ピ◯チュウを食す
『ピカチュウを食す』 まいずみスミノフ
○
「……雪山を舐めていた」
円堂真一は後悔する。彼は四方を銀箔の世界に囲まれていた。頬を打つ吹雪で目が開けられず、呼吸すらままならない。
真一は遭難しかけていた。天然のキャンパスは方向感覚を狂わせる。登っているのか下っているのか、判然としない。それでも歩みを止めるわけにはいかない。止めれば数分と経たずに豪雪の一部に成り果てる。春先に越冬キャベツと一緒に掘り起こされるまでコールドスリープだ。彼を雪の下に閉じ込めても多分美味しくはならない。
「まるで雪見大福の内側みたいだ……」真一はぼやく。
その言葉は吹雪に飲み込まれる。そもそも凍える唇が、意のままに動いたのかも分からない。
真一は、社員旅行で北海道を訪れていた。何も真冬に極寒の地を選ぶ必要はないだろうと思う反面、楽しみにしていた。スキーの腕前に自信があったのだ。大学時代に行ったきりで数年ぶりであったが、子どもの頃から両親に鍛え上げられていたので、他の社員に遅れをとることは無いと自負している。ボードだなんだと格好をつける新入社員に、年季の違いを思い知らせてやると意気込んでいた。
現地に到着すると年寄り連中は、酒だ温泉だと言って旅館から一歩も出ようとしない。真一は若い連中を連れて、雪山へ繰り出した。そしてその腕前を披露すべく、一人で上級者コースまで登っていった。
それが不運の始まりだった。
「ここは本当に日本なのか……?」
無論北海道といえど日本である。アマゾンの奥地でもなければ、砂漠の真ん中に放り出されたわけでもない。言葉も通じれば通貨も通じる。アイヌ言葉も屯田兵によって、農地とともに耕された。多少のイントネーションの違いはあれど、ここは正真正銘日本である。
だと言うのに平凡な会社員の現実とかけ離れ過ぎていた。そもそも雪自体珍しいのである。彼の住む盆地に雪は降らない。
「おまけに幻覚まで見えてきた……」
砂漠で蜃気楼はよく聞くが、雪山で幻覚も見るのか。そういえば腹も減った。猛烈に眠い。極限状態と言うやつか。
真一の目に飛び込んできたのは、壁だった。無機質で鼠色で打ちっぱなしのコンクリート壁。どうやらそれはビルのようである。それも神保町辺りの古びた五階建てぐらいのビルを切り取って、そのまま北海道の山奥にすっぽり植え付けたような、不可思議な光景であり、妙に現実的な幻覚である。
「これもリーマンの性か……」
縋るように近づくとガラス張りの扉が「ウィン」と、まるで三流芸人のコントのような安っぽさで開いた。むっとした熱気が顔面を焼く。受け入れ難い現実の中の、受け入れ難い現実を見た。つまり幻覚なんかじゃなかった。
「……た、助かった」のだろうか。『注文の多い料理店』もかくやといったうってつけの現状に、頭の先からばっくりとやられやしないかと不安になる。心休まる暇もない。かと言って立っていられる体力はもっと無い。
無闇に毛足の長いカーペットに倒れ込んだ。全身が焼けるように熱い。じゅうという音をたてながら、体にへばりついた氷が溶ける。真一を中心に水たまりがみるみる広がった。意識が薄れる。まるで氷と共に溶け出しているようであった。
○
「おー、お目覚めかね」
次に真一が目を覚ましたのはベッドの中だった。おそらく自分が駆け込んだ建造物の一室であろう。コンクリート壁からそう判断した。
枕元に立つ声の主を見る。それはひげ面で白髪の老人だった。白衣を着ている。お医者だろうか。
「お医者じゃないが、お加減はいかが?」
「寒いです。震えが止まらない」
「ふむ」
というと老人は真一の体のあちらこちらをまさぐる。おそらく触診だと思うが同性に体を弄られるのは決して気分の良いものじゃない。その手は節ばっていてガリガリで、そのくせ生温かった。冷えきった体には丁度良い温度だったが、その丁度良さもまた不快だった。
「軽い凍傷と低体温症だよ」と老人は言う。「ぬるま湯でじっくりと温めれば、なに日常生活に支障はない」
「へぶしっ」
「ふむ。湯を沸かせよう」
彼は枕元にある簡素な電話を手に取ると二言三言喋って切った。
真一は己が一糸纏わぬ姿で居ることに気付いた。凍傷の患者はまず服を脱がせると聞いたことがあったが、なんだかひどく矛盾を感じずにはいられない。もっとも、自分の着ていた服は雪解け水で今頃ずぶ濡れである。
しかし裸で老人にまさぐられたのか。感慨深い。
この名前の老人は自分のことを天堂と言った。医者ではなく研究者である。こんな場所で? と真一は疑問に思うが、こんな場所だからか、と思い直した。そして「きみはどこから来たんだい?」と言われた。真一は当然北海道の地理には疎いので、自分が宿泊するはずだった旅館の名前を言う。すると天堂は調子っぱずれた声を上げた。「ひゃあ。あんな所から?」
「営業マンの脚力となけなしの強運、ですかね……」真一は答える。
「まあ半分はリフトで移動したと考えれば無理ではないか」無理矢理理屈をつけて天堂は納得した。
しかしその言葉に、真一は一人愕然としていた。ここは『リフトで移動したと考えれば無理ではない』ほど離れた距離なのか。今頃になって気付く真一の間抜けぶりを、窓の外で依然轟々と吹き荒れる風が嘲笑っているようだ。
「ここは、天堂さんの自宅ですか?」
不安を掻き消すため、真一はたずねた。
