02 友達
2話目です。
初めて世に出したので、ドキドキです。
豪雨でまともに外も出られない日が何日も続いた。おれはひとみと一緒に窓の外からじっと雨を見るばかりの毎日になっていた。
それはようやく夏の始まりを示すような合図だったのでおれ達は大人しくその時を待っていた。
◆
「夏の恋は燃え上がると本で読みました。それは本当ですか?」
まだ豪雨の続く中、退屈していたらしいひとみはおれにそんなことを聞いてきた。彼女の質問事項としてはやけに女らしいものであった。
「分かりません。」おれはそう答えた。
「そんなこと、おれには分かりません。」
念押しするように同じ意味の言葉を繰り返し並べてみた。
「あなたには恋愛経験はないのですか?」
おれの言葉を聞いてひとみは不思議そうな顔でおれにまた問う。
「ないですね。ご期待に添えず申し訳ない。元よりそのような話とは無縁な男でございますから。」
おれは狂言師のような口調で答えた。今度はおれがひとみに「なぜ恋の話になるのですか」と訪ねた。すると彼女は、欲しいおもちゃを買ってもらえなかった子供のように頬をぷくっと膨らませてから「女の子の憧れだからです」となんとも乙女チックな答えを出してきた。
「あなたは旅をしていたのでしょう?
ならば、恋愛経験がなくてもそのような話を見聞きしたのではないのですか。」
果たしてそんなことがあっただろうか。懸命に記憶の中を探ってみるとひとつ思い当たる節があった。
「とある街で親同士の不仲が原因で結婚出来なかった男女が逃避行に走った、ということには遭遇したことがあります。」
「そのふたりはどうなったのです?」
「さあ。どうなったのでしょうね。」おれはぶっきらぼうに言葉を放り投げた。
「恋というのは病なんです。患っている間はとても苦しい思いをしますが、治ってしまえばどうってことはありません。」
ひとみにそう言うと彼女は腑に落ちないのかなにやら不満げな顔をしている。けれどこればかりは本当のことだ。恋に現を抜かしているといつか酷い目にあうぞ、という気持ちを飛ばしつつひとみの言葉を待った。
「納得できませんね、それならなぜ人は恋愛などするのです。病ならば直した方が先決じゃないですか。」
「その通りです。恋なんてしない方が傷つきもせず悩みも苦しみもしないのです。けれど人間というのは常に愛を求める生き物ですから、それがいつかは自我の崩壊すらも招いてしまうこともありますけれども。」
おれは両手を広げてまるで演説者のようにひとみに恋の持論を展開した。彼女はその話を飲み込んだのかこくんと頷いた。しかし我ながら自我の崩壊というあたりは盛りすぎであったかもしれない。
◆
ひとしきり話を終えた後、外はもう夕方で湿り気のある空気に包まれていた。木や花には雨粒がきらきらと輝いている。庭の芝生も同様であった。雨が降ったので花の世話はいらないのだけれどどこか習慣づいてしまった庭師としての仕事を無いにも関わらず全うしようと、おれは抜く雨で濡れた庭のベンチを拭いてそこに腰掛けていた。
この建物の外の森の木々の間からは夕日が見えている。日は前よりも長くなっている。
夏が近いのであった。
ひとみは止まっているのが嫌いなのか庭の真ん中に立ち尽くしてぼうっとしている。おれはなにか気になって彼女に問いかけた。
「この庭には全ての花が揃っているのですか?」
おれの声が聞こえたのかひとみはその問に応えようとおれの方を見た。
「まさか。全ての花はありませんよ。私もそこまで揃えるつもりもないですし。」
呆れたのか面白いのか彼女は苦笑した。
「では、この中にあなたとお気に入りの花もあるのですか。」
「ええ。」
花の話は楽しいのか儚げな笑顔を浮かべてひとみは頷く。どんなものなのか、と聞くと彼女は俺の隣を指さした。
「それです。カーネーション。」
「ああ、これが…。」
ピンク色のカーネーションが鉢植えに可愛らしく咲いている。母の日に贈られるものである、というポピュラーな情報くらいなら知っていた。母の日か。
ひとみは花に近づいて、愛おしそうにそれを見つめた。優しい眼差しも彼女はするのか。少しだけ嬉しい違和感を覚えた。
「おれは花のことはよく分かりませんが、これは実にかわいらしい。」
覚束無い口調で今の気持ちを言葉にしてみる。ひとみはそうでしょうとも、と頷いた。
彼女は鉢植えを持ち上げた、咄嗟におれが手伝おうと手を伸ばすと「大丈夫です」と断った。
庭から廊下へと戻り、いつもふたりで談笑している部屋まで戻ってきた。先ほどまで使っていた紅茶のカップを片付けると、テーブルの近くのキッチンに置いた。
その間ひとみは、持ってきた鉢植えをどこに置こうか考えているらしい。
「これ、どうしましょう。」
それをおれに聞くのか。
「好きな場所に置いてください。」
そうおれが言うとひとみは悩んだ末にひとつの場所に決め込んだようだった。窓の淵には丁度鉢植えが置けるくらいの石製のスペースがあった。
「もうすぐ夏ですし、ここで管理した方が安心できます。」ひとみはそう言った。
花とはそのようなものらしい。
「そんなにその花が大切なのですか。」
おれはひとみに聞いた。ひとみはゆっくりと首を縦に振ってから口を開いた。
「最初、カーネーションの種を友達に貰ったんです。」
「友達ですか。」
「ええ。三年前に貰ったんです。それから少しづつ育てていたのですけれど。これで最後です。枯れるまで見届けたいんです。」
