06 雪が生まれた日
6話です。今回は重要です。いやマジで。
◆
「君はここでなにがしたい?」
どれだけ優秀な人でも受かれないような、政府直属の研究所の研究生として派遣されて、初めての質問だった。そのとき、おれはどきどきしながら「人を助けたいです。」そう答えた。
もともと、真面目な方じゃない。頭もよくないし、なによりどんくさかった。
そんなおれがこんな若いのに、ここに来れたことは名誉なことだった。凡人なおれがどうして、と、所長に聞いたらおれのレポートに感銘を受けたらしい。
「まだ若いのに、そのような考えをお持ちのあなたは素晴らしい。是非ともうちの研究生として働いてください。」
要は、下手くそながらも熱意だけは立派だった、ということだったのだ。
おれは喜んでその誘いを受けた。そしてすぐに後悔した。研究生として働いてくれ、と言われても相手は政府直属のエリートばかりが集う研究チーム。そんな中におれが入ってもいいのだろうか。
それが吹っ切れたのは、おれが研究所に務めて一年後のことだった。
◆
「人を助けたいです。」
「じゃあ、その計画やってみない?」
「でもおれは何もできません。ただの学生に過ぎませんし…。」
おれか謙遜していると、後ろから背中をぼんと叩かれた。所長であった。
「ただの学生だと言うなら、周りからの知識を得ながらやればいい。」
所長自ら現れるなんて珍しい。おれを推薦してここにいれたくせに、なかなか姿を現さない自由人なのだ。
「おれでいいんですか、決めて。」
すると、所長とリーダーである夏目さんはうんと頷いた。夏目さんはこの研究所きってのエリートであり、おれが前から世話になっている兄貴肌な成人男性。眼鏡をかけた、所謂正統派ハンサムであった。
夏目さんからそう諭されるが、本当にいいのだろうか。
「人を助けたいのなら、俺たちも全力で協力する。きみの分からないことは教えながら進めよう。」
正直言って、嘘を言われていても納得した。
こんな話があっていいのだろうか、と。
信じてみる価値はあるが、それなりにデメリットも大きいような気がしなくもない。
おれが決めかねていると、夏目さんは念押しするように言う。
「実は、お偉いさんがたからも人命救助に役立つ研究をと、圧をかけられていたんだ。」
夏目さんが慌てているような顔でそう言った。
「宛がなくてね、でもきみのレポートを読めばみんな賛成間違いなしだ。引き受けてくれ。
どうか頼む。この通りだ。」
夏目さんはおれに深々と頭を下げた。それはもつ土下座に近いくらいの勢いである。
それにしても、端っこの十七歳がこんな大役を任せられていいものなのか。と疑心暗鬼になりかけてやめた。現実は意外とこんなものなのだろうな、と思うだけにした。
「わかりました、頑張ってみます……。」
ぎこちなく答えた。夏目さんはおれの返事を聞いてから目が輝き始めた。
所長は誇らしげに胸を張って、これでいい、という表情をしている。
正直に言って、自信がないどころか何をすればいいのかすらわからないリーダーの誕生だった。
◆
「おれが小さい頃、親友が亡くなりました。
交通事故で、即死だったらしいんです。
親友が他界したと知った時、みんな泣いていました。おれは親友の命を奪った交通事故が憎かったことを子供心に覚えているんです。
こんなに科学が発展していても絶対になくならない事故がおれは嫌いだ。けれどなくすのはとても難しいことなんです。
だから、おれはあるものを考えました。
仮に交通事故に会っても、細胞や血液、皮膚などの様々な部位を再生できる能力を持った微生物の生成です。」
会議室中が、ざわつく。おれは反論されてもいいように言葉を探る。
けれど、みんなざわつくばかりで一向におれになにも言わなかった。