聞いてしまえば帰れないような気もしたが、たずねずにはいられなかった。
「まさか。こんな山奥に居を構えるほどの酔狂ではない。もっとも、一年の三分の二をここで過ごしている以上、住んでいると言っても過言ではないがね。ここでは、研究をしている」
「研究所……?」
そう言われて真一の焦燥はさらに煽られる。
自分が手術台に括り付けられ、生きたまま内蔵を掻き回されるイメージが鮮明に浮かび上がった。いや考え過ぎだ。幾ら距離的にはロシアの方が近いとは言え、法治国家日本である。いや、いや。ならば何故このような辺境の地で、わざわざ雪と戦う必要があるのか。年間ウン万人の行方不明者が~と、頭の中のアナウンサーが聞き齧りの知識を垂れ流す。そう、雪の下に埋めてしまえば春先まで気付かれないと言ったのは誰だったか。そして春先の動物たちは、冬眠から目覚めたばかりでお腹ペコペコである。真一は恰好の御馳走である。
「おいおい真一くん。危険な妄想に耽っていないか?」
「……違うんですか?」
「土地は広ければ広いほど良い。時には雪も必要。そういう研究をしているだけだ」
「……生き物とか?」
「まあそんな所だ。うんまあ隠すことじゃないから言うけど、ここは食に関する研究をしている」
「食ですか?」
「食料問題はエネルギー問題と同じくらい重要だからね。動植物を育むのに広大な土地は必要だし、同時に過酷な環境もまた欠かせないということだ。ところできみ、腹は減っていないかね?」
「……」壁掛け時計で確認すると、時刻は十八時を過ぎた所だった。
早朝、糖分補給のため、あめ玉を一つ転がしたきりであることを思い出す。思い出した所で「ぐー」と、腹が鳴った。
浮世離れした状況に心の余裕が持てず空腹を感じられないと思っていたが、いついかなる状況であろうと腹の虫は本能に忠実だ。
天堂は、その音を聞くや否や目をキラキラと輝かせて言った。
「そうか減ったか!」
「お恥ずかしながら」
「ひとまず風呂に入って来なさい。それまでに食事を用意しておこう」
○
風呂から上がると、真一は同僚に連絡を入れる。捜索願いを出す寸前だったと言われて、彼は電話口でへこへこと頭を下げた。とにかく無事であることと、天候が回復し次第戻るのことを伝えて電話を置く。こういう緊急時の謝罪の言葉が、スラスラと出てくる自分にやや辟易する。とにかく人心地ついた彼は、『食堂』と書かれた扉をくぐった。
文字通りそこは真一の知る『食堂』らしい光景だった。鉄パイプの丸椅子と折りたたみテーブルが十組ほど置いてある。ひと気は殆ど無い。殆ど無いが僅かに居る。皆同じような顔で、同じような白衣を着ていた。先ほど真一を風呂に案内してくれた、天堂の助手と名乗る男もまた同じような姿形であった。どうやらここは本当に何らかの研究機関であるらしいという確信を得る。しかしながらその裏付けは『白衣を着ていたから』という理由のみなので、中々どうして表六玉である。
真一を見つけると天堂は手を振った。
「こっちだよ」
まばらな視線の間をすり抜けながら、真一は天堂の前に座った。
そこには三種類の肉料理が置いてあった。一つは角煮のようで、もう一つはステーキのようで、もう一つは蒸し肉のようだ。かなり動物性タンパク質に偏執したディナーである。そしてその三品は、どことは言えないが一般的な肉(牛・豚・鶏)とは、違った。場所が場所だけに羊だろうか。
やや怪訝そうな顔をする彼に、天堂は「害はないから」と言った。
さすがの真一でも、初対面の人間の言葉を鵜呑みにするほど不用心ではないが、一方胃袋の方は、その甘辛い香りに容易に陥落され、ぐーと不満の声を漏らす。生物である以上、胃袋の申し立てには逆らえない。
「……いただきます」
真一は手前にあった角煮のようなものに箸を突き立てた。角煮は大振りながらも箸でほろほろと崩れ、その断面から肉汁が溢れる。その肉汁を啜るように口の中へ放り込むと、舌の上で醤油の辛さと油の甘みが広がった。やや味付けが濃いめなのは寒冷地故か、しかし今体が求めていたのは、このパンチのきいた味である。湯気の立ち上る炊きたての白米が猛烈に恋しくなるが、既に角煮は口の中でとろけてしまっていた。
「ほらね」と言って天堂は、自信満々に白飯を差し出す。それもどんぶりで。高校球児か相撲取りでないとこの量は食べきれないと、普段の真一ならば嫌厭する。だが今はこれだけのものを、体と主菜が求めている。仰々しくどんぶりを受け取ると、北の大地で育った純白のダイヤモンドをつるつると飲み込んだ。
「そのステーキも食べてごらん」天堂は言う。
その肉は角煮とは打って変わって、どちらかと言えば固い肉だった。角煮が脂身であるなら、このステーキは筋肉である。かと言って噛み切れないわけでも、パサパサとしているわけでもない。適度に油はのっているし、奥歯を押し返す弾力もまた心地よい。味付けもシンプルで、塩と胡椒だ。だがそれで十分だった。調味料など食材の持つ本来の味を引き立てる程度で事足りる。
「……こっちの方が好きかもしれない」真一は言う。
「そう。テレビで紹介されるような柔らかい肉が必ずしも旨かったり高級だったりするわけではない。歯ごたえのある肉だって旨いものは旨いのだ」真一の言葉がいやに気に入ったのか、天堂は何度も頷く。「きみは中々見どころがあるね」
