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擬態の鑑

作者: 七瀬渚



 清楚と呼ばれるのが嫌いだった。


 最初に聞いたのはいつだったか忘れたけど、気が付いたら中学・高校時代にはお嬢様扱いされたりなんかして。私の実家には庭一面の薔薇の花とか天蓋付きのベッドなんて無い。錆びのついた自転車や中古の車、寝床はところどころ傷の入った畳の上、至って庶民的な環境で育った。


 そのうち容姿や服装の影響もありそうだと気付いた。『涼香すずか』なんて如何にも爽やかそうな名前がついてるのはもうしょうがないとして、外見ならある程度操作がききそうだ。本当はロマンチックなものが大好きだけど、私は同級生の遊び慣れた子を見習って、如何にもイマドキに見えるメイクやファッションを取り入れた。ヘアピンもすり抜ける直毛は盛るとか巻くとか出来なくて、せめてとばかりに明るく染めた。



 これで少しは……と期待をした。自分の本来の趣味を手放してでも、生きづらさと違和感から逃れたかったから。


 でもあれから数年。二十五歳の私は今、どうにも抜け出せない恋愛依存に陥っている。いや、正確に言うとどれもこれも刹那的な関係。



 わかってしまったから。私は“遊び”くらいが丁度いい女なんだって。


 結局ここまで工夫してみても雰囲気ばかりは変えられなかったみたい。でも先なんて見えてる。印象だけで勝手に清楚だとか思い込まれて、夜に本気を出したら勝手に幻滅されるとか本当に迷惑。だから私も相手の本命になろうって気が失せていったわ。自分が消耗していくだけだから。



 今の男はよく私にこう言ってくるんだけど……


「涼香ってさ、普段は大人しそうなのに二人になると大胆になるギャップがたまんないよね。そういうのまさに俺の理想っていうかさ」


 それは彼女じゃないからでしょって突っ込みたい気持ちでいっぱいだわ。


 私が与えられるのはせいぜい刺激であって安心じゃない。打ち寄せる激しい波と穏やかなさざ波、どっちを長く見ていたい? 事実、このところ連絡くれる頻度減ってるじゃない。そろそろ頃合いよね。


 何回か遊んでるだけで、私の全部をわかった気になってる相手のドヤ顔を見るのも怠くなってきた。



 満たされない、拭い去れない。


 男の家を後にする帰路。重く垂れ込めた曇りの夕空のもと、私は一人ため息をつく。ぽつりと小さな滴りが頰を打った。顔を上げると街灯の光に寄る虫たちに混じって幾つもの細い筋が降り注いでいるのが見えた。折りたたみ傘をさして足早に歩く。得体も知れない恐怖が押し寄せて細かな震えが背筋を駆け上った。


 まるで夜に追いかけられてるみたい。


 だから夜に会いたかったのに。ましてや梅雨なんて、しくしく、しくしくと、啜り泣くような音が続いて。私は乾ききってそれすらも出来ないのに、当てつけみたいに。


 紫色の触手が背後から伸びてくるような感覚が怖い。ざわざわと、わらわらと。初夏を過ぎようと私には冷たくて、寒くて、もう何年も星に会えていない気がさえする。



 息を切らせて一人暮らしのアパートに辿り着いたとき、ちょうどスマホが振動した。中に入って施錠をした後にその内容を確かめると……


「同窓会、か」


 高校時代のメンバーで集まるらしい。前にも何度か飲み屋に誘われたことがあるけど、仕事の疲れで怠かったし適当な理由つけて断っちゃったんだよね。あと正直、居心地がいいか怪しかったから。


 だからこのときの私はなんだか不思議だった。今度は結構規模が大きいそうだったからかな。高級そうなホテルが会場だから? 美味しい料理が食べたかったから?


(もしかしてアイツも……)


 って、誰か思い浮かんだような気がしたけど多分そんなことはない。私に限ってそんな、ね。


 だって欲求の使い道が一つしかない私は、もう自分が何処で何を判断しているのかもわからないんだもの。でもきっといつもの延長なんだろうなと思う。虚無を埋める為の暇つぶし。再会を喜ぶ気持ちなんてさらさら無いのに、画面上では楽しみだなんてほざいている自分を滑稽に思った。



 その夜、私は夢を見た。あからさまに過去が反映された夢。



――そんな人だと思わなかった――


――カマトトぶって――


――嘘つき女――



「…………っ!」



 長く見続けていることは出来なくて私は目を覚ました。明け方頃だ。


「嘘つきはどっちよ……」


 いつの間にか自分の肩に爪が食い込んでいた。みんなそう、決め付けてくるのは何も男の人ばかりじゃない。私に親友と呼べるような人は、いない。同級生の女の子たちだって、よく本音でなんでも話してって言ってたのに……