あとで夏目さんに聞いた話だと、みんなおれくらいの年齢の人がそんなことを言って驚いたらしい。第一印象はなんと不思議な事に完璧だった。あとは、どれだけ資金や援助が募れるか。
そんな矢先、あるニュースが世界中を駆け巡った。
どこかの大国ふたつが交戦状態にあるらしい。
もう戦争は始まっているらしい口ぶりで、夏目さんはみんなにそう話していた。
「夏目さん、この国も戦争を…」
おれは気になってそう問いかけていた。
「ここは交戦権を放棄している。戦争をするなんて憲法違反だ。」
夏目さんが答える前に、強い口調で周りの研究員から声が飛んだ。おれはその剣幕で一瞬びっくりして体を震わせた。
「とにかく、もしかしたらこの国にも物資の救援要請があるかもしれない。その時がきたらその時だ。」
夏目さんはみんなにそう言った。
その言葉を聞いて、ざわついてはいるがみんな落ち着いてくれたらしい。
「お前も、危ない時きたらシェルターにすぐ逃げろ。」
「はい…。」
各家の地下や側には、災害に備えるためのシェルターが用意してあった。おれのいえの地下にもシェルターがあって、生真面目な母さんはそこに食料や水などを準備していたはずだ。
「…。」
でも不思議だ。
なぜこんなに突然、戦いが始まるんだろう。
あのふたつの国は仲が悪かったのか。
「夏目さん、なぜそんなことに…。」
おれがそう聞きかけたところで、夏目さんは踵を返して行ってしまった。
残されたおれはどうすれば良いのかよくわからなかった。
◆
それから時が経っても、ふたつの国が大きく動く事は無かった。おれは正直ほっとした。
未だ緊張状態にあることに変わりはないが、できればずっとそのままでいていつか緊張状態だったことも忘れてほしい。おれは思った。
研究としては、よく進んでいた方だ。
「自己再生能力を持った生物とは、またなんとも不思議なものを思いついたものだ。」
おれは久々の休日を家で過ごしていた。
研究が始まって以来、おれは毎日をほぼ研究所で過ごすようになっていて、なかなか家に帰ることができなかった。
父が言うと、母は「すごいね」とおれを褒めた。
「俺たちには研究のことはよくわからないが、できるだけお前のサポートを務めたいと思っている。だから、精一杯やりなさい。」
「ありがとう、父さん。」
「本当にすごいね。もしかしたらノーベル賞とか貰えたりするのかしら?」
「そんなことがあったら凄いけどな。」
おれは母さんの言葉にそう付け足す。
確かに、ノーベル賞受賞とかはちょっとされてみたいけれど。
「頑張ってね。応援してるから!」
「ああ。頑張れよ。」
父さんと母さんは、そう言っていつも背中を押してくれる。とてもありがたかった。
研究の成果は上々で、実際に皮膚が再生するところをまだ実験段階だけれど何度か目撃するようになった。おれは楽しかった。
こんなふうに、誰かとなにかを作り上げるという過程を余すことなく楽しんでいた。
けれど、乗りに乗っていた時、またふたつの国が戦争状態になりかけた。しかも、今度は武器を持ちかけたそうだ。
いくら遠い国だからと言って油断はできないと夏目さんは考えたのか、研究を中止して材料など一式を研究所のシェルターに隠した。
その処置をしてから、二日後。
大国は、とうとう本当に戦争を始めた。
◆
「一体、どうしてこんなことに…。」
研究所は危険だからと一時封鎖され、おれたち国民にもなるべく外出は避けるよう政府からの要請が出ていた。
母さんは息をついて、日夜戦争の話ばかりを取り上げるテレビを消した。
過去、二度に渡って世界大戦が起きたと学校で習った。二百年以上前の話。
その三度目の大戦がこれなのか、日に日に参戦国は増すばかりだった。
平和主義者の母さんには、毎日のこの状況も世界の混乱もうまく整理できていないらしい。
こんな小国にもいつか軍隊が攻めてくるのではないかとヒヤヒヤしているのかもしれない。