「……どうも、です」
「最後のも食べてごらん」
もちろん期待値はうなぎ上りである。これだけ旨いもののとりをつとめるとなれば、その味は無類を誇るのであろう。天堂の口ぶりからも、この一品が最も自信があることは伝わってくる。最早真一の中で疑念は見事に吹き飛んでいた。料理でここまで感動するものなのか。胸を高鳴りを抑えながらそれを口に運ぶ。
「……」
信じられないことに、その味は最悪だった。不味い。気の遠くなるような悪臭と、べちゃべちゃの食感で、ゴムの如く噛み切れず、それでいて無味無臭というか、生ゴミの方がなんぼかまともな味で、とにかく吐き気を堪え切れない。
夢見心地の所を、後ろから思いっきり殴られた。落差が激しい。最高潮辺りまで上げられていたせいで、トラウマ級の衝撃を受ける。誰が食べても失敗だ。そもそもこれは食材なのか? そこらへんの生ゴミを、料理すら知らない原始人が、その場のノリで踏んだり蹴ったりしたものを、どういうわけか食卓に並べる。
真一は気絶寸前である。
「とてもじゃないがこれは……酷い……」
「そうか……」天堂は残念そうな面持ちであった。
「発狂ものです」
「うーん、私の見立ては違っていたのかなあ……」
真一は目の前の悪夢から目を逸らすべく、他の料理に手を伸ばした。言うまでもなく、その一口は天にも昇る気分であった。とにかく無我夢中で肉に食らいつく。皿を嘗め尽くす勢いで食事を終え、天堂にたずねた。
「しかしこれは何の肉ですか?」
これとは旨い方の肉であり、あの『産業廃棄物』のことではない。
真一は、食べ慣れない味と食感から羊か鹿だろうと予想する。彼の記憶では、羊はもっと羊臭かったような気がするし、鹿はもっと鹿臭かった気がするが、広大な大地でのびのびと育つと肉質も格段にあがるのかもしれない。
天堂はその質問を受けると、さらりと淀みなく答えた。
「人間の肉だよ」
「……」ぽろっと真一は箸を落とす。
「嘘だよ」
「……あはは、悪趣味な」
平静を装う真一だが、そう易々と冗談で済ませられない。何故ならば、ここは日本の最北端で、これは食べたことのない肉で、それがまた旨いとなれば怪しさは青天井だ。とある映画が思い浮かぶ。その映画は増え過ぎた人間を食べるため、様々な方法で人体を切り刻み調理するというものだった。普段ならば笑って済ますジョークが、無駄なリアリティを持って迫り来る。
しかし恐怖の代名詞として、まず三流映画が出てくる真一の危機感は、その程度のものと言えば、その程度である。胃の辺りを形式的に抑えてみる。
天堂は呆れ顔でいた。
「きみね、人間を美味しく食べるには、コストが馬鹿にならないんだ。それこそ牛や豚や鶏を育てた方が、よっぽど安くて簡単で旨い肉が作れる。この厳然たる事実には、逆らいようがない。家畜として人類と共に、人類の庇護下で繁栄することを取捨選択した種というのは、相応の理由があるんだよ。
かの大国には食人文化が古くから存在するが、これは日本には一切根付かず、理解されなかった文化である。何故か。土地が無いからだ。農耕民族にとって人間は食料の前に貴重な労働力だ。牛ですら文明開化まで一般的に食べられていなかったのだから、当たり前と言えば当たり前だ。『食』に関する研究機関が、共食いを研究するなんて本末転倒なんだよ」
「し、しかしですね。ではこれは何の肉なのでしょうか?」
「興味があるのかね?」
「興味というか、自己防衛というか」
「ふむ」天堂は自分の白ひげをわしゃわしゃと手で梳きながら、しばらく思案する。そしてやおら立ち上がった。「よろしい。ならば付いて来なさい。ここで会ったのも何かの縁だ。私の研究を見せてあげよう」
「…き、貴重な研究をですか?」
「貴重だが、同時に常識でもある。常識にしたいと思っている」
「ぼくのような小市民に、披露してしまって良いのですか?」
「小市民だからこそだ」
「はあ」
「金や名誉よりも、知識の探求と人類の繁栄を望むのが研究者というものだ。もっとも、研究費用は幾らあっても困ることは無いがね」
半ば押し切られるような形で、真一は天堂に付き従って食堂を出た。
○
所内は、見た目に反してかなり広いようだ。正面からでは分からなかったが、奥行きだある。方向感覚に一抹の不安のある真一は、また迷子になる可能性があるので、天堂の傍を離れるわけにはいかない。
迷路のような廊下である。様々な計器が置いてあったりフラスコやビーカーが並んでいたり赤いバトランプが回転していた獣の唸りが聞こえたりと、混沌としていた。しかし天堂は障害物など初めから存在していないように、驚異的な速度で進んでいく。真一はしきりに辺りを見回し一々反応を示すので、気付いた時には一人で立ち往生している。見兼ねた天堂が廊下の角から手招きする。真一は小走りで近づいて行く。というやり取りを何度かした。コレが彼の遭難の原因であることは一目瞭然である。
やがて薄暗い廊下を十分ほど歩いただろうか。突き当たりに手術室を思わせる両開きの扉が現れた。くっきりと輪郭を彩るように中から炯々と光が漏れている。「どうぞ」と天堂は真一を中へ促す。眩しいくらいの光が廊下を照らした。
「おー…」
そこはガラス張りの廊下だった。左右には同じようにガラス張りの部屋が、延々と続いている。部屋の中では研究員とおぼしき人々が、忙しなさげに蠢いていた。
