お帰り、きーちゃん
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TERCES(仮)での帰り道────
海城駅を後にした斬鵺と兎雪は、行きに斬鵺が勢いよく駆け抜けた坂道を、今度はひたすら上り詰めていた。
道中は、着物姿で移動が大変な兎雪のペースに合わせながらのため時間が掛かる。
所要時間40分ほどが経ったところで、ようやくTERCES(仮)の建物が二人の視界に入る。
春空の日は陰り、建物が立ち並ぶ通りに比べ街灯も少ないため、建物の外観には影が堕ち、内から照らされる光が際立った淡い不気味さを帯びていた。
二人は玄関の戸の前に立ち、斬鵺はその取っ手に手を掛ける。
戸を横に引くもその滑り心地は何とも悪い。
だが、そんなことは今に始まったことではないと、斬鵺は気に留めることもなくそのまま歩を進め、その後をアヒルの子のように兎雪が続く。
「ただいまぁ」
斬鵺にとっては本日二度目の挨拶。
その気怠さは一度目の時よりも増していた。
すると、その声を聞き付けダイニングの方から足音が二人のもとへと近づいて来る。
「お帰り、きーちゃん」
颯爽と二人の前に現れ、笑顔を振り撒くエプロン姿の少女。
斬鵺のことを“きーちゃん”の愛称で呼ぶ彼女の名は、雲雀星蘭。
甘栗色の長髪を右にまとめたサイドテールが彼女のチャームポイント。
背丈は160センチ前半と、女子の平均身長よりやや高め。
斬鵺と違いスポーツ万能の彼女の体は、引き締まった細くも芯のあるしなやかなボディーラインを描くだけでなく、胸元は涼風にやや劣るものの、柔らかく膨らんだラインを服の上から浮き立たせていた。
「涼風ちゃんから話を聞いて、帰りが遅いから心配しちゃったよ」
「そのガキ扱いするの、もう辞めろよな……あ、こいつは雲雀星蘭。一応、俺の一つ上」
そう言って、斬鵺は星蘭を兎雪に紹介する。
自分の一つ上と口にしながらも彼の口調がタメ口なのは、二人は幼馴染み的関係にあるからである。
だが、現在受験期の斬鵺の一つ先輩である星蘭の現状は、受験に失敗し大学には通っておらず、寮内で浪人生活を送っている。
そのため、最近は二の腕や太股のお肉を気にするといった一面を見せている。
「どうも初めまして、雲雀星蘭です。あなたが兎雪ちゃん?」
「は、はい」
「かわいい!お人形さんみたい……でも、どうして着物姿?」
「ブッ────」
星蘭と兎雪が会話するなか、星蘭の最後の一言にその場に居合わせた斬鵺は思わず吹き出してしまった。
兎雪が着物姿であることへの疑問は斬鵺も持ち合わせていたが、敢えて目を逸らし問い質すようなことしなかった。
だが、星蘭はそれをオブラートに包むことなく、自ら地雷を踏みに行く暴挙に出たためである。
これに対する兎雪の反応に自然と意識が向く。
「これは…今日の入寮式に向けて、ちょっと意気込みをと思いまして……」
自分の服装に一通り目を通すと、兎雪は少しばかり長めの袖口から両手を覗かせ、小さくガッツポーズをして見せた。
蓋を開けてみれば、それは何とも純粋な少女の気勢だった。
だが、彼女は至って真剣な眼差しで訴え掛けるなか、斬鵺は胸の内のフラストレーションを発散させるかのように胸の内でツッコミを入れる。
(入寮式に着物って、どんな大層な式だと思って来たんだ……入学式や卒業式で保護者の目を気にして派手な着物姿してくる先生じゃなんだから……)
少女の純情さに水を差すような色味のない言葉。
その自覚を持ち合わせている斬鵺は、決して口にすることなく胸の内に仕舞い込むも、自然と手は額に添えられ頭を抱えていた。
そして、彼には類似の感想が欲しかった。
同意を求めるように兎雪へ質問を投げ掛けた星蘭に斬鵺は視線を送った。
「何この子、天使!!!」
斬鵺の予想とは相反し、星蘭の心は目の前で着物に袖を通す天使へと心を奪われてしまっていた。
そして、歯止めの利かない衝動に身を任せ、彼女は素足のまま玄関へ降り、兎雪に抱き付き始めた。
「この子可愛すぎ、ぎゅ~ぎゅ~」
「え、えっと、ちょっと、あの……」
「へへ、肌もモチモチだ」
初対面の少女に対して星蘭は勢いよく抱き着く。
二人の白く柔らかい頬と、服の上から凸出した胸元が色っぽく触れ合う。
突然抱き着かれた兎雪は、目を丸くし頬を朱色に染めていた。
その反応は、海城駅で突然彼女に抱き着かれた斬鵺と同じ反応だった。
暫く二人だけの時間が続く。
そんな時、ダイニングの方から声がした。
「おーい、星蘭ちゃん鍋に火掛けっぱなしだよ……」
姿は見えないがその声は、夕方一度会った弥鶴のものだと斬鵺には分かった。
「はっ!?」
ふと我に返ったかのように星蘭は大きく目を見開く。
先程までの緩んだ表情も消えた。
「鍋、ですか?」
ダイニングから届く声に会話の趣旨を読み取った兎雪がそっと呟く。
「そう、今日は兎雪ちゃんのために鍋パーティーを開くから早く上がって上がって……ほら、きーちゃんも」
「ああ」
星蘭の声掛けに斬鵺は生返事を返す。
「じゃあ、私ちょっと先に行ってるね」
そう言って、星蘭は一足先にダイニングへと戻る。
兎雪は自分のキャリーケースを転がし、草履を脱ぐ手前まで移動させる。
草履を脱いだ後、一度振り返り右の袖を捲って手を伸ばし、脱いだ草履の踵を揃える。
「よいっしょ」
彼女の華奢な細腕で重みのあるキャリーケースを持ち上げる。
流石に床にローラーを付ける訳にはいかず、彼女はキャリーケースの取っ手を掴んで持ち上げるがどうにも不安定だった。
「ほら、持つよ」
後から上がった斬鵺はそう言って助け船とばかりに彼女からキャリーケースを奪う。
「す、すみません」
「いや、こっちこそ悪いな、色々騒がしくて……」
「いえ……星蘭さんが破天荒なのはいつものことでしたから……」
「えっ?」
斬鵺は彼女の発言に耳を疑った。
彼女の口ぶりは、まるで星蘭を知っているかのような言い草だったからである。
「はっ!?……こほん、すみません少し口が滑りました。忘れて下さい……」
口元を手で押さえ、一瞬焦りの表情を見せる兎雪だったが、一度の咳払いと共に誤魔化しの言葉を口する。
柳楽兎雪という少女の口振りには、些か癖があることに斬鵺は気付いている。
だが、その真意を何処まで追求するべきか、そのハードルが彼には見えていなかった。
「さて、行きましょうか兄さん」
一連のやり取りを払拭させるかのように、兎雪は一足先を行く。
「あ、ちょっと待ってくれ!」
「はい?」
先を行く兎雪を斬鵺は不意に呼び止める。
唐突な彼のこの行動には、流石に兎雪も疑問の声を漏らす。
────一つだけ、俺もお前にお願いしたいことがあるんだけど
その一言が廊下に響き渡った刹那、兎雪は身を震わせた。
瞳孔が開き、黒目が一点に定まらない。
口元も少し口寂しそうに小さく動かす。
だが、この後の斬鵺の願い事は、兎雪にとって全くの杞憂に終わる────