 もう騙されない。私が本音をさらけ出せば、みんな手に負えなくて逃げるのだと知ってる。第一印象だけは良いっていうのが裏目に出るみたいで、付き合った後から見える本性が彼ら彼女らには欠点にしか映らない。ちょっとの我儘も許されないってくらい。


 涙も流れない視界は乾いて。私は薄青い色した空っぽの天井に手を伸ばす。口に出すのは虚しすぎる問いかけを。



 激しい女は飽きますか? 重い友達は要りませんか?


 もし私がこの世から消えたら、誰か気付いてくれますか?





 同窓会の日はあれから一ヶ月後。


 予想はしてたけど私を理想だなんだって言ってた男からはもう連絡が来なくなった。私から追いかける理由も無い。まぁこんなもんだと納得できる。


 梅雨は明けて雨の頻度が減ってきたのが幸い。今日はよく晴れている。午後四時頃に家を出て、約一時間かけて地元へ向かった。


 海に近い私の地元は都会とも田舎とも言えない雰囲気の場所で、遊べるところもくつろぐところもそれなりに揃ってる。私はふと足を止める。キャハハと楽しそうな笑い声を漏らす大学生くらいの女の子三人の姿に目を奪われていた。


 年齢に差があるのは明らかだけど……


 大ぶりな青い花柄の肩あきワンピースは膝がちょっと覗くくらいの丈。七センチくらいのヒールのパンプス、白のクラッチバッグを持った自分の姿をまじまじと見下ろして思う。何か半端だと。あの子たちと比べると何か足りないと。


 服自体が悪い、という話ではない気がする。中身の人間が服をイマイチにさせていると認めざるを得ないのだろうか。



 だけど私のネガティブな気持ちなんてそれほど持続しない。なんだかそう、綺麗サッパリというよりは霞がかって薄れて、あぁ多分飛んでいったな……くらいの感覚なんだけど、しつこく引きずるよりはマシだと思うのよね。


 ビル街を歩いて見えてきたホテル。そういえば見覚えあるなって外観だった。スマホに来ていた案内を再度確認。唇をきゅっと一度結んで踏み込んでいく。



「あれ、もしかして涼香!? わぁ〜、久しぶり! 同窓会来てくれたの初めてだよね! 返事もらったとき嬉しかったよ。ありがと〜!!」


 最初に私に声をかけてきたのはいつも居酒屋同窓会で幹事をやってる沙希さき。よく響く彼女の声をキッカケに何人かが集まってきた。


「涼香、こういう服着てもなんだか清楚。変わってないね〜」


(変わってない、か)


 湿度の高い季節にも関わらず乾いた風が胸の隙間を吹き抜ける気分。笑い返したつもりだけど苦笑になってなかったかな。別にバレてもいいけど。だってこの子たち……



 苦い思い出が蘇る。


 すっかり忘れたように私の目の前で笑ってくれてるけど、私が男たらしだって噂を流したこと知ってるのよ。高校時代の私は付き合った相手だって一人しかいなかったのに、誰が言い出したか知らないけど噂に尾ひれがついてさ、やりそうもない女子が遊んでるってギャップが面白かったのかどんどん広げていって……


 せめて私に真意を確認するくらいしてほしかった。クラスの女子全員で私を無視したことも忘れてるんでしょうね。なんて都合が良く生きやすそうな頭。



 せっかく時間かけて来たんだから楽しめるモンは楽しまなくちゃと思って、私はさりげなく彼女たちから離れ飲み物を取りに行こうとした。そのとき大きな影が私の前に立ちはだかってゆっくり顔を上げた。


 目の前に男が一人。見覚え……いや、面影のある顔。カットソーの上に黒い七分袖のジャケット。同色のスラックスからも足首が覗いている。どうやら上下セットアップになっているらしいそれは、やや明るい髪色をした彼の印象を程よく引き締めている……などと分析していた途中。