「夏目さんはどうしてるのかな。」
おれはふと、いつも世話になっていた夏目さんのことが気になった。研究所からかなり遠いところに住んでいると言っていたけれど正確に場所までは聞きそびれてしまっている。
おれは、自分の部屋まで戻って夏目さんにメールをすることにしてみた。メールだけはやっていて、アドレスをもらっている。
夏目さん、どうしていますか。元気ですか。
早くみんなと研究をしたいです、と。
こんなものだろう。戦争のことに関してはどこか触れることが怖かったので書かなかった。
送ってから十分後、夏目さんからメールが返ってきた。
俺は元気だ。お前も大丈夫か。
そうだな、早く研究再開したいな。
夏目さんの人柄に似合った絵文字もなにもないメールだった。少しだけ元気が出た。
早く研究ができるようになるといい、おれはそう毎日思い続けていた。
けれど、来る日も来る日も戦争は激しくなるばかり。輸出に頼るような物資は乏しくなり、どの家も生活が傾き初めて、やがて生活は次第に状況は厳しくなり始めていた。
おれは家族三人でなんとか生きていた。
夏目さんもそうだといいな。所長やみんなも。
早く、戦争が終わってほしい。
無関係な人たちが無差別に殺されることは許されることじゃないんだから。
でも、どんなに願っても一向に終わらない。
そして、ある日。おれたちの国にも戦争の魔の手が伸びた。
戦争を引き起こした大国が、おれたちの国に支援を半ば強制的に寄越してきた。もちろん、表面上は国交か貿易か、そんな優しいものを装っているということは初めからみんな気がついていたが。
もちろん、こんな小国に大国を支援できるほどのなにかが残っているはずもなかった。
自分たちが生きるだけで精一杯なのに、あんな大きな国を支援しろとは何事だ、とこの国のトップは怒って反抗した。
すると、大国は手のひら返しでおれたちの国に強引に押し入ってきた。
国民を殺したことはないものの、ほぼ捕虜同然の扱いをし始めたのだ。
おれの家の地域にも街中を数人が歩き回るようになってしまい、迂闊に外も出られなかった。
それから少しばかりの時が経った。
夏目さんから、突然の連絡がやって来た。
研究所で大国の軍人が俺たちが作っていたものを見つけた。と。
◆
おれは軍人の目を掻い潜り、なんとか研究所まで辿り着いた。けれど、そこはもう既に軍人でごった返しており、おれたちが近づけるような状況では決してなかった。
軍人の中に、偉そうな髭を生やした男が聞いたこともない言語で周りと会話をしている。
まるでここが自分のもののように語っていて腹が立ったが、夏目さんや周りの研究員たちに抑えられた。その中には所長もいた。
所長と夏目さんがふたりで男のところまで近づくと、ふたりは彼らと会話をし始めた。
けれど、あまり状況はよくないのかほぼ叫ぶように男は怒っていた。
男は夏目さんと所長を軍人たちに取り囲むように指示をして、隠れていたおれたちも見つかってしまった。
「交渉決裂。あいつらは、相当頭が固いらしいな。平和的解決策を講じたが無意味だったか…。」
夏目さんは悔しそうに呟くと、おれたちは見知った研究所の内部に連れ込まれた。
髭の男はどうやらエリート軍人のようだった。
ひとりだけ服装が異なっている。
おれは髭男と目が合ったすきに、思い切り睨みつけた。
「ばかっ、そんなことするな。」
周りの研究員からは小声でそう言われた。
髭男は所長となにやら会話をし始めた。
ここが研究所だと分かってしまったらしい。
ほぼ脅すような口ぶりだということは、おれにも理解できた。なんの話か分からないが時折夏目さんが独り言で「ふざけやがって」と答えていた。一体なにがあったのだろうか。
すると突然、髭男は所長を殴りつけた。
