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肉じゃが

作者: あんもう
掲載日:2019/09/10

 暑いぐらいに暖房の効いた火葬場の控え室で、精進料理をつつきながら並んで座る姉のまいにやっと聞こえるよう声を落とし、

「やっぱり松葉まっはがストレスだったわ」

 としのぶはささやく。

「だってあれからずっと血圧上がってないし、頭も痛くないんだもん」

 夫の松葉が死んだと知らせを受けてから、忍はどうも変だと感じていたのだ。寒さが深まり紅葉の美しいこの季節、いつもなら冷えがきつくなるのに、なぜかしつこい肩こりも消え、体が軽くなった気がするのである。

「あんたたち、昔はあんなに仲がよかったのにね。店も一緒にやっていいコンビだったじゃない」

「そうよ、不妊治療も二人で頑張って、子供が生まれたら絶対布おむつだって松葉は言ってさ、自分で真っ白に洗ってベランダにビシーっとはためかせて。あのころが一番幸せだったわ」

 通夜でも葬式でも見せなかったのに、忍はそうため息をつくと目に光るものをいっぱいためている。 

「それにしても酔っ払ってひき逃げされるとはね。犯人は?」

「明け方で目撃者がいないから難しいだろう、って」

「横断歩道で倒れてたって? 相手が絶対悪いわ、それ」

庭史ていじっておぼえてるでしょ、直前まであの子と一緒だったの。いつものように三軒はしごして」

「庭史って、店開くときに最初に雇った子?」

「そうそう」

「あの肉じゃがの」

「ぼやぼやすんな、ってよく松葉に怒鳴られてたけど頑張ってたからね。今度、独立させて姉妹店やらせるんで、その打ち合わせに行った帰りの事故」

 ハワイのホテルを経て松葉が西麻布で割烹を始めるとき、まず弟子にしたのが中学を出たばかりの庭史だった。包丁もろくに持ったことがなかったがアメリカ育ちの物怖じしない性格で、英語が通じる割烹だったら肉じゃがを出しましょうよ、と松葉に提案したのである。

「俺が一番好きなおふくろの味・肉じゃが、外人がとっつきやすい日本のザ・家庭料理・肉じゃが、それをプロの仕事で出せばウケますよ、絶対」

 と言い張るものだから、最初はピンとこなかった松葉もその気になり、煮崩れせず味のしみた丸ごとのジャガイモに、箸を入れると途端にほろほろとなるゴロンとした牛肉、玉ねぎ、ニンジンだけのシンプルで豪快な一品を完成させ、これが割烹Mを予約の取れない店にしたようなものだった。

「でもね、忍、五十歳で死ぬのはちょっと早いけど本人はやり残したことないと思うよ、よそに子供まで作って」

「私ね、松葉が死んでくれてよかったと思っているの。これ以上嫌いにならなくて済むから」

 通夜も葬儀も思いがけず多くの参列者があったのは松葉の顔の広さ故だろうが、外ではどこまでも愛想よく、他人には惜しまず力を貸すのに、妻には始終、怒ったり凄んだりであったことを知る人はまずいないと思われた。同い年では夫のあらも目につきやすく、米の目には勝気な妹が夫を苛立たせてしまうのではないかと感じるところもあったが、忍自身には思いもよらないことのようなのだ。

 火葬場の係から連絡を受けたのか、足早に近寄ってきた松葉の母が、

「忍さん、終わったみたいよ、行きましょ」

 とせかすので姉妹は席を立ち、高校の制服がやっとしっくりしてきた一番とっぷを連れて部屋を出ると、

「親父、もう骨なの?」

 と心細い声を出す。

「そうでしょ」

「ねえ、取り違えとかってないのかな、赤ちゃんみたいに」

「一人ずつ焼いてるから大丈夫でしょ」

 そう答えたが、忍には実のところ誰の骨でもかまわなかった。


 かつてラガーマンだったガタイのいい松葉も、とどのつまりはちっぽけな壷の中である。姉の運転で息子と月島のマンションに戻った忍は、

「そのお骨と写真、松葉の部屋に置いてきてよ」

 とこの一年でぐんとと背の伸びた一番に言いつけると、心得た彼もいつものように口答えはせず、黙って亡き父の部屋に入っていった。見届けると忍は途中のコンビニで買った缶ビールを開け、ぐいっと煽る。胸にポッと火が灯り頭がくらっとする。松葉との暮らしは、感じとしては土下座させられた頭をさらに踏みつけられるというものだったが、これでもうわけもなく怒鳴られたり、借金の尻拭いをさせられたり、子供ができたと打ち明けられることも、絶対にない。やっと自由になれたと思うとわけもなく笑みがこぼれ、大空に解き放たれた気分をごまかすようにテレビをつければ、いつも見ているバラエティーが始まるところだった。

