も、海藻も、砂利も、光も、ない、空洞の海に、侵され、僕は、散漫に、溶けていく、僕も、また、何者でもない、無駄を省かれた、生身のニンゲン、として、空洞の中心で、文脈を逆流して、流れつくのは、死ぬこと以外の、何か、見えない、見えない、見えない、あああああああああああ、とさえ、発すれば、そんじょそこらの、意味を、回収して、谷尾以外にも分かってくれる、『光の方へ』のようなもので、あって欲しい、それは、しかし―とミクルは、チャイムを鳴らす。チャイムが壊れていて、ドアをノックすると、想像したよりも周りに響いた。矢谷はすぐ出てきた。「これ」と言って、母さんから病院代として貰っていた五千円で買った、折りたたみナイフを箱のまま渡した。矢谷は「入れよ」と言った。
矢谷は箱からナイフを取り出すと、折りたたみ式であることに「すげえ便利」とか言いながら、構えた。矢谷の家は壁もぼろくて、部屋も二間しかなかった。仏壇が所狭しと置いてあるのが目立った。
「なんて、いうか、ごめん。ごめん! な、矢谷」
「ああ、殺し欲しいってこと?」
「いや、うん、でも、なくって、それでも、しゃあないかも、やけど、でも、ほんま、ご、ごめん。遅いけど、無視したくて、無視したんちゃう、」
「ああ、別に、何も困ってへんけど、ってか、別にお前らごときに影響されて、こうしてんちゃうけど」
「あ、」
「で何、今度はお前らで、俺を人殺しにでもしようとしてんの? そういうこと? 俺、それやったら、格闘技始めたから、別にこんなもん必要ないけど。殺したかったら、殺せるし」
と、矢谷は苦笑した。ミクルは、黙ったまま正座している。
「俺の選択。勘違いすんな」
と、立ち上がってシャドーを始めた。しゅしゅしゅしゅしゅしゃっ。
「お前も格闘技やったら? うまいこと喋れんのやったら、身体で示せばええんちゃう。知らんけど」
「いやあ、僕は……。や、ほんで、な、柏木君になった。柏木君が、今度は、高井戸君の標的、になった」
「それをどうしろと」
「いやあ、まあ、別に、なんも、」
「なんもないんかい」
「なんも、ないけど、全然えーっと、全然関係ない話していい?」
「興味ないけど、」と、ナイフを拾い上げ、「最近料理も始めたから、これは貰うわ」と台所の方に向かって、「吉井はまじ腹立つけどな」と付け加えた。仏壇に飾ってある写真は、おそらく矢谷の祖母であろうと思われる白髪の女性で、のっぺりとこちらに笑っていた。
「聞いて。あんな、僕な、あの、柏木君のことはな、苦手っていうかな、あの、すごい圧迫感が、あるというかな、僕は嫌いやねん、でもな、皆が嫌いとか、皆でな、嫌おうとか、なりだしたらな、僕の嫌いもな、嘘みたいになってまうっていうか、いやあ、まあ、ほんで、な、僕な、そんなことを始める、高井戸君もどうかと、思うしな、でも、な、皆もやけど、なこの、な、僕らって、中学生やんか、でもな、今、なんか、変な感じせーへん? あのな、っていうのはな、このままな、ってか、いつの時代もな、このままの感じがな、大人になっても、本当はな、続いてるんちゃうかなって、僕、な思うねん、な、おもとってんな、だからな、社会はな良くならへんしな、あのな、それでな、いやあ、まあ、な、ぼくな、何回も、いやあ、まあとか言ってまうらしい、でもな、言うけどな、あのな、僕、藤堂さんのことが、好きやってん、めっちゃ好きやってんけどな、何にも話せんくてな、でな、高井戸君と付き合ってってん、僕が知らんうちにな、ほんでな、えっとな、高井戸君のな、その矢谷君とか、柏木君らにな、あの、やってもうたことに対して、やってまう高井戸君に対して、思う嫌な気持ちとはな、別やけどな、やっぱりな、くそうって思ってん、ぼくな、思っただけでな、社会とかな、考えてな、僕、あほやったわ、社会とか世界とかな、そんなんな、あのな、僕やってん、いやあ、まあ、意味が分からんへんけど、なあ、僕がな、嫌いなら、嫌いと、好きなら好きと言えば良くってな、言えば良いねん、思っててもなんもすすまんねん、僕はな、ちょっと待って……えほっ……でな、あのえっと、どこまで言ったけ、あのな藤堂さん知ってるやろ? あのK高校の、あの自殺した人、僕憧れとったんやけどな、あんな、ほんまショックや。