ここに居たのかと、真一は思う。先ほどまでの食堂や廊下での静けさが嘘のように様々な声や音、息づかいが溢れている。
天堂はこの一本道ならば迷うまいと判断したのか、彼本来のペースでずんずん進んで行く。今度こそ遅れを取らないよう真一は好奇心を押し殺して注意深くあとをつける。程なくして、二人は一つのガラス戸の前で止まった。
天堂はここにきて初めて真一を方を振り返った。
「見てご覧」
「……」言われて、真一は部屋の中を覗き込んだ。
ガラスの中には、小型犬用のケージやキャリーが置いてある。研究員たちがそこへ薬や餌を入れたり、外から観察して手元のクリップボードに数値やドイツ語を書き込んでいた。やがて一人の女性研究員が一匹を抱きかかえて、真一たちへ見えるようテーブルの上に置いた。しかしそこに居たのは小型犬では無かった。
「……あれは、なんと言う生き物なんですか?」
その生き物は何とも形容し難い姿をしていた。確かに大きさは小型犬ぐらいだが、全身オレンジ色の毛皮に覆われ、ウサギのように耳は尖っおり、背中には黒い縞模様、尻尾が大きい。くりくりとした団栗眼で上目遣いに女性研究員を見上げ「ちー」とか「きー」とか鳴き声を上げる。女性研究員は白衣から親指大の餌を取り出すとその生き物へ与えた。栗鼠のようにうやうやしく両手で受け取りカリカリと前歯で齧り始めた。
「名前は無いよ。形式的な数字と番号の羅列はあるけど、そういうのを求めているわけではないのだろう?」天堂は淡々と事実のみを告げる。
一瞬でその小動物に心奪われた真一は、無意識の内にかぶりつきで、ガラスにへばりついていた。別段彼は動物に異様な執着があるわけではない。しかし生物というよりキャラクター、人為的に計算尽くされ、均整の取れた可愛さは万人の心を掴む。そういう風に出来ている。そんな愛らしさを持っていた。
「遺伝子的には鼠に近いが、この生き物は我々が遺伝子勾配の末生み出した新種の肉畜だ」
「肉畜?」真一は天堂の方を見た。「食べちゃうんですか?」
「無論だ。そのために生み出したのだからな」
真一は嫌な予感がした。
「我々は様々な生物を、掛け合わせ、人間に有用な家畜を生み出す研究をしている。蚕っているだろ? 蚕は野生では生きていけない。餌が無くなればじっとしている完全家畜だ。アレの食肉バージョン、と言えば分かって貰えるかな。
肉畜となるぐらいだからその肉は無類の味を誇る。無駄な臭みもえぐみもなく、万人が好む柔らかい肉質だ。もちろん繁殖能力にも優れており、低コスト短時間で成体となる。足は退化しており素早い移動は出来ない。逃げ出す心配も無く、狭い環境でも耐えうる、むしろ狭い場所を好んでじっとしている。野に放てば数週間の内に命を落とすことを理解しているのだろう。げっ歯類のげっ歯類たる強靭な前歯も退化しているので、敵に襲われれば成す術はない。運良く逃げ切ったとしても、満足に餌も見つけられず餓死する。コレは、人間の作る柔らかくて消化に良い専用のフードでないと体が受け付けんのだ。驚くほど人に懐き、同時に人に害をなす術すらない。野生回帰本能も完全に失い、我々の研究は大願成就した、かに思えた」
「……」
「一つ成功すると一つ欠点が出来る。我々が理想に漸近する度に必ずリスクが付き纏う。それも見逃せないほど大きなリスクである。……滅茶苦茶、可愛いのだ」
「もしかいてぼくが食べたのは……」
「こいつだよ」
ショックだった。この可愛い生き物だろうと、容赦なく食べてしまう人間の食欲が恐ろしくなる。
犬猫を見ると我を忘れる連中は、多分こんな気持ちで生き物に接しているのだと思った。
そのような真一の心中を察してか天堂は言う。
「きみもコレに魅了されたかね?」
魅了。可愛いいことが、この生き物にとって唯一にして最強の武器であると、天堂は暗に言う。
「で、でも可愛いだけなら牛だって豚だって、生まれた時は可愛いはずです。『可愛いから食べられない』なんて、そんな女子中学生みたいな倫理観を振り回すのは間違っています」
彼が口にした言葉は、天堂に対する反論を装った自身の合理化に他ならなかった。
「うむ。きみの言うことはもっともだ」
だが天堂は思いの他あっさりと彼の言葉を認めた。食べることと可愛いことは決して相反した理屈ではないと。しかしそれは天堂の言う『欠点』や『リスク』にはならないはずだが……。
「でもねえ、実際出ちゃってるんだよ。可愛さの被害者」
「被害者?」
「うむ、辞めてるんだ。主に女性研究員を中心に「可愛すぎて殺せない」と言って。精神を病んでしまい、元々肉を食べるのが大好きで研究を始めた者が、ベジタリアンを名乗るようになり、日に日にやせ細っていく姿は、見るに耐えんよ」
「……」
犠牲はつきもの、と言い切ることが出来ない、わけではない。天堂は生まれながらの求道者であり、例え身内の者が命を落としたとて、それが人類の発展に繋がるのであれば、それで良いと思っている。彼が「見るに耐えん」と言ったのは、報われないこと。犠牲が無駄になることだ。この生き物の可愛さは人類の発展という大義名分の前でさえ、見逃すことの出来ない可愛さなのだ。
「例えば牛や豚、鶏はどうだ。その内どれかを捌けと言われて、捌かなければいけない状況下で、きみは出来るかい?」