「なにするんだよ!」気がついたらおれは無我夢中でそう叫んでいた。髭男がおれに詰り寄ってきて顔をじっと見つめてきた。
脂ぎった顔が気味が悪い。
けれど、所長や他の研究員たちを立たせて研究所の内部へと潜入し始めた。おれは夏目さんの隣を歩きながら、何があったのかと聞いてみた。すると夏目さんは顔を顰めて「ここの研究資料を母国に全て持ち帰ると言っている。」と答えた。
研究所の内部、そこは大きな円形の会議室であった。この下には夏目さんが隠したおれの提案した細胞や他の研究材料が隠れている。
そう易々と開けられては困る。
所長はそのことを知っているのか、指を指して他の場所を提案したらしい。ほっと胸をなでおろしたことも束の間、髭男の部下のひとりらしき男が会議室机の下に隠されていた地下の通路を見つけてしまった。
髭男は俺たちとともに降りる。
大きな冷蔵室がそこにあったはずだ。
おれはなんとか、この男の注意を逸らせないかと考えた。体当たりをしてみようか、けれどそんなことをすれば相手は軍人、確実に撃たれて殺される気がする。
目の前にいるのに、なにも手出しができない自分が悔しかった。
冷蔵室の中は冷えていて、生身のままでは到底入れない。けれど所長を脅して中の冷房を切ると男たちは堂々と部屋の中へ入る。
「夏目さん…どうすれば?」
そう聞いて、おれは自分の声が震えていることに気がついた。それを察したのか夏目さんはおれに「どうすることもできない。」と優しい声色で言った。
そうは言っても、やはりおれたちがこうされている間は抗うこともできなかった。
十分後、男たちはおれたちを連れ回してひとつの場所まで辿り着いた。
おれは息を呑んだ。なにせ、そこは夏目さんがおれが開発している再生生物が隠されている場所だったからだ。
髭男が言葉を口にする。おれには全く分からない。所長が髭男が話していたであろう同じであろう言語で返した。
「お前のやつに目をつけているぞ。」
夏目さんが改まった口調で通訳してくれた。
おれの再生生物を…どうするんだ。
男は所長と、先ほどのような言い争いめいたことを始めた。何を言っていかは分からないが、相当事態は深刻だということは分かった。
すると、男は所長を押し退けておれの研究品を乱暴に手にとった。
「やめろ!」
おれは反抗しようと立ち上がったが、背中に固いなにかを押し当てられた。
この国では無縁の代物であった。
「座れ。」
夏目さんにそう諭されておれはゆっくりと膝をついた。
「夏目さんは悔しくないんですか…?」
おれは泣きそうだった。震える声で聞くと夏目さんは答えた。「悔しいに決まっている。」
その顔はどこか悲しげでもあった。
それから、様々なものを物色してなにが基準かは分からないが研究資料のほぼ全てを髭男は奪い取った。それぞれの研究に携わっていた人は悔しそうに歯を食いしばっていた。
髭男はおれたちを一瞥すると、所長にまたなにか伝えていた。今度は偉そうにだ。
その話を聞いていた夏目さんは青ざめた顔をしていた。
「あいつら、なんて言っているんですか?」
おれは気になってしまって夏目さんに聞いてみる。すると夏目さんは驚くべきことを言い始めた。
「俺たちの研究品を使って兵器を作るそうだ。」
「え?」
「『向こうの国を脅す、おまえたちの国には手出ししない。』だ、そうだ。」
一瞬腹の底からあまりにも情けない声が出た。
いや、でもあの男はただの軍人に過ぎない。それが国家権力を動かせるものか。
髭男たちはおれたちを研究所の外まで連れ出すと乱暴に地面に投げ出された。周りからケケケ、と下品な笑い声が聞こえてくる。
なにがおかしいんだ。そんなにおかしなことでもあるのか。
だって、それは相手側の国の無関係な人たちを殺すってことなんじゃないのか。
「『自分たちはただ自分の国を守っているだけだ。これは自衛戦争だ。』」