「今日の『ハウツー・サバイブ』では熟年離婚を取り上げます」

 司会の女も楽しいのか、朗らかにゲストを紹介している。以前なら身を乗り出したテーマも夫が死んだ今となってはどうでもいい気がした。

 三年前、子供ができたと松葉に打ち明けられたとき忍が別れを決めたのは、懸命に守っていた何かが壊れてしまった気がしたからだった。

「もう終わりだね」

 そう告げると、

「なんでだよ、みんなで仲良くすればいいじゃん」

 となんともあっけにとられる言い草で、やりとりを聞きつけ部屋から飛び出てきた一番は、やっと中学に上がったばかりだったが、裏で父親に買収されていたのか、

「別れちゃダメだよ、母ちゃん」

 と親の離婚に傷つきかねない年ごろのせいかむきになって止めるものだから、忍にすればまずは別居だけでもと高まっていた気持はしぼみ、いつか別れてやる、と黒い思いを抱えたまま身動きできなくなってしまった。起き抜けの血圧が一四〇とか時には一八〇もあり、早朝高血圧と診断されたのはそのころで、ついには夫の顔を見るとジンマシンまで出たので医者にはストレスもありそうですね、と心療内科を勧められたが、一番の受験が終わるまではそれどころではなく、今までやり過ごしてきたのだ。

「ねえ、母ちゃん」

 気づくといつの間に現れたのか、テレビの横に一番がぼんやり立っている。しおれたような様子に、

「どうしたの」

「母ちゃん、俺、学校辞めるよ」

 そう切り出す息子を向かいに座らせテレビを消す。

「なんで? 野球部でやっとレギュラーになれたって喜んでたじゃない。なんかあったの」

「親父死んじゃってカネないだろ、うち。母ちゃんがアクセサリー、ネットで売ってるぐらいじゃ暮らせないじゃん」

 消え入りそうな声で生意気を言うのである。忍が趣味のパワーストーンで装飾品を作るようになったのは、一番が全寮制の高校に入ってからで、試しにネットに上げると注文が来るようになり、そこそこ売れはするが大した儲けにはなっていない。子育てが一段落したので一番が生まれる前のように松葉や庭史と店に立つことも考えなくはなかったが、喧嘩の元が増えるだけと思い直し、松葉に相談することもなく、それでよかったと今でも思う。

「退学して何すんの」

「Mを継ぐ」

「あんた料理好きだっけ? 卵焼き一つ作ったことないじゃない」

「やればできるよ、やらないだけ。庭史さんだって料理したことなくて中卒で板前になっただろ、俺だってできるって」

「庭史はああ見えて頭いいの、あんたとは違うの。お金の心配ならいらないわよ、少なくとも店舗は松葉のものだから、売るなり貸すなり誰かにこのままさせるなりすれば、あんたを大学ぐらいやれるんだから」

 納得したのか一番は黙ってうなずくと部屋に戻り、忍はパソコンに向かってお悔やみメールに返事を書き始めたが、わがまま放題の息子が学校を辞めると言い出した気持ちを考えるとなんとも胸が苦しく、メールは進まぬまま、深夜になって倒れるように床についた。 