「生きる上で、のっぴきならない状況であれば……やりますよ」
やりますと言うが、同時にそれで生きている自分の姿を真一は思い描けなかった。生きている姿が思い描けない以上、それは天堂の言う『やった』ことになるのだろうか。
「うん、やるだろうね。やるんだよ。人間は食うもんが無くなれば殺すんだ。殺す。可愛いとか愛着とか関係なく殺す。コレだって、私は自らの手で気絶させ、首を落とし、血を抜いて、皮を剥ぐ。精神を病むのは一部の軟弱な者共が、食物連鎖から弾き出されたに過ぎない。食欲の前に愛や同情は無関係だ。
だがね、真一くん……私はコレを殺す度に思うんだ。この生き物を殺せなくなった時、人類は彼らにただ餌を与えるだけの奴隷に成り下がるのではないか、と。辞めて行った彼らは、一足先にそれに気付いた者たちなのではないかと。この研究を続ければ、やがて人類を滅ぼすのではないかと。我々はとんでもない生物を生み出してしまったのではないか、と」
「……可愛いだけならば、人間は乗り越えられると思います」
「うん、そうだね」
可愛いだけならば、人間は食う。それは真一も天堂も共に認めている。
だからこの生き物には、それ以外の原因が他にあるのだ。
「彼らは殺される瞬間、私の目を見て、涙を流すんだ」
「……」
動物が涙すると聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、おそらくウミガメの産卵である。あれは血液中の塩分を調節するために排出されているいわば生理現象で、産卵は関係なく常に分泌されているという。それを生来のロマンチストである人類が、物語を妄想したに過ぎない。
今回のこのげっ歯類もどきも同様の生理現象が何らかの理由によって発生しているのだろう。真一はそう信じている。おそらく天堂もそう信じている。
「少し」真一は言う。「研究員が辞めてしまうのも、無理からぬ話だと思ってしまいました」
「そうか。私もそう思ってしまうよ」
「愛玩動物ってわけにはいかないんですか?」
「……」
「犬猫のように可愛がるためならば、これ以上無いほど優秀な種だ。あなたも苦悩する必要はない」
「それでは報われんよ」天堂は小さく笑った。「報われん」
○
次に真一が案内された所も、同じようなガラスの部屋だった。意外にも入室が許可された。許可されたと言っても天堂がしつこくせがむものだから、助手と思しき人が渋々了承したのだ。本来は貴重な研究結果を、そう易々と公開したくないと思うのは当然で、彼が異端なのである。そう考えるとこのガラス張りの設計は、天堂の明け透けな人間性が現れているのかもしれない。同時に他の研究員に、その公開主義を強要しているような気がして、ちょっと嫌だなあと真一は思った。
ガラス越しに確認する限りだと、広さは先ほどと殆ど変わらない。しかしケージもペットキャリーも無いので、だいぶ広く感じた。そして何故か、床には干し草や土が落ちている。
真一は天堂に続いて扉をくぐろうとして直後、ソレが鼻腔を貫いた。
「うっ……!」
発酵臭、腐敗臭、獣臭、古今東西ありとあらゆる悪臭を振り撒いたような、不躾なフレグランスが真一の鼻から後頭部まで突き抜ける。思わず鼻と口を抑えるが、効果は薄い。人体の穴という穴から体中に染み込んで、目の前がチカチカしてくる。
見れば部屋の至る所に芳香剤が置いてあるが、まったく意味をなしてない。むしろ奇跡の相乗効果を生み、渾然一体となって侵入者に襲いかかる。室温が高いのも問題である。その薫香に誰も得をしない奥深さをもたらしていた。
「ああごめんごめん、忘れていた」そう言うと天堂はロッカーを勝手に開けて何かを取り出した。「はいガスマスク。人体に影響は無いけど、人によっては卒倒しかねないから」
「て、天堂さんは大丈夫なんですか?」
「道民だからね」
そういう問題か? しかし今の真一は、自己防衛で精一杯だった。無我夢中でマスクに頭を滑り込ませると、公衆トイレ程度にはマシになった。もっともそのマスク自体も研究員たちが使い倒しているものなので、おそらく公衆トイレの臭いはソレなのだが……。
「……また奇妙なのが居ます」真一の声はマスクの中で反響するだけだ。
そこには馬サイズの生き物が一体、鎖で繋がれていた。体毛は薄くまばらで、所々紫色の皮膚が見えている。その皮膚は瘤状に膨らんでおり、まるで巨大なニキビのようであった。薄緑色の唾液と、半固形状の糞をぼたぼたと垂れ流している。見方によっては超大型の昆虫のようにも見える。正視するのも堪え難いほど、気色の悪い生き物である。
「病気、ですか?」
それならばこの悪臭も仕方ないと真一は思う。
「いや至って健康体。いつでも美味しく食べられる」
「……もしかしてぼくは、あれも食べたのですか?」
「おいおい、一番気に入っていたじゃないか」
真一はまたショックを受けた。おそらく二品目の歯ごたえのある肉だ。確かにあの肉は非常に好みの味だった。だがこの気色の悪さは、そうそう受け入れられるものではない。
今回はまた別の意味で、食べることに抵抗がある。
「肉牛サイズの家畜を生み出そうと思ってね。万人に受け入れられるよりも、高級嗜好、健康嗜好の肉を作り出そうとした。育て方としては牛と同じ要領で大丈夫だ。特別な知識も経験も必要ない。草さえ与えれば放っておいても勝手に生きるし病気もしないし旨くなる」
