────やっほー、お姉ちゃん
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やや小走りで駆け込んだからだろうか、それとも緊張しているからだろうか────
ラピスは額に僅かな小汗を浮かべ、会場1階フロアのフロントへ赴いた。
「はい。では、黒崎様のお部屋は1階の110号室になります。リハーサルの時間になりましたら、スタッフが呼びに伺いますので」
「はい、分かりました」
出席確認を済ませると、ラピスはフロントに佇む女性スタッフからの指示に従い、指定された部屋に向かって廊下を突き進む。
1階フロアの廊下を歩いて10部屋目────
指定された110号室の前に立つと、ラピスは肩に掛けるドレスカバーを一度背負い直す。
手に持つ譜面を握る手にも自然と力が入った。
そして、緊張した手で彼女はドアノブに手を掛けようとした。
しかし、ここで彼女の脳裏にふとした疑念が過る。
それは本当に些細な疑念だった。
(そう言えば、部屋の鍵を渡されなかったけど……)
部屋の鍵を渡されなかった。
鍵が掛かったままだとすれば部屋に入ることができない。
だが、そんなことは自分の手で確かめればいいだけの話だ。
ラピスは、ドアノブに手を掛けゆっくりと回す。
ドアは蝶番を軋ませ、ゆっくりと開き、彼女の疑念は杞憂に終わった。
刹那、彼女の抱いていた疑念にも晴れ間が射す。
「失礼します」
疑念は晴れても緊張は拭い切れないまま、ラピスは部屋の中へと足を踏み入れる。
部屋の中に入った彼女は直ぐ様荷物を置き、衣装に着替える予定だった────
「────ッ!?」
部屋に入り込んだ矢先、思わずラピスはその歩を止めてしまった。
部屋の中に、身知った人物が先客として招かれていたからだ────
とてもよく知っている人物だった。
彼女の方もラピスのことを凝視していた。
この事態に────
ラピスは息を呑みはしたものの、酷く動転するほどではなかった。
予知でもなければ、決して期待などでもない。
ただ、フロントスタッフから部屋の鍵を渡されなかったという事実と、予め得ていた情報から頭の片隅に過った“イフの可能性”────
その“イフの可能性”が、現実となってしまっただけのことだからだ。
ラピスの部屋に居座る彼女は、ラピスと似た容姿をしていた。
似た容姿に似た髪色だったが、部屋に居座る彼女の場合は、髪の長さをショートヘアに切り揃えていた。
そして何より、二人の決定的な差異は、その胸囲格差社会にあった。
衣服の上から全くもって反発力の感じないラピスの胸元に対し、彼女の方は、身に纏う紺碧のドレスが胸元で大きな曲線を描いていた。
その体付きに、ラピスは因縁を付けるかのような鋭い目付きで対抗する。
そして、ほんの僅かな静止した時間を共有した後、彼女の方からラピスに声を掛けて来た。
「────やっほー、お姉ちゃん。久しぶり、元気してた?」
ラピスのことを“姉”と呼称する彼女────
ラピスの実の妹である黒崎・マリーネ・ラズリは、満面の笑みを浮かべ、親しげに手を振る。
姉妹でありながら離れて暮らしているため、二人はこの場で久しぶりの再会を果たしたことになる。
だが、その再会を妹のラズリは喜んでいる傍ら、姉のラピスはやや拒んだ。
「ひ、久しぶり……あんたも、この部屋って言われたの?」
「うん、そうだよ。お姉ちゃんも参加するって聞いて、久しぶりに会えると思ったらワクワクしちゃって」
「そう……」
歯切れの悪い返しだった。
ラピスは神妙な面持ちのまま部屋の中へと入り、テーブルの上に荷物を置き、ドレスカバーを広げる作業に無言で移る。
息苦しい空気が部屋を圧迫する。
神経に無駄な力が入り、精神的に疲弊仕掛ける。
そんな空気の中、姉の姿を鏡越しから見たラズリは、再びラピスへ話し掛ける。
「お姉ちゃん!お姉ちゃん!!髪飾り付けるの手伝って!」
甘え上手な声に呼ばれ、ラピスが反射的に顔を上げると、鏡に映る自分と睨み合いながら、一生懸命髪飾りを付けようと奮闘する妹の姿があった。
「はぁ……」
ラピスは思わず溜め息を溢した。
“自分でやりなさい”と突き放す選択肢も脳裏を過る。
だが、”一人の姉”として生まれて来た嵯峨というやつだろう────
“年下の世話を焼きたい”という母性が、彼女の脳内選択肢を厳選して行く。
「しょうがないなぁ……」
相変わらずラピスの口からは溜め息が溢れる。
だが、それでも彼女はラズリの背後に立つと、まずはヘアアイロンで髪を再度整えた後、妹の手から髪飾りを奪い、鏡越しに映る彼女が、最も可愛く見える位置に髪飾りを添えて行く。
「はぁ、あんたも女の子なんだから、もう少しこういうことには関心を持たないと……」
「わあ~、ありがとうお姉ちゃん」
ラピスからのお説教など今のラズリには興味の外だった。
彼女はただ、今目の前に起きた事実に夢中だった。
そんなタイミングを見透かされていたのだろうか────
部屋をノックする音が110号室に鳴り響いた。
「ラズリ様、リハーサルの準備が整いましたので準備の方をお願いします」
「はーい」
スタッフからの声掛けにヒズリは活気溢れる返事で返した。
「じゃあまた後でね、お姉ちゃん」
そう言ってヒズリは譜面を手に取り、紺碧のドレスを揺らしながら部屋を後にした。
ラズリが部屋を去った。
だが同時に、妙な静けさが部屋に残留する。
彼女の声がまだ耳に残ったまま訪れるこの静けさは、幾度となく見たあの悪夢の情景を思い出させる。
その度────
先程は押し殺していた彼女への反骨心が覚醒し、ラピスは今一度自分の置かれている立場を再確認する。
怒りで消し飛んだ雑念が冷静さを帯びると、再び彼女の心に深い根を張った。
複雑な感情が脳内で入り組み、そして激しく迷走する。
複雑怪奇な感情が、立場が、責任が、彼女の神経に亀裂を入れる。
そして、彼女はまた瞼から涙が零れそうになった。
姉の名前がラピス、妹の名前がラズリ
これは、人類が利用した最古の鉱物(宝石)と言われている、”ラピスラズリ”に由来します。
この二人のキャラの両親は当初、宝石店を営んでいるという設定で考えていたので、名前も宝石に因んだものにしたいなと……ただ、ラピスラズリが最古の宝石というのは最初知らず、ただ聞き覚えのある宝石が頭に浮かんだので、検索してみましたら(ry
もう即決定でしたねwww