「お前も来てたんだ!? 久しぶりだなぁ〜!」


 その声に胸が高鳴った。



 そしてあろうことか、そいつががばっと私に抱きついてきた。このごろ頭の回転が遅いのだ。身体の反応も当然遅くなった。


「ちょっ!? 何、いきなり!」


「会えて嬉しいんだよ。長い付き合いなんだからいいじゃん」


 ぐいと押し退けようとしても長い腕でがっちりホールドされて思うように動けない。勢いに押されるヒールだけがカツカツと虚しく鳴る。


「待って、転ぶ、転ぶ!!」


 そいつの肩のあたりで息を詰まらせながらも必死に叫ぶ。やっと力が緩まった。痺れたような私の頭の中、歯車が緩やかに動いてようやく理解へと至る。



 左回りの時計が過去へ導いていく。



光生こうき……で、合ってる?」


 いや、むしろ違ったらはっ倒すんですけど。期待の中にはまだ警戒心。じっとそいつを睨んでいると、懐かしい笑顔が目の前で咲いた。


 向日葵みたいに眩しい。


「そうそう、光生だよ。お前全然連絡くれないんだもん。ひでぇよなぁ」


「仕事が忙しかったのよ。幼馴染なんだから、地元に戻ったときにでも会えるでしょ」


「その地元になかなか戻ってきてくれねぇから会えなかったんじゃん」


 あんなに冷たかった胸の奥がここにきてじんわりと温まるなんて。だけどちょっと痛みがある。心も寒暖差に弱いのかな。




 再会を果たした私たちは皆から離れた位置の壁に寄りかかる。光生はビールを一杯、私はカシスウーロンを一杯。


「なぁ、お前いま彼氏いるの?」


 現在のお互いの話をしている途中にいきなり切り出されてむせそうになった。顔が熱いのはきっとお酒のせい。


「光生、いま彼女いるでしょ? 結婚も間近だってうちの親が言ってたけど……」


「あっ、ごめん。なんか期待させちゃった?」


「ちがっ……! ちょっと思い出しただけ! えっとね、私は今はいないよ。あんま興味なくて」


 汗ばんだサイドの髪を耳にかける。恋愛依存だなんて言えなかった。男たらしだって噂を流されたときだって変わらずに接してくれた光生。私を信じ続けてくれた彼にだけは絶対に知られたくない。


 もうあまり問いかけないで。大して面白い話も出来ない。なんなら私は、こうして隣に居るだけで十分……そんなことを考えていたとき、光生がおもむろにポケットからスマホを取り出した。


「あ、悪い。電話だ」


 安らぎの中にほんのりとしたときめき、懐かしさ、久しく味わっていなかったものがまた遠のいていく。あぁ、確かこういう気持ちを“寂しい”っていうんだっけ、なんていう乾いた実感。



「も〜、涼香ぁ! せっかく会えたのにそんな端っこで一人でいるなんてノリ悪いなぁ。こっちおいでよぉ」


 冗談めかした沙希の声が飛んできて私は引きつり笑いをした。本当にみんなにとっては過去のこととかなんでもないんだと半ば呆れた気持ちで会場の中央へ歩み寄る。


「ねぇねぇ、涼香。あのね……」


 沙希は私に耳打ちをした。よくわからない言葉が続いた。


「さっき明菜あきなから聞いたんだけど、この会場に変な男が紛れ込んでるみたいよ。同級生でもないのに“久しぶり”って、さも顔見知りみたいなこと言ってくるんだって。明菜はもしかして中嶋なかじまかなと思って話合わせたらしいんだけど実際は中嶋来てないし、一応従業員にも報告したけど涼香も気を付けて」


(同級生の……フリ?)



 まだ動きの鈍い私の頭はじっくりじっくり心当たりを探る。恐る恐る訪ねてみる。



「あの……沙希、浅野あさの光生こうきって今日来てる?」



 ついさっき受けたばかりの逞しい腕の力、その温かさを思い出しながら。願いながら。



「浅野? あいつ出張で来れないって言ってたよ」


 沙希はふところから取り出した書類に視線を巡らせる。


「うん、やっぱり欠席だわ」


 希望が砕ける瞬間は音も無く、向日葵色をした欠片が散って再び闇が覗く過程だけを見た。




 はぁ、はぁ、と私は息を切らし、会場の外の廊下を足早に進んだ。ふつふつと煮え滾っている。お酒のせいでもない。彼の……いや、彼だと思っていた人の声を聞いたときに感じた熱ともまた別物だ。


(許せない……)


 ホテルを出て夜風を受けたとき、自分の目尻に涙が生まれていることを実感した。肉体的にも精神的にも何もかもが乾ききってもう当然出ないと思っていたものがこんな形で……ぐっと拳で拭うと駅とは反対方向に歩き出す。