髭男はそれだけを、伝えたのかおれたちには目もくれず所長から目を離した。
おれはなにもできなかった自分の無力さに嘆いた。
それにもしかしたら、おれのせいで関係ない人がみんな死ぬのかもしれない。
おれは心の中で思った。
そして、最悪なことにその予想は的中してしまったのだ。
◆
じりじり太陽が照りつけていた夏が終わり、秋が過ぎて、冬が訪れた。
寒い冬でも遠くの国では火花が散り、鮮血が飛んで、人の命が消えていく。
その冬の夜、初めてこの国で雪が降った。
とても綺麗だった。窓の外から見ているだけでみんなが見とれているのがわかる。
おれは両親と一緒に電気もつかない家の中でそれをずっと見ていた。
次の朝。道端で、人が死んでいた。
何百人、何千人。たくさんの人が死んでいた。
その夜も、また雪が降った。
次の日の朝。今度は家の庭で人が死んでいた。
その次の朝も、その次もその次もその次も。
どの次でも、みんな死んだ。
段々、周りから声や音が消えていった。
おれはなにかの悪夢なのだと自分を落ち着けた。違うと気がついたのは、何回目の次だったか。
両親が外に出ていた時、また雪が降り始めた。
サーチライトのような光に照らされて、その上に雪がちらつき始めたのである。
ケーキの上にかける砂糖のように、白くさらさらだった。
それが肌に触れたとき、両親に異変が起きた。
ふたりはの全身からは無数の傷が現れた。
誰かに切り付けられたかのように鋭利な傷であった。
おれがそれに気がついた時、もうふたりの傷口からは大量の鮮血が飛び出していた。
おれは呆気に取られて、その場に尻もちをついた。窓はふたりの血で真っ赤に染め上げられ辛うじて見える外の景色から、ふたりが地面に倒れ込んでいることが見て取れた。
ひどい話だが人間とは思えない形相でこちらをじっと見ては口をぱくぱく動かしている。
その口元を目を凝らして見てみるとなにやら単語になっていた。
「こ…し、て?」
おれがその単語を理解したときあまりにも冷静すぎて逆に恐怖心は馬鹿馬鹿しさに変わった。
降雪は約三分で終わり、おれはそのタイミングを見計らって台所の刃物を持ち出した。
もちろん、これはそもそもそういうことに使うものではないということも至極承知の上。
ただ、あまりにも、あまりにも、だ。
おれの目の前で、苦しんでいる両親が辛そうでおれの心がぎゅうと締め付けられたからだ。
こんな最期は見たくなかった。
こんな終わり方は嫌だった。
おれは、自分の手で両親を殺める日が来るのだと思いもしなかった。
いつからこんなふうに変わってしまったんだ。
いや、おれがあのときに、あんなふうなレポートを書かなければ、それはそれでまだ生きる価値があったのだろうか。
息の止まった父親と、まだ痛みに顔を歪ませる母親がおれの眼前にいた。
おれは、止めることのできなかった涙で滲む母親の姿を見て、感謝の意を述べたあと、すっと苦しまないよう刃物を振り下ろした。
空を見上げる、厚くて重い雲が今にも落ちてきそうだ。おれは両親を殺してしまった。
その事実が心にのしかかり、腹の中から突然なにかが込み上げてきた。
慌てて咳き込む、そのまま全てを吐き出してしまいたいくらいの気持ちになって。
おれの意識は遠ざかっていた。
◆
目覚めると、自分の家の中にいた。
おれがひとりで戻ったのか、そう思ったがどうやら違うらしい。
「気がついたのか。」
ここに居ないはずの声が聞こえる。
夏目さんの姿がそこにはあった。
「無事だったのはお前だけか。」
問いかける、確認、でもない義務的な声だった。窓の外を見ると、また雪が降っていた。
両親の姿はどこにもなかった。
「両親をやったのはお前だな。」
おれはそう問われて、なにも言い訳もせずに頷いた。そうした途端に今更ながらも後悔の涙が溢れては零れ落ちた。