それは決意の声であった。
もう二度とこの花が見られないような言い方。
けれど本当にその通りだと思った。
「友達もそれから音沙汰無しなんです。
もうかれこれ三年は会っていません。何かあったのでしょうか。心配です。」
悲しい声を絞り出しているのか、それとも泣くのを堪えているのか。どちらにせよ、おれはひとみになんて声をかければいいのか分からなくなってしまった。
本当のことを言えばいいのだろうか。
「あなたと会う前には友達が訪ねてきてくれて、寂しくありませんでした。でも今は誰も来ない。この種をくれた人もそうじゃない人もみんなどこかに行ってしまったのでしょうか。」
彼女にとって友達は心の支えだったのだろう。
自分が人から嫌われてしまったのかを気にしながら生きるというのは慣れていなければとても苦しい。ひとみはきっと今も気にしているのだろう。
「会えなくなるのなら、手紙くらいくれてもよかったのではないのでしょうか。突然居なくなってしまうのは寂しいです。」
おれが言いたいこととは裏腹に、ひとみは純粋な気持ちを答えたのだった。
おれがもし本当のことを言ったらひとみはどんなことを思うのだろう。
その時は、おれはひとみに嫌われてしまうのだろうか。
ひとみはおれになんて言うだろうか。
◆
次の日は朝から晴れていた。
目を覚ますと眩しい日差しが部屋の中に差し込んできた。空は青い。そして日は高い。
寝ぼけた目を擦りながら、庭へと出て行く。
予想通り、湿気が体にまとわりついた。
夏の訪れであった。
太陽に手を伸ばす、届きそうで届かない丸くて熱いものはすぐ真上にあるのに。
「太陽を捕まえてみたいな。」
ひとみがおれの隣で独り言のようなことを呟いた。無論、あれは捕まえられるはずもない。
たまに人間は出来もしないことを言う。
「あなたに友達はいますか?」
突然冷ややかな口調でひとみはおれに聞いた。
少しだけ過去のことを思い出す、これ以上は思い出したくないと線を引き初めから出ていたであろう答えを改めて口にした。
「いません。」
「それらしい人も?」
「ええ。おれは人と親しくすることが苦手でしたから友達らしい人なんていうのはいませんでしたね。」
話しかけてくれる人はいたけれど友達はいなかった。それがおれの覚えてる正しい記憶だ。
「そう。」
「友達ってどんなものなんですか?」
誰かと出かけたりした経験がないからつい気になってしまった。ひとみには友達はいたらしいので彼女に聞いてみる。少しだけいろいろ考えたらしいひとみは「そうですね」と前置きをして話した。
「いいものですよ。私がここから出られなくても会いに来てくれました。誕生日にはプレゼントの交換をしたりもしました。
なによりも友達は安心できます。」
安心か、このごろ安心といった類の言葉を口にしたことも少なくなっていた。
いつも通り、ふたりで庭全体を見渡せるベンチに座るとひとみはふぅ、と息を吐いていた。
「ひとみは外に出られないんでしたっけ?」
「出られない、じゃなくて、出てはいけないんです。この庭までが私の限界。
ここから先の世界へ出るなと母から厳しくしつけられていました。」
初めてあった時も、どんな時もひとみはここから外へ出ようとすることは一度もなかった。
「どうして?」
「分かりません。母も祖母もその前も、みんな訳もわからずここに閉じ込められていましたから。」
訳もわからないままここにいる、というのもすごい。普通の人だったら絶対に出来ないことを「みんなそうだったから」という理由で押し付けられるのはとても不愉快であろう。
けれどひとみはそれを始めから認めていたのか、それとも子供の頃からそう教え込まれていたのか。どちらにせよ彼女がここから出られないと知って少しだけ気持ちが楽になった。
◆
「じゃあ、私と友達になるのはどうでしょうか?」
ひとみが途端にそんなことを言い始めた。
「おれと?」
「ええ。私は友達が増えて、あなたは友達ができる。いい考えですよね?」
それでいいのか。こんな簡単に友達ができて。
もっと、友達というのは重い責任を負っているものだとてっきり勘違いしていた。
「ダメですか?」
「構いませんけど、ほんとにいいんですか?」
友達ができるのは嬉しいけど彼女に迷惑がかかることは極力避けていたい。
考えをありのままに伝えると、ひとみはそんなことはないと首を横に振った。
「確かに、あなたは結構いい加減なところがありますけれど私はあなたと友達になりたい。」
真っ直ぐな言葉だった。
ほんの少しだけ嬉しくなっている自分がいた。
「じゃあ、今からおれたちは友達です。」
「ええ、ならこんな他人行儀な話し方なんてやめましょう。」
なぜか会った時から今までずっと敬語で話していた。意識していたわけではないがただどこか距離を感じていたのかもしれない。
「これからは私は敬語やめるね。」
「おれも、もうそろそろ敬語は疲れてた頃だったし。」
ひとみはにこっと笑顔を見せた。
彼女もただの普通の女の子なんだろう、それがこんなことになるなんて可哀想だ。
「そういえば、恋の話はどうなったんだ?」
改まった関係になったので気になることを追求する。
「ええ、私好きな人がいたの。
それでちょっと気になってあなたに聞いてみたの。」
つまりおれは遠回しにひとみの恋を応援することになる。恋に精進するのもいいがやりすぎには気をつけろよ、とだけおれは忠告した。
ああ、哀れ、おれの初恋。




