09 悲劇じゃない
9話です。あとラストワン。
◆
雪は全てを埋め尽くすくらいに広がっていて。
止まらない。
始まってしまったら終わらなくて。
触れてしまったら生きていられない。
吐く息は白く。そしてまた雪も白く。
それも全て、人間のせいだと。
人間が始めたことで、終らない運命だと。
そう充分すぎるくらい分かっていた。
◆
地下鉄の通るトンネルを抜けた先は真っ白な雪で一面が覆われていた。
こんな光景を見たのは初めてだった。
『あの雪は積もることはない』
誰がそんなことを言った。確証もないのに。
全世界に広がった雪が溶けたのおれの周囲だけだったんだろうか。
がっくりと膝をつく。
雪が膝まで来ていたが、肌に触れることはなく難を逃れた。
けれど、もしかしたら。顔を、手を雪に付けたら、おれは死ぬのか。
家族のように、夏目さんのように、みんなのように、おれも苦しんで死んでいくのか。
それでもいいかもしれない。
だってここには、どうせ誰もいない。
みんな死んだ。いや、死ぬ運命だったんだ。
おれは綺麗事ばかり言って、綺麗なものを見て大切なことを忘れていた。
ここには誰もいない。みんな死んでいる。
おれは雪の中に埋もれようと立ち上がって、ゆっくりと歩き始めた。
雪を踏むと、さらさらとしたものが固まって足跡ができた。
この中に飛び込めば、おれは死ぬんだ。
そう思った矢先、ひとみがおれの前に立ちはだかった。
「冗談じゃない。なんてことしようとしてるの。」
怒っていた、すごく。前にも怒っている時はあった。
おれが約束を破ったとき。ひとみの元から勝手に去ろうとしたとき。
けれど、そのときとは比べ物にならないほど怒っている。しかも悲しそうにも見えた。
「あなたはなんのために三年間生き延びたの?
生存者を探すためでしょ。夏目さんのこと忘れていいの? あなたは自分の罪も夏目さんの嘘も受け止めてここまで旅をしてきたんでしょ。
雪が積もっているからってなんなの。
もしかしたら、ここだけかもしれないでしょ。
そんな簡単に諦めないでよ。」
涙目になっているひとみ。
ごめんなさい、と言い続けた夏目さん。
死んでいった両親、周りのみんな。
そして死のうとしたおれ。
なにが正しくて、なにが悪いのかなんてそれこそ検討もつかない。
それでも、ここで諦めてしまうのはだめだとひとみはおれに叫んだ。
三年間磨り減り続けた心がぷちんと音を立てて切れたと同時に、別のものが現れた。
「おれ、一体これからどうすればいいか分からなくなったんだ。今まで自分に嘘をついて旅をし続けてきたけれど……。」
決していいものではなかった。
序盤は、きっと見つかるだろうと考えていた。
次からは段々、ここもいないと流れ作業のようになり。いつの間にかいないことが当たり前となった。
そこからズレていた。いないことが当たり前なんじゃなくて、いることが当たり前だと。
そう思って訪れたところにもやっぱり誰もいなかった。
枯れた世界は信じられないくらい静かで平和だったから、いない方がいいと思うようになっていた。
そうじゃない。誰かがいてこその平和でなければ意味がないのだ。
「分からなくてもいいんだよ。たぶんね。
倒れても立ち上がることが大切なんじゃないのかな。」
怒った顔をしていたひとみも収まり、優しい笑顔で笑いかけてくれていた。
つっかえをなくした胸のあたたかさに目頭が熱くなってきて、ぽろぽろと涙が零れ始めた。
それは止めようと思っても止まらず、ただただ流れ続ける。
ひとみはおれを抱きしめるて、何を言うわけでもなくそっと背中に手を回してくれた。
◆
異変に気がついたのは、その後だった。
ひとみがやけにぐったりとしていて、どうしたものかとぼんやりと視線をひとみの顔に持っていくと、頬から赤色の血が流れていた。
「ひとみ…それ……!」
すぐに嫌な予感は的中した。雪が降っていたのだ。
おれはひとみを雪から守るように全身で彼女を隠した。けれども、それを拒んでひとみはその場に倒れた。すぐ様それを支えようとするけれど積もった雪に背中から倒れて、そして頬にも顔にも雪を浴びてしまっていた。
「もういいよ。どうせ助からないもの。」
「諦めるなってひとみが言ったんだろ!