ほんまショック。あかんねん、自殺は。って、みんないうやろ、ほんで、悲しむやろ、毎回手遅れやねん、いっつも、自殺するまでにな、もっと、その過程っていうか、それまでにな、そこにな、大事な感情? がいっぱいあるはずやのにな、誰も、知らん顔や、聞かへん、無関心や、ありえへん、忙しいとか、なんや、誰かがどうかしてくれる、社会のせい、そんなんもう無力すぎるやろ。でな、自殺したからな、すごいこと抱えとったんやーってな、僕な、あほかと思うねん。ほんまにあほ。そんなんいうやつ。ばり腹立つ。自分はだめなにんげんだって思ってること、それじたいをな、人が愛せるようになったら、どんなに、生きやすいんやろかって。なあ、聞いて。殺人もそうや。人殺したっていうことが起きてな、大騒ぎして、ほんまにやばいってな、死刑や! とかな、今さらあほかと思うねん。だからな、あのな、ほんま、今やねん、何をな、今な、僕は、なもう、嫌やねん、なんか勝手に、終わるとか、勝手に起きるとか、自然災害やったらしゃーないよ、でもそれですら、もうウンザリやけどな、兄やんが映画監督目指してんねんけどな、いや、うん、映画監督なんやけどな、そうそう、社会的弱者? 、ちゃうやん、弱者とか、弱者は弱者じゃないねん、分かる? あのな、え、えあ、ええ、ああ、だから、今や、この瞬間に誰かが、死ぬ前の時間があるはずやろ、兄やんはそれを撮るんや、兄やんは、だから、僕はな、それをな、絶対にもう失いたくないんや。自殺も殺人も、もう既に起こってるんや、と思うねん。悲しいって思うこととか、殺したいとか、そういうの、思うことをな、思ってるって、言わな、知っとかな、あかんと思うんや。やったてもうたら手遅れやで。でも、手遅れなことがあったんやって、それで最悪、知らなあかんのやろな、訳分からへんけど。頭ばらばらや、僕。兄やんは小説家になれって言ったけど、格闘家もええかもなあ、いや、まあ、違うねん。僕が話したらいらいらするやろ。皆、そうやろ。いらいらしてみろと思うで、だったら、僕は、長々と、全部、言ったんねん。ざまあみろ。僕はな、世界とか社会とかどうでもええ、最後の夏の大会、セカンドのスタメンで出るから。覚えといてーや。あ、え、なんの話」
と、ミクルは矢谷の祖母を見ながら言った。矢谷は笑い転げて、「お前、落語家にでもなれば」と言った後、「谷尾に話せよ」とミクルに向き合った。
「インフル」
「ああ、そう。ほんでお前、今、どういう気持ちなん、めっちゃ恥ずいんちゃうん」
と、また笑い出した。
「恥ずいけど、それがいい」
「お前がだらだら喋ってる間にリンゴ一個切れたわ」
「はい」と、つまようじを差したリンゴの欠片をミクルに手渡した。ミクルは受け取ったリンゴをシャキシャキ噛み、その振動で涙が一粒だけ落ちたことに気が付いた。自分が泣いていたということを知って、ようやく悲しくなった。「ううっ」っと腹に鈍い痛みがはしったが、既に知っていたような痛みで、心地良くもあり、リセット、流れているのであろう血に、新しい日々への希望を託す。リンゴはシャキシャキ、や、ああ、そうか、これが矢谷の痛みだったかと分かって、ミクルは安堵の微笑を浮かべつつ、床に倒れ込んだ。矢谷もきっと、あの時、泣いていたのだろう。意識が遠のく中、埃まみれの小窓から覗けた冬の夕暮れが綺麗だった。
(了)