柳楽兎雪と言います
◆◆◆ NEXT ◆◆◆
腕時計の時刻は5時と数分────
駅広場の時計は4時55分────
自分の付ける腕時計に5分急かされて斬鵺は海城駅に到着した。
TERCES(仮)から自分の足任せで坂を下り、麓から吹き上げる向かい風に抵抗しながら走ること約5分間の激戦。
所要時間はほんの僅かだが、逆に言えば体力を消耗させて所要時間を圧縮したとも言える。
お蔭で彼の息は肩を上下させて呼吸するほど荒れ、まだ肌寒い春風が吹く最中、額に汗を浮かべる。
手に握る書類も風と反発する握力で皺立っていた。
すると、駅の方向から列車が発車する音が聞こえた。
線路との間のつなぎ目を車輪が通ることで刻まれる列車特有の音が何よりもの証拠だった。
そして、落ち合う時刻と近似していることから、今駅を出た列車に写真に写る少女が乗っていると斬鵺は直感的に察した。
駅の前で項垂れながら呼吸を整え、いざ斬鵺が駅構内に足を踏み込むと、先程の列車に乗っていた乗客、主にスーツ姿のサラリーマンの群れが改札口を抜け一気に彼の元へ押し寄せた。
ここ海城駅は、一般的な鉄道路線に加え、上階では新幹線も通る大型駅のため、通勤・帰宅ラッシュ時は正に荒波状態である。
人の流れに逆らうことも虚しく、駅構内を目指す斬鵺は結局出入口へと押し戻されてしまった。
そして、さらに体力を消耗したばかりか、手に握り締めていた書類も何処かへ落としてしまった。
「やべぇ!?」
彼は胸を強く締め付けられるような感覚に見舞われ、一瞬寿命が縮まったと錯覚するほどだった。
書類に書き記されている内容には、これから落ち合う少女が異能力者である文脈も含まれているため、彼は必死になって辺りを見回した。
次第に人数が減り視界が開けるも肝心の書類が見当たらない。
焦る斬鵺────
額から頬を伝う汗は次第に冷や汗と変わり、顔色も優れず焦りの表情だけ滲み出ていた。
「もうダメだ」
彼は挫折する────
周りの視線も憚らず両膝と両手を地に着け、四つん這いの状態で彼は倒れ込む。
春の肌寒い風が周囲に咲く桜の花弁を運ぶ。
彼の瞳は完全に折れていた。
だが、それでも天は彼を見捨ててはいなかった────
「大丈夫、ですか?」
その声は公衆の面前で恥ずかしくも項垂れる斬鵺へと投げ掛けられたものだった。
一瞬身を震わせ、後方から投げ掛けられるその声に斬鵺は両膝を地に着けたまま上体を起こしそっと振り返った。
彼が振り返ると、その視線の先には一風変わった少女の姿があった────
雪のように真っ白な白銀の髪を後頭部やや低めの位置でゆるふわの団子に整え、桜模様が際立つ着物に袖を通した少女。
背丈は150センチ後半ほどで、木目の細かい白い肌に、触れれば壊れてしまいそうな華奢な体型。
重ね着をする着物により絶壁にも見えるが、胸元には確かに華奢な体型から膨らむ曲線が伺え、顔立ちはまだ童顔である。
夏祭り、或いは初詣や成人式と言ったイベント事の衣装かと思い違うほど気合の入った着物姿に、手には水色のキャリーケースの取っ手を握る彼女は、この場において目を覆いたくなるほど浮き彫りになっていた。
だが、そんな彼女に野暮を吹き掛ける以前に斬鵺は微動だにすることなく、彼女に見惚れてしまっていた。
桜が舞い散る空間で時が静止しているかのような錯覚に見舞われる────
だが、静止していたのは紛れもなく斬鵺の思考の方だった。
「あのー、大丈夫ですか?」
「えっ?……あ、ああ」
再三の忠告でようやく斬鵺は反応を示し、膝に付いた汚れを払いながら立ち上がる。
「何かお困りごとですか?」
同情の瞳と共に胸元に当てていた右手を、今度は軽く口元に近づけ首を傾げて尋ねるその無意識な仕草は斬鵺の心をくすぐった。
「えっと、ちょっと大事な書類を落としちゃって……」
(何処の会社員だよ!!)
徐に彼は一人ツッコミを入れる。
これは理性を保つための斬鵺なりの手段だった。
目の前の少女と会話をするも、斬鵺は無意識のうちに彼女と視線を合わせることを避けていた。
「その書類って、もしかしてこれのことですか?」
妙な緊張で口数が減っている斬鵺に向かって、少女は左手に握るキャリーケースの取っ手と共に数束の紙を握っており、それを斬鵺へと差し出す。
彼女がその紙の束を握り締めていたことに今の今まで斬鵺は気が付かなった。
彼女は斬鵺にも見えるように皺立った紙の束を地面と平行に倒した。
そして、彼女から渡された紙の束は、紛れもなく斬鵺が探していたものだった。
「あっ、それ!!助かった、ありがとうございま、す……?」
彼女から書類を受け取り、内容にもう一度目を通す過程で斬鵺はある違和感を覚える。
それは、書類の片隅に載せられた少女の写真に見覚えあったことだ。
否、見覚えができたと言った方が正確だ。
それもこの短時間の間に────
書類に載る少女の写真と、今目の前にいる少女の顔を斬鵺は何気なしに見比べた。
すると、その違和感はすぐに解消された。
「もしかして君……」
斬鵺の口は緊張という枠を超えて自然と開いていた。
「はい、今日からそちらのTERCES(仮)でお世話になります、柳楽兎雪と言います」
そう言って柳楽兎雪は、右手の上に左手を前で重ね、慇懃な佇まいで斬鵺に一礼をする。
その背景は、夕暮れ時の日に照らされながら春の桜が舞い散り、着物姿に身を通じる彼女を華やかに演出した。