「……」
「ただし非常に醜い。食肉にするのを、躊躇うほどに」
「人間の食べるもんじゃねえ、って感じがします…」
「でも旨いよ」
「……」
「旨いよ」
「まさか今回も、「人間の食欲を超える醜悪な生き物を生み出してしまったのではないか?」とか言い始めるつもりじゃないでしょうね」
「ははは、まさか。そんなことは言わないよ」意外にも天堂は真一の言葉を笑って否定した。「あのね、醜いことは悪なんだ。醜い者は殺すよ、人間は」
天堂は続ける。
「例えば昆虫食という文化があるが、あれは現代人には敷居が高い。何故肉食文化は大衆文化に成り得て、昆虫食は成り得なかったのか。そんなものは考えるまでもなく、肉の方が旨いからに決まっている。虫の方が旨かったら、わざわざ育ててまで食べるさ。やがて肉よりも味の劣る昆虫食という文化は「気持ち悪い」という理由にすり替わり、受け入れられなくなってしまった。気持ちの悪さで言えば、血湧き肉踊る屠殺場の方がよっぽど気持ち悪いというのに。嘆かわしいことだよ」
「……つまり旨ければ気持ち悪くても食べると?」
「無論だ」
真一は考える。こんな気持ち悪いもの、本当に食べるだろうか。
いや実際食べたのだが。
しかし正体を知ってしまったものが、何の抵抗もなく口に運ぶとは思えない。
旨いからと言って、この醜悪さは受け入れ難い。
「ふむ」真一の言葉を聞いた天堂は髭をもしゃもしゃした。そして「『殺すことに抵抗がある』のと『食べることに抵抗がある』のでは大違いだ」と言った。
「どういう意味です?」
「きみが先ほど見た愛らしい生物は、厳密には食べることに抵抗があるのではなく、殺すことに抵抗があるのだ。食べる以前に、そもそも殺すことに辿り着かないことを、私は危惧している。しかしこの生き物、仮に『生きたシュールストレミング』としよう」
「……酷いこと仰る」
「『シュール』は、食べることに抵抗があるのであって、殺すこと自体に抵抗はないのだ。同じような問題でも、根っこの方ではまったくの別問題だ。そして自らの手で殺すことの出来る相手に、人間は支配されることはない」
「殺し辛いのではなく、食べ辛いだけ……」
つまり可愛いものは生きる権利を認めて、醜いものの生きる権利は認めないということだ。人間とはなんと身勝手な生き物だろうか、真一は思う。
「そうは言うけどねきみ、例えば『シュール』が、自分自身その醜さを自覚していたらどうだろうか」
「どういう意味です?」
「殺される方も、人間の身勝手を受け入れているとしたら、どうだろうか。こいつも勿論私の手でバラしているんだけどね、彼らは殺されることを是としているのではないかと、思うことがしばしばあるよ。……『シュール』はね、殺される時に笑うんだ」
屠殺場では、たまにある現象だ。それは『電気ショックによる筋肉の痙攣』と言うのが通説である。通説であると人は信じる。
『シュール』にも同様の現象が見られる。血を抜くため、心臓が動いたまま命を奪われるのだから、そういうこともあろう。醜悪な己の姿を生き辛く思っていたわけではない。生まれたことを後悔して、生からの解放を喜んでいるわけでもない。純粋に人間の血肉となることを栄誉としているわけでもない。
「……そんな生き物を殺せるんですか?」
「きみはサディスティックかな?」
「いえ……そういうわけじゃ無いですけど……「殺すな」と言われるよりも「殺せ」と言われた方が殺し辛い気がするんです」
天堂は真一の言葉を聞いて何故か愉快そうだった。その笑顔は嫌悪を催す類いではなく、悪戯の成功した悪ガキのようである。
「あまのじゃくもまた、人間というものだね」
○
天堂はまだ真一を連れ回すつもりであるらしい。ガラス張りの廊下は抜けて、また元の薄暗い通路を歩く。その道中での会話である。
「きみは、魚を捌くことに抵抗があるかい?」天堂はたずねた。
「いえ、あまり」真一は後ろから答える。
「うむ。なんせ小学校の調理実習でやるぐらいだ。蛙の解剖は駄目なのにね。魚は素手で三枚におろす。猟奇的だね。魚を釣ることにも人類は抵抗がない。かぎ針を生きたまま口の中に放り込むんだよ? それが犬猫だったら、口さがない連中が黙っちゃいない。子どもだろうと大人だろうと、我々は魚類に容赦ないんだな。無感動と言っても良い」
「ぼくは魚釣りは嗜まないので何とも言い難いですが『キャッチ&リリース』は偽善的です」
「貴族の遊びだね」
ハンティングの方がまだ健全であると、真一は思う。娯楽のために生き物を傷つけて弱らせて『半死に』してからしたり顔で野に放つ。殺す方がよっぽど人道的である。しかも野生に帰すことが贖罪の意味を持ってしまうのが、気に入らなかった。罪悪感が薄れるならまだしも、さも良いことをした風なのも不愉快である。
「一説には鳴き声の有無というものがある。大声を上げる生物は殺し辛い」
「……」
「あとは感情の有無。この場合有無というのは、有るか無いかではなく、人間に気持ちが伝わるかどうか、だ」
「……」
声をあげて、気持ちを伝える。人間同士でも難しいことだ。真一はなんだか無性に魚に同情してしまった。
「要するにね人間に近ければ近いほど、殺し辛くなるってことだと思うよ、私は」