 ベッドに入ってどれぐらい経っただろうか。玄関の鍵を回す音がして無言で松葉が入ってきた。

「忘れ物?」

 声をかけるが返事はなく、自分の部屋に向かう夫を目で追ったとたん、

「おい、なんだよこれ」

 いつものように雷が落ちた。あわてて部屋に行けば、クロゼットの前松葉が鬼の形相で立っているのである。

「どうしたの」

「ハンガーの向き!」

「向き?」

「なんで同じ方向にしとかないのかなぁ、あれほど言っただろ」

「どういうこと」

「俺はね、服の前側が右にくるように全部のハンガーを揃えてかけてあるの。なんで左向きのやつとか混じってるわけ?」

 そう凄まれたところで目が覚めた。Tシャツの首のあたりが汗でびっしょり濡れている。リアルな夢だった、と胸をなでおろし、ベッドサイドの目覚ましを見ると七時半である。

「一番の学校!」

 と飛び起きたがこの春から寮生活だったことを思い出した。しかも今日は忌引きで家にいるはずで、向かいの部屋でおそらくまだ寝ているだろう。ズキズキする頭を抱えてのっそり起き、ビールのあとのウイスキーがいけなかったと思い返す。とにかく水、と冷蔵庫を開けるがすぐに閉める。

「なんで……」

 勇気を出してもう一度、そっとドアに手をかけると、やはり真っ白なホウロウの保存容器が眩しいほど整然と並んでいるのである。サイドポケットから引き抜いたペットボトルに口をつけ、よく冷えた炭酸水をラッパ飲みしながら息子の部屋に駆け込み、

「一番、起きて! おばけ、おばけ!」

 ミノムシのように布団にくるまる息子の体を揺すれば寝ているところを起こされ不機嫌に、

「なんだよ、おばけって」

「松葉よ、松葉。冷蔵庫にホウロウのタッパ入れてったの」

「ちょっと落ち着けよ、ありえないだろ、それ」

「嘘だと思うなら見てきなさいよ」

 一番はやっと目をこじ開け母親をバカにしたように見つめると、

「あれは俺がやったの、しかも四、五日前だぜ。親父に呼び出されて、家の冷蔵庫がぐちゃぐちゃだからホウロウの容器買って整理しとけ、って。親父はさ、あんたのそういうだらしのないところが嫌いだったんじゃないのかなー。これ、よく考えたら遺言だよね」

 食材をホウロウの容器で管理するのは松葉の流儀で、店ではいつもそうするように弟子たちをしつけていたが、家で忍は守ったことがない。買ってきたビニールのまま野菜を冷蔵庫にしまうものだからしょっちゅう怒鳴られていたが、そのうち松葉は家で食事をしなくなり、今では一番もいないので、冷蔵庫がいい加減になっているのは忍もよくわかっていたのである。

「でもなんで今ごろホウロウタッパに気づいてんの? 料理してないんでしょ、母ちゃん」

「してるわよ、失礼しちゃうわね」

 ムキになって言い返したが、コンビニやデパ地下で出来合いのものを買って済ますことも多く、ビールを買いだめしたとき以外冷蔵庫はガラガラなのである。痛むこめかみを押しながら考えると、昨日の夜もコンビニで買ったビールをレジ袋から出し、缶から直接一口飲んで棚にあった柿の種を引っ張り出してつまみにした。ウイスキーに変えてからは製氷庫から氷を出しただけで冷蔵室は開けていないのである。

 思い返せば忍が事故の連絡を受けたのも山梨のホテルだった。女子大時代の同級生四人と泊まりでゴルフに行き、朝方、庭史からの電話を受け都内の病院に向かったのだ。そのあとは通夜や葬式で慌ただしく、料理どころではなかったというわけだ。

 一番はきっと松葉に小遣いでももらって、週末にこっそりやったのだろう。余計なことをして、と心の中で舌打ちしキッチンに戻ると、普段は使うことのない大きなゴミ袋を手に松葉の部屋に入る。夢の中で夫が指差し怒鳴っていた壁一面にしつらえてあるクロゼットの折戸を開け、ぎっしりかかっている服に端から手をかけ何も考えずに床に捨てていくが、

「うわー、懐かしい」

 と思わず手が止まった。奥の方にあったのは、一番のお宮参りに着ていたスーツである。家族のハワイ旅行で忍が贈ったアロハシャツ、オークションで買ったと自慢していたヴィンテージジーンズも大事そうにかけてある。これは庭史にあげよう、アロハはいずれ一番が着るかもしれない、などとやるものだからちっともはかどらない。買ったばかりなのかタグのついたままのジャケットやパンツも出てきて、全部捨てるつもりだった大量の衣類も、結局ゴミ袋に入れたのは半分もないのである。