ごめんなさい、苦しむ親を見ているのが辛かったんです。嗚咽に混じりながらの言葉を夏目さんはどう受け取ったのか、おれの頭を撫でた。
一生分の涙を流し終えたくらいに叫んで、おれは疲れていた。夏目さんはじっとおれの姿を捉えながら、細々と言葉を紡ぎだした。
「戦争は終わった。始まったのが五年前だったっけな。終わって平和が来るはずなのに代償が大きすぎるよな。」
「どういうことですか?」
代償とは。夏目さんの表情が陰り始める。
「あの雪があるだろう。今も降っている。」
窓の外の世界にはまだ雪がしんしんと降っている。けれど不思議なことに、あの雪は絶対に積もりはしないのだ。
「あれはな、俺たちが研究して開発した再生生物の変異体だ。」
「それって…もしかして。」
あれはおれたちの、人を救うために作っていた。
「あの日研究所に来た軍人は、自国の科学者にお前の再生生物を作り替えさせた。
肌に触れると傷が出現して大量出血で死に至る細菌生物に変えたんだ。お前の両親もこの国の人々もほぼ死に絶えた。」
「…。」
「けれど極小範囲に放出するはずだった細菌は生物としての心を持ってしまった。人間を殺すという名目で作られたものとしての本能が生まれてしまった。その結果がこれだ。」
「おれのせいで…。」
身体の震えが止まらない。絞り出したその疑問を夏目さんはそんなことはない、と振り切った。
「悪いのはあいつらだ。お前は純粋に頑張っていたじゃないか。」
「でも、あの生物の仕組みを考えたのも組み立てたのもおれなんです…!」
「お前は関係ない、しっかりしろ。」
「おれは、親だけじゃない…世界中の人をみんな殺してしまったんです。」
息が苦しい、荒い呼吸を何度も繰り返すけれど一向に楽になれない。このまま喉を詰まらせて死ぬことができたらどんなに楽なのだろう。
自分の首を絞めても、手首を強く握って血を止めても、あるいはあの雪に当たってもおれは死ぬことはできない気がしてきた。そもそも、おれには世界中の人の命を棒に振ってしまっても尚「生きていたい」という気持ちがあることも気持ちが悪いくらい人間じみていた。
「おれのせいで…おれの、せいで…。」
「落ち着け!」
突然おれを抑えようと優しかった夏目さんの声色が、激しくなった。そう耳を劈く声で言われて頬を殴られる。
「…いってぇ。」
急に頭が冷め始める。口の中が切れたらしく、鉛のような味がした。
「お前のせいじゃない!」
力強い声は相変わらずのこと。けれど頼もしいはずの夏目さんは益々表情を曇らせた。
「お前は悪くない。悪いのは俺だ。」
いつもおれが頼ってばかりの夏目さんは、おれを頼りたいとでも言いたげに口を開く。
「お前だけには、本当のことを言おう。
俺のせいだ。全部、俺が悪いんだ。」
夏目さんはおれから目を逸らした。
透き通る低い声が、部屋全体に響く。
「俺は戦争が始まってから、研究所に来た連中に抑止力としての兵器を作ってくれと頼まれた。俺はどうしても戦争を止めたかったんだ。
けれど自分の手で人を殺すものを作るなんて嫌だった。」
あまりにも矛盾した話だよな、とも彼は付け加えた。
そんなはずはない。夏目さんはそんなことする人じゃない。おれは夏目さんに近づく。
彼は一歩後ずさった。彼はおれを拒絶した。
「だから、お前の研究を利用したんだ。
ずっと俺はお前を騙していた。
本当にすまない。こんなことになるなんて思いもしなかったんだ。」
胸のつっかえを全部とって曝け出されたのはあまりにも人間らしい言い訳のような言葉と謝罪。ああ、この人も人間だったんだな。
夏目さんは完璧な人じゃなかったんだな。
始めからそうだと承知するべくもなく一緒にいたはずなのにどこか寂しくなった。
けれど、そうは思っても信じられないものは信じられなかった。
「嘘ですよね。そんな嘘ついたって何も面白くないですよ。」
