ヤルタ会談
1945年末、ソ連のヤルタで行われた英米とソ連の首脳会談の結果です
1945年も暮れようとする頃、ソ連は英米に対して、大陸反攻作戦の開始をせっつくために、ソ連のヤルタでの首脳会談を要求した。
英米はすでにソ連の核反応兵器技術のスパイ行為を探知している段階であり、ソ連に融和的だったルーズベルト大統領に変わってトルーマンが大統領として、チャーチルと共に会談に臨んだ。
英米は事前に、二国間協議にて、フランス沿岸付近から、東部戦線にさらにドイツ軍が抽出され、いわゆる「大西洋の壁」が弱体化されるまでは、大陸反攻はしないと決定していたのである。
先のブレストを巡る戦いで、英米軍もドイツ軍の空軍及び海軍戦力の侮り難いことを再度認識させられたからでもある。
また核兵器関連技術をスパイしていることから英米からは、ソ連にさらなる兵器技術の提供はしないことも、事前に協議した他、以前話し合われた、「極東でソ連が参戦する件」は、日本がすでに大陸から撤退していることから、戦略的意義が薄れたばかりか、単にソ連が領土拡張するだけの危険から、容認しないとなっていた。
英米が最初からソ連と妥協しない対応を見せたために、会談は嫌味と、当て付けの応酬に終始したと、機密解除された報告書は述べるほどであった。
対ソ連の援助物資が削減されたり、またソ連が求めた中東経由の補給が北アフリカの戦況悪化から断念されたことから、ソ連も以前から英米に不満を持っており、さらに今回の会談での「ゼロ回答」は 完全に英米対ソ連の構図を作ってしまったのである。
怒ったスターリンは、英米とは縁を切り、いまだに粛正の影響で指揮系統の混乱している赤軍に対して再度の東部戦線での攻勢を命じたのであるが、さすがに準備が整わない中での攻撃命令には、赤軍内部でも水面下での反抗が起こり、さらに今回は取り締まるべきNKVDすら、一部に同調する気配すら出てきたのである。
これは彼らNKVDが突然、天使になった訳ではない。
様々な情報を集めている立場として、現段階での無謀な攻勢は一時的な勝利は収めても、補給難などから、勝利はおぼつかないと理解していたのである。
また作戦が成功しない場合に想定される政変など考えた場合、万が一現体制が崩壊した場合、次に粛正されるのが自分たちだと理解していることもあった。
ヤルタ会談は第2次大戦の戦後を決める重要な会談となったのである。
決裂といっても良い内容ですが、これが第二次大戦の方向を決めることになりました。