 辿り着いたのは港近くの公園。藍色のインクを溶かしたような空に生まれたての星々。見上げながら私はベンチに腰を下ろした。少し頭が冷えてくる頃。


「思い出に縋ってるつもり、無かったのになぁ……」


 落ちたため息の中に遠い日の残像が浮かぶ。カプチーノの泡みたいに白っぽいそれは、学校帰りによく光生とこの公園にやってきた思い出だ。


 バスケ部だった光生の帰りを私は暇だからって理由をつけてはよく本を読んで待ってた。夏は帰り道のコンビニでアイスを買ってこのベンチで一緒に食べたなぁ。



 一つ思い出したが最後、今更としか言いようのないことばかりが頭の中に溢れて私は思わずかぶりを振った。今には必要無いって自分に言い聞かせて掻き消そうとした。地面に着いているはずの両足が宙ぶらりんに見える。その視界へ音も無く、大きな足が片方入り込んできてゆっくり顔を上げた。



 目を見張った。


「アンタ……!」


 この喉から出たのは、せっかくめかし込んだ姿も台無しになるくらいドスのきいた声。だけどこちらを見下ろすそいつは心の読めない微笑を浮かべ、悪びれもせず私に問う。


「俺を探しに来てくれたの?」


 まさか、と言いかけて私は飲み込んだ。座ったまま顎を引き、睨みをきかせて低い声で。


「よくも騙したわね」


 幼馴染のフリをして気安く私に抱きついた得体の知れない男。これからどうしてやろうかと考えていた。



 そいつはハハ、と短く笑った後に頭の後ろで両手を組んで私に背を向ける。不真面目かつ無防備な態度にますます腹が立つ。


「そっか、バレちゃったか」


「明菜を騙したのもアンタ?」


「ん、君の前に会った子かな? 名前は聞かなかったけど」


「……何が目的なの?」



 目的、ねぇ……と、呟く声がした。顎に手を当てて港の方を見つめていたそいつが再び口を開いたとき。



――――――――。



 潮風を受けた私の髪が顔面に貼り付いた上、ボーーと長い船の音が奴の声に重なった。タイミングが悪い。


「何!? 聞こえなかったんだけど!」


 髪を掻き分けて苛立ち混じりに問いかけると、そいつの口から今日一番訳のわからない言葉が言い放たれた。



「俺の実態は誰も知らない。俺はね、正面から向き合った相手が最も逢いたいと思っている者の姿を映し出すんだ」



 光生にそっくりな声と姿を持っているそいつは今、たぶん寂しげな笑みを浮かべている。星と街のライトアップを背負って逆光になってはっきりとは伺えないけれど、なんとなく……そんな気がした。


 返答するまでに間が出来てしまった。だって無理もないでしょう。



「……はぁ? 何言ってんの」


「かなり強い想いにだけ反応してね、しばらく逢っていなかった想い人でも年齢まで割と正確に再現できる。信じるか信じないかは君次第だけどね」


「じゃあ子どもの頃はどう過ごしてたの。赤ちゃんのときは? どうやって大きくなったって言うの? いつからの能力?」



 言うまでもないけどこんな話、半分も信じちゃいない。だけど私はあえて話に乗り質問責めにすることで意地悪をした。きっと醜い嘲笑を見せつけて。


 さぁね、なんて気の無い返事をして奴ははぐらかす。ほら。コイツは私をからかっているんだから私の態度だって許されるでしょう。


「俺のことはいいんだよ。だって自分でもわからない。こうして行くあてもなく街をうろついてる理由もね。ただ、誰かの“逢いたい”っていう気持ちは俺にとって引力みたいなもので、本能的にそこへ導かれるっていうか」


「バッカじゃない」


「でも君だって嬉しかったんじゃない? 光生、だっけ。この男に逢えてさ」


「……偽物のくせに」



 私は唇を噛み締めてうつむいた。何かが今にも限界を迎えそうになっている気配、それが怖かった。



「偽物にだってわかることはあるよ。いや、似ているところがあるからなのかな。俺から見れば君だって偽物だ。擬態に慣れるにはそれなりの覚悟が要るのに、そんな寂しさを抱えたまま何故この道を選んじゃったかなぁ」



 黙って。とにかく黙っていてほしかったのに、無神経なコイツのせいでもう止められなくなってしまった。



「何がわかるって言うのよ! 似ているってまさかアンタと私が!? 冗談。笑わせないで。アンタは私だけじゃなく明菜にも近付いた。要するにコロッと騙される寂しそうな女を見て優越感に浸っているだけなんでしょう!? 私はそんなに悪趣味じゃない!!」


 おのずとベンチから立ち上がり、前のめりになってまくし立てていた。髪は乱れ、瞬きは忘れ、両の拳はかすかに震え。


「私は……私は、誰でもいい訳じゃない! アンタとは違ってね!!」


 そして今、墓穴を掘る音がした。同時に胸の奥が抉られて鋭い痛みが走った。


 たった今、自分が発した言葉の余韻を割って迫ってきた言葉は“矛盾”。私はぽかんとなって立ち尽くす。



 自分に問いかける。



 誰でもいい訳じゃないなんて、どの口が言う。寂しさを紛らわす為に誰彼かまわず抱かれてたのは誰?