 忘れようとすればするほど松葉に追いかけられ、あのころに引き戻されるようだった。部屋にはバッグ、帽子、サングラスにアクセサリーと、夫を彩っていたさまざまな品が溢れている。ベッドに寝転がれば松葉の匂いがして、抱かれている気分になるのだろうか、それともただ臭いだけか。遺骨や遺影が見張るこの部屋にいてはだめだ、あいつに乗っ取られる、と身震いし、リビングに急いで戻りテレビをつけ、パソコンを立ち上げる。友達からきっと何通も励ましのメールが来ているはずだ。

 ところが新着メールは一通で、松葉が子どもを生ませた次子つぎこからだった。

「忍さん

 松葉さんが亡くなったと聞いてから、私の胸にはぽっかり穴が空いたようで、さみしくてさみしくてたまりません。せめて夢で会えるようにと祈って眠るのですが、現れてはくれないのです。

 そこで忍さんにお願いがあります。何か身につけられるものを、できれば松葉さんの使っていた時計やアクセサリーがいいのですが、私に形見分けしていただけませんか。

 こんなこと、明かさなくてもいいかなと迷いましたが、実は松葉さんに三〇〇万円ほどお貸ししています。子供の父親ですからそちらは返していただかなくて結構です。私も働いているので経済的には不自由なく子育てできますし。最後に形見分けの件だけ、よろしくお願いします。

 忍さんもどうぞお元気で。

                   次子」

 読み終えると忍はパソコンを閉じ、コートを羽織ってマンションを出た。空気は冷たくよく晴れていて、忍は嫌なことがあるときそうするように門前仲町に向かって早足で歩きはじめた。松葉がバーの経営に手を出し大きな借金を作ったときも、次子の前に付き合った女が押しかけて来たときも、些細なことで大げんかになった数えきれない朝も夜も、忍はこの道をひたすら歩いていた。底冷えのする朝もあった嵐の夜もあった、とてつもなく暑い昼下がりといった厳しい天気の方が、血の上った頭を冷やすには都合がよく、どこまでも歩いて行ける気がした。普段なら隅田川を渡ったあたりで頭が空になり気持ちも落ち着くのに、今日に限っていつまでも眼に浮かぶのは、葬儀場で見かけた三十になるかならないかの次子の張りのある肌と、松葉に一層似てくる幼子の姿である。時計かアクセサリーをと指定する厚かましさと一人で子育てする決意表明がいっしょくたになった堂々たるメール、松葉が惚れたのはそうした芯の強さだろうと思いあたると頭が爆発しそうだった。忘れよう、松葉も次子も何もかも忘れよう、と念じて橋にたたずみ向こうに小さく見えるお台場の観覧車をにらむが、怒りや嫉妬がこんこんと湧いてくる。そうだ、歌でも歌おうととっさに口をついたのは、

“上を向いて歩こう

 涙がこばれないように

 思い出す 春の日

 ひとりぼっちの夜”

 である。忍が生まれる前のヒット曲は今の気持ちにぴったりすぎるものだから、却って目頭が熱くなり、溢れる涙を隠そうと急いでサングラスをかけた。

 ひとしきり橋の上で過ごしてから、なんとか越中島を越え門仲に入ると街はようやく動き出すところで、そこここでシャッターを開ける音がする。裏道をあてずっぽうにぐるぐる歩くうち、お茶でも飲んで体を温めようとまともな考えにいたり、向かいのおしゃれなカフェに向かって道を渡ると、中から出てきた男と肩が触れた。

「あっ」

 と頓狂な声をあげた忍は「ごめんなさい」と走り去る。あれは松葉だった、という恐怖から十字路を二回でたらめに曲がり、息が切れると歩みを緩めふと前を見れば、今度はマスクをした松葉が歩いてくる。振り返るとそこにもヘッドフォンの松葉、右を見ても左を見ても、そこら中に松葉がいるのだ。

 忍は肩にかけたバッグをぎゅっと押さえ、大通りに駆け出すと震える手でタクシーを拾い、「月島まで」と告げた。暖房の効いた車内に体のこわばりが緩み、ほっと背もたれに身を預ける。