なら、生きることをやめるな。助からないなんて言うな!」
「そうだった、私がそう言ったんだよね。」
おれはリュックサックから包帯やガーゼやらを全て取り出してひとみの血を抑えようとした。
不思議なことに他の人よりも出血量は少なく、血の出方も穏やかであった。
けれどこのままだったら、ひとみはいつか死んでしまう。血の出ている箇所は少なくてもぼたぼたと水の様に湧き出てくるのだ。
血を抑えるはずのものは全て無駄になった。
「穏やかだなぁ、死ぬときってこんな感じなんだなあ。」
「ひとみ!お前は死なない!」
「嘘だよ。だって私、眠いの。きっと目を閉じたら二度とあなたとは話せない。」
「そんなことない!」
ひとみの背中からリュックサックを下ろして、そしてカプセルに入ったままの花を胸の前で抱えた。倒れたひとみに見えるようにとしたが結局、それでも頭を縦に振って「もういい」と優しく言った。
「私…、本当は寂しかったの。
誰も来てくれないんだもの。三年間ずっとひとりぼっちで、毎日毎日同じ生活をしてた。」
ひとみの声が震え始める。苦しそうにするわけでもなくただ言葉を紡いでいた。
「でも、あなたが来てくれた。
言ったでしょ。みんな友達だって。
新しい友達は、約束も破るし、窓から出て行こうとするし勝手な人だったけれど。
楽しかった。本当に優しい人だから。」
ひとみの白く細い手がおれの頬に触れる。
その手を取って、おれはこくりと強く頷いた。
「強くなれないって嘆いていたし、弱い人だったけれど確かな意思はあったよ。」
「…ああ。」
触れたことなどあまりなかったひとみの手。
冷たくなり始めていた。
「友達が来ないって分かったのはね、本当はもっと前なの。」
「…え?」
「この間まで来てくれていて、突然来なくなったから。初めは、私がなにか悪いことをしたのかと思った。でも誰も連絡をくれない。
病気になったのかとも思ったし、遠くへ引っ越したのかとも思ったの。みんな私にはなにも言わないで。でも、それは全部違ったの。」
優しい笑顔を作っている顔に、ひとたびぽたりと涙が落ちる。おれのものなのか、ひとみのものか。その答えを探っているうちにひとみは言葉を震えながらも続けた。
「みんな、この世界からいなくなってしまった。私だけをおいて。
いつまでも私にさよならを言いに来ることもないまま……いなくなって、しまったんだね。」
ひとみの目から涙が溢れていた。初めてひとみが泣いているところを見た気がした。
水晶のような透き通る光が太陽に反射して、ひとみの頬を伝って行った。
「これが、喜劇ならどれだけよかったのでしょう。最期の時には皆笑いながら起き上がる。
そんなものならどれだけ幸せだったでしょう。」
聞き覚えのあるフレーズがして、ハッとした。
ひとみはおれが聞かせた詩を詠っていたのだ。
「けれど笑いは起きないただの悲劇でした。」
これは悲劇だった。笑いは起きなければ、誰も起き上がったりもしない。
その証拠に、おれは笑ってないし、ひとみも起き上がらない。
「そんなことないよ。これは悲劇じゃない。」
そう思った矢先に、ひとみは笑顔で言い放った。
まるでおれの心を見透かしたように。
「だって、私は泣いてない。」
はっきりとした口調だった。
初めて見たと思ったひとみの涙はおれのもので、ひとみは泣いていなかったのだ。おれの涙がひとみの頬に落ちて泣いたように見えていただけだった。
「それに……わたし、神様はいると思う。」
ひとみの手がどんどん冷たくなる。言葉も手も体も震えていて、けれどひとみはおれに声をかけることをやめはしなかった。
「神様は、まぼろし、なんかじゃないよ。
神様はちゃんと、人間は身勝手だって言ってくれたよ。助けてくれたよ。見ていてくれるだけだったかもしれないけど、わたし…にはちゃんとわかったよ。」
その時、ひとみが何を言いたいのかおれは心の奥で受け止めていた。そうだった、な。
確かに、助けてくれた。身勝手だって言ってくれて怒ってくれた。……みていてくれたんだ。
あまりにも不思議な展開に、なぜか吹き出してしまった。
「ほら、笑えた。やっぱりこれは悲劇じゃないよ。」
ぶるぶると震え始めていた手はいつしかそれは止まり、そしてお互いの手に力が篭った。
「あのね…わたし、もしかしたら、これ以上……一緒に旅ができないかもしれない。
でも、わたしが外れても、その子と一緒に行って。」
おれの手を握っていない方の手が、小さな矢印をつくりおれの抱えている花を指さした。
「わたしの代わりに、その子に……世界を見せてあげて。どんなすてきなものなのか、その子に説明してあげて……。」
「ああ……、ああ…わかったよ。」
掠れた声で何度もひとみのために頷いた。
何度も、何度も、かつて夏目さんがやったように。
「お前の代わりに、こいつと世界を見てくる。
もう生存者探しも終わりだ……、お前のために世界を回る。詩も、作ったら伝えるから。」
上手く笑えているだろうか。ひとみのために笑顔を作る。
お互いに弱々しい笑顔を交わすと、ひとみは空を仰いだ。
「…眠いなあ。あなたは強くなったし、わたし……これ以上、かけることばが……みつからなくなっちゃった…。」
「もういいよ。いらない。ひとみから全部受け取った。」
握る手から力がなくなっているのがわかる。
血も収まり始めた。顔色も悪い。
「もし、旅先でいいものがあったら送るよ。」
「うん。おねがい。」
必死に笑っているわけでもない。
ただ、眠るときは安からに。泣き叫ぶわけでも騒ぎ立てるわけでもなく、穏やかなものを願う。子供を寝かしつける母親の気持ちが分かった。遠い昔に、おれが母にしてもらった時のように、あとは……もうこれだけだ。
「…ひとみ、もうそろそろ眠るか?」
瞼に重りがついているような、それでも必死に目を開けようとするひとみに声をかけた。
「そう…だね、もういいかな……。」
「もういいよ。あとは、おれとこいつで上手くやる。ひとみの分まで。」
おれの手からするすると、滑るひとみの手が雪の地面に落ちた。
「……おやすみなさい。」
そうひとみは答えると、ゆっくりと目を閉じた。それと同時に、ひとみは息をやめた。
疲れたんだろう。ずっと眠かったんだろう。
真っ白な、ひとみと色の被った雪が彼女の顔の上に降り注ぐ。
穏やかな顔をしていた。幸せな夢を見ているのだろう。友達と再開した夢を見て、そして遊んでいるのだろう。
「おやすみ。ひとみ。」