頭とは裏腹に、まだ信じていたいという心がその言葉を発しさせた。乾いた自分の笑い声。
いつもなら拾って笑ってくれるのに。
「全て事実だ。」
おれのふざけた言葉にも真剣に返した。
辛さ、痛み、悲しみ、後悔、それらが混ざりあったような複雑な夏目さんの表情をおれは初めて見た気がする。
「夏目さんは…凄い人なのに、完璧でなんでもできる人なのに…。」
おれの独り言に、夏目さんは反応を示した。
「俺は凄い人じゃない、お前の方が凄いんだ。俺は最低だ。俺が人類を皆殺しにしてしまった。」
今度は夏目さんが大泣きしはじめた。大人げないとは思わない。
だって多分、根本から見れば夏目さんも悪くないのだろうから。
「俺は本当はずるいんだ。自分が人を殺したくないからってお前を盾にした。
俺は…お前もみんなも裏切ったんだよ……!」
夏目さんは涙を拭って、まだ雪が降る屋外に飛び出した。よれよれと左右に揺れる身体が雪に触れると顔に大きな傷が現れ、そこからは先ほどのふたりと同じように噴水のような鮮血が飛び散る。
涙と混ざって血涙のようになったものを流しながら、口を動かしていた。さっきの母親と同じようなおれへの…。いや、あれはもしかしたらおれに向けたものではなかったのだろう。
世界の人々全員へのメッセージ、謝罪と言うべきなのだろう。
『ごめんなさい』
最期までそう言い続けて、夏目さんは息絶えた。
◆
おれは、なぜこんなことになったのかを考えた。考えたけれど、なにも分からなかった。
静寂が包み込んだ世界はあまりにもあっけらかんとしていて、この間まで聞こえてきた飛行機の音も歩いていた軍人も、あるいは銃声すらも夢のようになくなっていた。
けれどなくなったのはそれだけじゃない。
全てが初めから幻だったかのように消えておれはようやく気がつく。
今までが大切すぎたんだ、と。
◆
『ごめんなさい』
おれは夏目さんのその言葉が忘れられない。
悪いのはおれか、夏目さんか。あの軍人か。
もしかしたら誰も悪い人はいないのかもしれない。被害者も加害者もいない。
ただ残るのは空虚な世界だけ。
おれは家の地下にあった防災グッズを詰めてあるリュックサックを出してきた。その他にいくつもの大切なものを最小限に抑えながら無理やり入れる。
動かなくなった夏目さんを家の中に入れて、顔の血だけは拭いて、瞼に手を当てて閉じた。
動きやすい服装に着替えて、荷物を背負っておれは、家の外を飛び出した。
もしかしたら、まだ生き残っている人がいるのかもしれない。おれはおれの罪を認めて夏目さんの嘘も受け止めて、そしてその人たちにそれを伝えよう。夏目さんのこと、おれのこと。
戦争で世界は壊れて、その全てを雪が消し去ったということを。遠いようで近い、今まで起こったことを思い出す。
なにもかもを話そう。
それにはもう名前なんていらない。名前を言ったらおれは元に戻ってしまいそうだった。
今まで暮らしていた家も、街も、それから名前も捨て。
おれは、誰もいない道をひとり歩き始めた。
◆
私は神様がいると信じていました。
神様はここにいてずっと私たちを見ているのです。
助けるわけでも殺すわけでもなく私たちを見ているだけ。
せめて嘲笑ったりしてくれればまだ救いようはあったのです。
私たちは醜い、身勝手、そう仰ってくれればまだよかったのです。
これが喜劇ならどれだけよかったのでしょう。
最期の時には皆笑いながら起き上がる。
そんなものならどれだけ幸せだったでしょう。
けれど笑いは起きないただの悲劇でした。
私は神様を信じていました。
でも、私はもう信じることはできません。
私たちを救わない神様は、それは人間が創り出したまぼろしでしかないのですから。
◆
神様、か。
そんな素晴らしいものが存在するなら。
会ってみたいよ。