「今日も冷えますね」

「ええ」

 運転手の呼びかけにフロントミラー越しに目を合わせる。ハンドルを握っているのは、またしても松葉。とっさに、

「すみません、止めてください! ここでいいです、ちょっと忘れ物をしたので」

「お客さん、危険だから急には無理ですよ。次の信号まで行きますよ」

 松葉がニヤリとする。

「お釣りは結構ですから」

 ようやく車が止まると忍は千円札をトレーに置いて車から転がり出て、道行く人の顔が眼に入らぬよううつむいて家まで急いだ。 

「一番! 一番!」

 忍がいない間に食べたらしいカップ麺の残骸が転がり、スープの匂いが充満している部屋で、息子はベッドに寝転びゲームをしていた。

「なんだよ、うっせーな」

「松葉がいるのよ」

「は?」

「街中に松葉がいるの、あんたには見えないのかな、ねぇ、ちょっと外出てきてよ」

「やだよ」

「私、お姉ちゃんのとこにしばらく泊めてもらうけど、あんたも来る?」

「俺はいいよ、明日寮戻るし」

「じゃ、これでごはん食べて適当にやって、ね」

 そう言って五千円札を勉強机の上に置くと、リビングに戻りスマホを取る。

「あ、米、今日からしばらくそっちに泊めてもらえない? どうせまた一人なんでしょ」

「そう、赴任先から当分戻らないらしいわ」

「松葉がいるのよ、この辺に」

「生き返ったの?」

「わけはあとで話すから」

 忍はキッチンの引き出しから取り出したガムテープで夫の部屋のドアに大きく×印をつけ、隙間を目張りした。これは結界、松葉のものが捨てられないならここに閉じ込めておけばいい。出て来るなよ、と念じドアを睨む。

 海外旅行用のスーツケースを取り出し、服、下着、バッグ、アクセサリーと手当たりしだいに突っ込むと久しぶりに動悸がする。血圧もおそらく上がっているだろう。引き出しの一番奥をさらうと瓶が手に触れた。17年前、Mの開店の記念にと松葉がくれたムートン・ロスシルドである。「お前の生まれた年のが見つからなくてさ、ちょっと若いけど」とあのとき手渡されたボトルのラベルは忍の好きなアンディ・ウォーホルだ。

 忍はキッチンに行き四十年もののワインをためらいなく開けると、ざっとすすいだだけのホコリでくもったバカラのワイングラスからゴクリと飲んだ。松葉がいたら「デキャンティングもしないでヴィンテージワインを口にするなんて、猫に小判だったなやっぱり」と嫌味を言われるだろう。「私がもらったんだから勝手でしょ」と言い返し喧嘩になっていたはずだ。

「ザマアミロ」

 そうひとりごちて戸棚の隅にあったビーフジャーキーを口に放る。「おいおい、つまみは干からびた牛かよ」とまたもや松葉が口を挟む。

「うるさいな、もう!」

 叫んで振り払うと、乾いたコンビーフのような香りとふくよかに開き始めたワインが口の中でダンスを始めた。


 けたたましく鳴り続けるインターフォンは玄関に立つ米のしわざだった。

「あんな電話よこしといてちっとも来ないから心配するじゃない。電話もメールもさっぱりだし」

 壁の掛け時計は七時十分、どうりで外が暗いわけである。

「あんた、こんないいワイン昼間っから開けたの」

「そんでいい気分になってソファにゴロンとしたら寝ちゃったみたい」

「バカね」

 一番はいつのまにか出かけたようだった。「ちょっと」

 玄関先でスーツケースに手をかけた米は、サングラスに帽子で身を整えた忍にあきれて聞いた。

「なんでこんなに重いのよ、あんたいつまでうちにいる気?」

「しばらく、かな」

「しばらくしたらどうするの」

「さあ」

「いい気なもんね」

 米はスーツケースを車のトランクに積むと、

「さ、早く乗って、お腹空いたわ」

 と、考えなしに見える妹を追い立てる。

 勝鬨橋からの夜景は今日も素晴らしく、このいかにも東京らしい景色が忍は好きだった。門仲からの帰り道、月島から引っ越そう、と決めた彼女は、ライトアップされた歌舞伎座を愛おしく眺めながら、この街ともお別れと思うと切なくなる。