「待ってください。しかしぼくが聞き齧った知識では、人間を最も殺す生物は人間だと聞きます。ならば人間に近づけば近づくほど、殺し易くなるはずだ」
「矛盾はしないよ。人間を殺す連中ってのは、別に人間を食べるために殺しているわけじゃない。中にはそういう奴も居るだろうけど、大量に人間の命を奪う連中は、自分が殺している自覚も感触も無い輩が殆どだ」
「つまりあなたは……先ほどの二匹が、人間に近いと言うのですか?」
天堂は答えなかった。しかし言葉は止まらない。
「感情と言ったけど『喜』と『怒』は非常に分かりやすい。これは人間相手にも同様のことが言える。ただ『哀』と『楽』に関しては、非常に分かり辛い。そしてこれも人間相手に同様のことが言えるが、言葉が無い分動物の方が格段に困難だ」
動物は喜べば跳ねるし、怒れば吠える。だが哀と楽は、どうやって表すというのか。もしかして自然界で生きる上で、哀楽は不要なのかもしれない。真一は考える。
「きみに見せた先ほどの二種類の生き物は、『哀』と『楽』が人間に伝わりやすいんだ。確実に伝わると言っても過言ではない。だから、殺し辛い」
ペットを愛好する人物は真贋は定かではないが、
「……なんでそんなもの作っちゃうんです」
「なっちゃうんだ。肉質とか飼いやすさとか優先させると。私だって普通が一番だよ」
そう言い終わると同時に、天堂は足を止めた。目的地。また扉。開店前のパチンコ屋みたいなシャッターがおりている。アナログにも、天堂はそれを素手で開けるべく解錠した。真一も手伝って二人で思い切り持ち上げる。
「でも最後の一匹は、変な特性を持っていない。普通の生き物だよ」
○
最後に真一が連れて来られたのは、牛小屋だった。と言っても牛を育てているわけでは無い。おそらく建設段階では、紛うことなき牛小屋だった。一頭一頭スペースが確保され、まるで動物のカプセルホテルのようである。その中に動物たちがずらりと横並びになって居るが、牛ではない。
「……ここは神々の遊び場か」真一は呟いた。
正確には牛とも豚とも呼べないような、牛とも豚とも呼べるような、二つのハイブリットのような生き物が鎮座ましましていた。先ほど見た生物同様に、初めてお目にかかる生き物である。だが先の二頭が、生物らしかぬ様相であったのに対し、こちらは不思議と動物として認識出来た。そして一目で、アレを食べることは抵抗が無いと思った。
「嘘は言っちゃいけない。……残した癖に」
「残したのは悪かったと思います。しかしとても人間の食べるもの、いやそもそも食べ物かどうかも怪しい。酷い味だったんですから。ーーって、え?」
「この生き物は突然変異というか、予想していない成果だった。棚ぼた状態だねうん。こいつの肉は、人間の体内に入ると余分な栄養、例えば脂肪と結合して、足りない栄養に化学変化する。つまりね、痩せながら健康になれるんだ。体調の悪い者が食べれば一発で健康を取り戻す。まさに万能ビタミンなのだ」
やたらと誇らしげに天堂は語った。先ほどまでの生物は、どこか自信が無かったが今回は完璧だと言いたげである。
「にも関わらず、当研究所の研究員たちは誰も食べたがらないのだ!」
「一応確認しますけど……『あの肉』ですよね」
「あの肉だよ」
あの味が蘇る。思い出したくない味である。未だに吐き気がした。
「唯一の弱点はご存知の通り」
「またそれだ!」
「不味いんだ」
「致命的だ!」
「しかし次の日には健康になるんだよ?」
「だとしてもです。あの味ならば、当たり前です」
言い放つ真一に、天堂はややむっとした表情を作った。
「可愛いかったり気持ち悪かったりで、殺すことや食べることに抵抗があるのは、分かるよ、人間だもの。でもこの姿はどうだい。食べちゃうのが惜しいぐらい、食べやすかろう?」
「何度も言いますけど、味です。美味しいものを多くの人間が食べるように、美味しくないものは食べんのです」
「『味覚』とは謂わば、ある種の嗜好品であり、言ってしまえば熱量を獲得する上で、必ずしも必要では無い。私は人間特有の感覚だと思うけどね」
「人間特有の感覚の、何が悪いと言うのです。人間万歳!」
「それは人間である前に、動物なのかい?」
「……どういう意味です?」
「動物は旨いから食べているのではないよ。体に害が無いから食べているんだ。味覚とは、体に害があるかどうかを本能的に食べ分ける、言うなればセンサーに過ぎない。旨味は二の次だ。まあ、あくまで感覚だから、たまに間違えるけどね。しかし彼らは、おそらくあと何千年も味覚に頼り続ける。何故ならそれしか方法が無いからだ。
一方人間は、食の安全を知る方法を幾らでも持っている。私が私の実験動物たちを安全と宣うのも、気恥ずかしい話だが、それでも保証出来る。
だと言うのに食べない。きみが私を疑うと言うのなら分かる。「当たり前」だとか「致命的」だとか、酷いことを言うのも無理からぬ話だ。初対面の人間だもの。しかし同じチームの仲間に、こうも嫌厭されてしまうとやるせない。口に入れることに抵抗がない。その上体に良い。にも関わらず食べない。……悲しいよ。
私が人間特有の感覚と言ったのは、センサーとしての役割を捨て、旨味を最重要事項と勘違いすることだ。まあエネルギー補給を促す原動力になるわけだから、頭ごなしに否定するわけではない。私だって旨いものは食べたい。だが間違えてはいけないのは、味に振り回されること。私はそう思うよ」