「嫌……ッ!」



 一体、なんなんだろう。今まで大した抵抗も感じなかったことなのに、突然自分のことが汚らわしく思えて震える肩を抱かずにはいられない。今更。あまりにも今更だ。


 私に怒鳴られっぱなしだった正体不明の男は、きっと静かな表情のまま、その位置のまま、声だけで私に寄り添うように。


――わかってるよ。


 次第にこの心の内側にまで入ってくる。


「幼馴染の姿をこれほど鮮明に映し出せる君は本来相当一途なんだろうなってわかってる。俺は過去に何があったかまで知ることは出来ないけど、君の生き方を否定するつもりも無いよ」


 私の中は今、降り始めの雨音が響いている。ぽちゃりぽちゃりと確実に満ちていく。


「ただ君の擬態はなんだか痛そうだったから、最初はちょっと顔を見せるだけのつもりがついお節介しちゃった。偉そうに言ってごめんね」


 奴がはにかんだように笑ったとき、ずっと何かがつかえていた私の喉がすっと解き放たれた。まるで噛み合わなそうな話が何故か自然と出てきた。



「私が今住んでる街にね、素敵なお店があるの。一度も入ったこと無いんだけどそこのショーウィンドウに白いワンピースが飾られてて実は毎日眺めてる。袖はレースで妖精の衣装みたいな形。裾には繊細な刺繍が入ってて……」


「へぇ。今日の格好も素敵だけどそれもいいね。君に似合いそうじゃない」


「その服にネットで見つけたカメオのブローチを合わせるのよ。本当はそういうのが好きなの」


「いいと思うよ」



 噛み合わないと思ったのに、何故合わせてくれるんだろう。なんだか可笑しくなって、ちょっとくすぐったくて、含み笑いをしたままうつむいた。どうせ滑稽なやりとり。まだ残っている躊躇ちゅうちょもこの際だ、言ってしまおう。


「でも私は中身が伴ってないから。お嬢様育ちじゃないし多分欲求は人よりも旺盛。恋できそうかなって人を見つけたときも相手からのアプローチを待ってるの苦手でね、いつも痺れを切らして自分から迎えに行っちゃう。慎ましくなんて振る舞えない。外見だけで変に期待されるの疲れちゃったわ」


「はは、まぁ外見と中身が違うことはあるよね。でも好きなものを選んだ方が人生楽しくない? 自分が好きでいられる自分でいたいって、思わない?」



(自分が好きでいられる自分……)



 その言葉を私は内側で復唱する。潤いで満ちた内側でそれは、キラキラ輝く宝石のような存在になった。



 潮風が舞う、星が瞬く、これ以上にない幻想の夜。純白のレースと可憐な刺繍が私の視界に入り込んで息を飲む。妖精の訪れを錯覚するその最中さなか


「もう一度言うよ。俺は正面から向き合った相手が最も逢いたいと思っている者の姿を映し出す」


 心の泉からついに溢れ出した。見開いた目からこの頰へと温かく伝った。




「ねぇ。、いま誰に見える?」




 そう、今はっきりと存在している。ずっとずっと逢いたかったその姿の前、両手で顔を覆った私は絶えず肩を震わせた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 1行目が、逆に涼香が本当は清楚である事実に気付いてる、それが嫌なんだなーと思いましたが、私は男性なので分からなくて。結構重圧感あるなぁと思って読んでいました。凄いボリューミーで知らない言葉…
[良い点] 変な時間に起きてしまい、それで七瀬さんの短編があがってる!って感じで読んで現在に至ります。 まず良い点。日本語がとっても美しいです。本当に。読みやすいし、すいすい入ってくるし、そして文学…
[良い点] 重いのに暗くない不思議な雰囲気のお話でした。 行間もちゃんと空いていて読みやすかったです。 あまり表面化しない人間性みたいなテーマで、とても面白かったです。 [一言] 応援してます
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