「忍はさ、松葉の悪いところばかり言うけど、彼は彼なりに努力してたと思うよ」

 前を向いたまま米が口を開く。

「毎月生活費入れて、子供を私立にやって、店まで残して。なかなかできないことでしょ?」

「そんなんじゃ割に合わないぐらい、いらない苦労しょわされたけど」

「ランチだ、飲み会だ、ゴルフだ、って気ままに好きなことさせてもらって、もう許してあげたら」

 電話が鳴った。いつまでもそのままにしている妹に、

「ほら呼んでるよ、忍、出ないの?」

「どうしよう」

「誰から」

 待ち受け画面を見た忍は、

「庭史」

「出たらいいじゃない」

「松葉だったら困る」

「馬鹿馬鹿しい。私が出るから貸して。もしもし、忍の姉です」

「庭史です、Mの」

「今ちょっと妹は手が離せないんで私でよければ……」

「店のオープン、松葉さんのことで延期しようかと思ったんですけど、招待状も発送しちゃってるんでこのままやろうと思いまして。そのことを忍さんにお伝えいただけませんか」

「わかりました」

「お姉さんもどうぞご一緒に、ぜひいらしてください」

「ありがとう。庭史くんも開店準備頑張ってね」

 米は電話を妹に返しながら、

「当初の予定通りお店開けますって」

「聞こえてた」

「オープンはいつなの」

「一週間後」

「すぐだね。松葉も心残りだったろうな、開店に立ち会えなくて」

 贈られた花でいっぱいの店内、数え切れないおめでとうにたくさんの笑顔、松葉はご機嫌に客の相手をしながら、庭史をよろしくと引き立て開店の日を華やかに飾っただろう。でももう、この世にいないのだ。


 庭史の店「丁」は、目黒駅にほど近い静かな住宅地にあった。ガラス張りのカフェのような外観で、開店祝いに贈られたバスケットの花が眩しい。店の一角はカラフルなインディアンラグの敷かれたフロアに、クッションが無造作に重ねられたローソファー、木の枝で作ったシャンデリアといったサンタフェ風の空間で、客は居心地よさそうにしている。それぞれが独立するよう小さな段差で区切られた他の席も、おしゃれな家のリビングのように、北欧、日本、フランスとそれぞれのテーマがモダンにアレンジされていたが、店全体のまとまりを損なわないのはインテリアデザインを手がけた次子の計算に違いなかった。メニューにざっと目を通すと米は、感心したように、

「繁盛してるわね、値段も安くないのに」

「ちゃんとした料理を楽しんでもらう割烹だからね、一応」

 とわかった風に忍は答えたが、さっきから苦しいのである。庭史のアイデアを取り入れつつ、「本格的な和食をおしゃれに楽しんでもらうなら、俺だったらこうするね」という松葉のメッセージが、メニューからも店の細かなしつらえからもひしひしと感じられるのだ。松葉、庭史、次子の作品のようなこの店に、自分は何が貢献できたのだろう? そう振り返るがなに一つ思い浮かばず、身の置き場がなく惨めだった。

 目で挨拶を交わしただけの庭史はオープンキッチンの中で忙しそうにしている。横で皿を並べて盛り付けする弟子がうしろの冷蔵庫を開けると、ずらりと並ぶ真っ白なホウロウの容器目に飛び込んできた。ぞっとした忍は目をそらし、シャンパングラスに手を伸ばす。そのときだった。

「おい、もたもたすんな!」

 小さく聞こえた声に、松葉だ、とはっとする。が、庭史である。庭史がお盆に乗せ運んできた器を目の前にローテーブルに置き、

「とりあえずこれつまんでてください、俺の自信作」

 といつもの笑顔で戻っていく。

「ふふ、あんたの嫌いな肉じゃがね」

 かわいそうに、というように妹をのぞき込む米は知らないのだ。忍はほんとうはこの肉じゃがが大好きなことを。でも大好きと言えなかったことも。

 忍はゆっくりと丸のままのじゃがいもに箸を伸ばし、小さく割って口に運んだ。 

「忘れたいのに……」

 松葉の味だった。夫が庭史に仕込んだまさにあの味だ。肉に箸を入れると、肉汁をたっぷり含んだ断面がわけもなく現れた。無心に肉じゃがを頬張る妹に、

「どうかしたの、忍?」

「お姉ちゃん、松葉はまだ死んでないよ」

 そう言うと忍は、高笑いが止まらなかった。


                                                  (完)

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