それは退化ではなく劣化だと、天堂は続けた。旨いもの=高エネルギー、という安全神話は既に終わりを告げた。旨いもので溢れている時代に、それは逆に毒となって人類に牙を剥くこともある。そして不味いもの=悪では無い。考えてみればそれは当たり前だった。子どもの頃野菜を残して、母に叱られた記憶。誰もが持つ在りし日の光景が蘇るが、郷愁に浸っている場合ではない。天堂は、その母と寸分違わぬことを言っているだけなのだから。
『好き嫌いするな』
彼の長ったらしい言葉は、要約してしまえばその一言に尽きるのである。
「なんか、その、すいません」真一は、鬼の首を取ったように教授をこき下ろした自分が恥ずかしくなってきた。
「いいさ。所詮満足のいく結果が得られなかった研究者のいいわけだ」天堂は、いいさと言うわりには寂しそうに、動物たちを見ていた。
「でも非常に申し上げ辛いのですが……」
「うん」
「……あの味じゃ仕方ないですよ?」
「そうだね」
おそらく天堂が意地になってまで、このクソマズい肉を推すのは、自分の研究だからという理由だけではない。彼は研究者と言う立場だからこそ、同じ研究者
を思い遣っているのだ。体が資本でありながら、不規則な生活リズムが要求される研究職。言うなればそれは、研究者のための研究である。
「改良の余地はあるけどさ」天堂は自嘲する。「これはもう私の性格というか性質というか、最早『そういう風』にしかならないような気がするよ。うん、だから他の道を模索した方が良いね。健康食とか。成分だけ抽出して、カプセルの中に詰めて、水と一緒に飲む。午後のロードショーの間にCMを挟んだりしてね。……私が望むのはそういう所では無いんだけどなあ」
天堂はヤツに話しかける。
モーともブーともつかない声でソレは鳴いた。
○
次の日、天候は見事に回復しており空は快晴だった。昨日の遭難が嘘のようだが、真一の身長を優に超える積雪は紛うことなき真実だ。
天堂が愛車で送ってくれると言うのでソレに乗り込む。年代物のスバル360。テントウムシが雪道に、勇猛果敢に頭から突っ込んで行く。朝の内にある程度雪かきは終わっているとは言え、こんな悪路を廃車寸前のレトロカーで大丈夫かと心配になる。ただ天堂曰く、どうにも中身は別物のようだ。車体で雪をかき分けるようにして、薄緑色の甲虫が進む。
天堂は慣れた手つきで、愛車を転がす。助手席から真一は、その円熟の域に入った技術に見とれる。ペーパードライバーになってから久しい彼が、同じような運転技術を習得するのにあと何年かかるだろうか。考えれば考えるほど、命がいくつあっても足りない。
「勝手に名刺で確認させて貰ったけど、きみの会社は食料品メーカーだと言うじゃないか」天堂は、ぼーっとする真一に話しかける。
「ええまあ」
「これも何かの縁だからさ。力になれることがあったら連絡してくれ」
「はあ、どうも」
天堂は運転の片手間に名刺を差し出した。真一は受け取る。そこには『北海道畜産研究所 天堂 茂』と書かれていた。自分の名刺も差し出すべきかなと一瞬考えるが、止めた。悪印象を与えかねないが、むしろ悪印象ぐらいで丁度良いと
思った。第一こっちの素性は、向こうに筒抜けである。
「……」
「……」
無言の車内。どこまでも広大な雪原が続く。代わり映えのしない景観。ともすれば眠くなってしまいそうだ。昨日は色々とショッキングな出来事が多すぎて、体は睡眠を求めているものの、頭の中では何かがぐるぐると常に回っていた。その眠気が今になってやって来たのである。寝てしまおうか。しかし人によっては同乗者が寝るのを大層嫌がる。おそらく天堂は昨日あの後徹夜で調べものをしていたようだ。そんな極限状態の初老に、鞭打って車を走らせているのだから、小話の一つでも披露して、清々しい一日の始まりに、一服の清涼剤を……と、うとうとしている時、その光景が目に飛び込んで来た。
(雪の中で何かが蠢いている……?)
豪雪の中たくましく、何かの動物が数匹で戯れていた。
「豚だね」正面を見据えたまま天堂は言う。「生まれたばかりの子豚だ。豚は年がら年中発情しているから、季節などおかまいなしに産まれる」
「豚……」
言うまでもなくその姿は愛らしく、まさかアレが丸まると太って人間の胃袋へ落ちる姿など想像も出来なかった。無論自分の胃袋は見えないので想像のしようがないが。
しばらくして今度は社内に酷い臭いが広がった。鼻が曲がりそうな臭いである。普段ビルとビルの間を駆け抜ける真一には、耐性の無い臭いだ。
「肥やしの臭いだね。雪だろうと何だろうと、辺りのもの全てに臭いが染み付いているから」
牧場が近いのだろう。窓は閉め切っているはずだが、そんなこととは関係なくあっという間に車内に臭いが充満する。思わず窓を開けてしまうが、半分ほどで外の方が臭うことに気付いた。しかし時既に遅し、臭いばかりが極寒の冷気が男二人を包み込んだ。
(この臭いが肉や野菜を育む元となる。ひいては人間も育てるのか)
真一は思う。
もしかしたら人間の食事は、生きることと関係ないのかもしれないなあ。
「天堂さんは、心から、人類の繁栄を願っているんですよね」
窓の外を見ながら、当たり前のことを彼はたずねた。
天堂は言う。
「さて、どうだろうね」
了