ロゼアンナ収録開始
東京都内、あるアフレコスタジオにその姉妹はいた。
「お姉ちゃん、はい、スポーツドリンク」
「ああ、ありがと詩織」
スタジオ外の廊下に置いてある椅子に詩織は腰かけた。姉の香織の隣だ。
「ふふっ…」
「どうしたの、お姉ちゃん…。あっ、私にもメール…」
姉の香織が携帯電話のメールを見て微笑んでいた。その理由が妹の詩織にも分かった。
「お父さんからだ…。えっ…!?」
詩織は大喜びで香織の顔を見た。
「お父さん、すっごぉーい!」
姉妹の父である中山康臣は来期放映の戦隊シリーズもののボスの声を演じることになった。若い声優には出来ない迫力満点の声で演じなければならない役だ。
制作側はギャラの安いジュニアランクの声優を起用したいのが本音だ。まして、本格的な芝居が出来る声優なら文句なしである。
現在のジュニアでこの役を出来るのは康臣のみ。このジュニアでいるのは3年間で、以降はランカーと云うランクになってギャラが上がり、その途端干される声優も少なくない。生き残るのはジュニアの時代に数多くの役を演じて評価の高かった者なのだ。康臣はそれになりつつあった。
ちなみに彼の娘である中山香織と詩織姉妹も『声優は3年目が勝負』を無事にクリアーした人気声優である。
姉の香織は長い髪をポニーテールにしており、リボンはホワイト、母ゆずりの温和な顔立ちに加えてスタイルもよい。
妹の詩織は長い髪をツインテールにしており、リボンの色は日によって違う。体育会系の女子で中学時代は水泳で全国大会にも出場している。
そして姉妹揃って母親の形見のネックレスを愛用している。
「お姉ちゃん!お父さんと共演できる日も近いね!えへへっ」
「そうね。でも、もし恋人役なんて来たらどうする?」
「ありえない話じゃないよね。あはははは!」
少し過去の話をしよう。中山康臣の娘、香織と詩織姉妹は2人が中学生のころに母親が急逝して父子家庭になるも、幼き日より消防士として誇りを持って仕事をしていた父の背中を見て育ち、母の紗織は厳しくも温かく、そして消防士の妻として誇りを持っていた女だった。母を失っても姉妹は消防士の娘と云う誇りと共に性根がまっすぐな女へと成長していく。
幼少のころから、消防士の傍ら市民劇団に所属する父の芝居を観に行き、やがて同劇団に所属して父と共に舞台に立つようになる頃には芝居に夢中になっていた。
姉妹揃って父母に『声優になりたい!』と言った時、当初父の康臣は反対したが、自分との結婚のため夫が声優の道を諦めたと知っている紗織は賛成した。妻と娘2人が組んでしまったら、いかに炎と戦う男でも勝ち目はないので認めることにした康臣。
その康臣、最愛の妻が逝った。康臣は無論、娘2人も悲しみに暮れた。
さらに数年後に追い打ちがかかり、康臣が惨事ストレスを発症してしまう。二十歳にも満たない姉妹に何が出来ようか。行きついた結論は早く声優として自立して、父の負担にならず、治療に専念してもらうことだった。けして、安易に売れっ子声優になったのではない。姉妹は父に安心してもらうため懸命に努力したのだ。
一方、康臣。惨事ストレスを発症して休職状態に陥り、心療内科で治療を行っていくも快癒の兆しが見えない。伴侶を失った寂しさも重なり、凄惨な現場を見続けて心が参ってしまった。
正直、もう消防士には戻れないと考えていた。現場がイヤになってしまったのだ。消防士が現場に行けなくなってしまったら、それはもう退け時だ。そう思った。
しかし、そんな中、楽しみが一つあった。声優ユニット『ミルキス』の存在だ。元々声優志望だったこともあり声優への興味は強く、またこのころから女性声優はそれなりに美人だった。ミルキスのライブDVDを見ている時が惨事ストレス発症中の康臣にとって何よりの癒しであった。娘を応援しろよと誰かに突っ込まれそうでもあるが。
しかし、チケットが中々取れない。
ああ、いっそ俺が声優になればいいか、なんて思った。声優同士の繋がりや事務所間でチケットを融通してもらえるかもしれないし、もしかしたらミルキスのメンバーとアニメで共演も出来るかも、なんて…我ながらバカなことを考える…と康臣が思った時だった。
見つけた。妻を亡くした悲しみも、惨事ストレスも、忘れられる夢中になれるもの。他者からすれば不惑を越えた中年親父が世迷言を、と言うだろう。
しかし、康臣にとっては闇夜に光明を見出した思いだ。やっと、やっと見つけられた。いや気付いたと言った方が正しいかもしれない。
本来、彼がなりたかったものは消防士ではなく声優だ。結婚のためあきらめたが今ならば。体が燃えてきた。もう一度やってみよう!そして
『お父さんは声優になる』
娘2人は開いた口が塞がらなかった。
「ふふっ、あの時のお姉ちゃんの顔ったら傑作だったよねぇ」
「詩織こそ。ふふっ」
朝食後にいきなり切り出され、姉妹して唖然としたのを覚えている。
しかし、姉妹は父の芝居が素晴らしいことを知っている。市民劇団では共に舞台に立っていたのだから。
「本当、共演できる日は近いかもね。楽しみだな…。と、マネージャーから電話」
香織の携帯電話のバイブレーションが響くと同時に
「詩織、車の準備が出来た。ラジオの台本は車でチェックしてくれ」
詩織のマネージャーが呼びに来た。
「はい、分かりました。それじゃ、お姉ちゃん、私そろそろ行くね」
「ええ、私もそろそろ次の現場に向かうわ」
「ん、もしかして、あの話?」
「ええ、私に決まったって」
携帯電話を閉じて、香織は言った。
「『魔法のお姫様☆ロゼアンナ』の主役ロゼアンナ役がね」
◆ ◆ ◆
声優事務所イーストN、真理子は正式な所属声優となりデビューしたが実力はジュニア中に腐るほどいる程度だ。真理子は現在21歳、容貌は不細工では無いがとびきり美人と云うわけでもない。抜群のスタイルと云うわけでもなし、本当にどこにでもいる、ごく普通の女だ。
だが、正式採用を勝ち取ると云う養成所内の競争に勝ったのは確か。もしかすると、売れっ子声優になるかもしれないのだ。しかもジュニアならギャラも安いので役はもらいやすいので事務所側も真理子を売りだす。
そして、真理子はこの段階ではまだ本当の実力を出していなかった。前世と比較にならない高評価を受けてみたい気持ちもあるが何かの拍子に本来あった出来事にズレが生じて、キャサリン役が自分に回ってこない可能性もあるからだ。
実力は出していないものの、自主レッスンはとにかく熱心の真理子。レッスンのやり方も40歳村上真理子の知識と経験が生きている。もう前世で味わった自分の娘のような歳の声優たちに笑われる屈辱はまっぴらだ。その思いから気合も違う。
前世でもそうだったが、デビュー当時の真理子はまずまずの滑り出しだった。モブと端役を間断なくもらえた。
そんなある日、事務所内で回覧文書を読んでいた真理子は知った。
「中山香織がロゼアンナ役になった…。ホッ、前世と同じで良かった」
自分が40歳村上真理子の実力を解放するのはキャサリン役を演じ始めてからである。それから康臣の言う通り『能ある鷹は爪を出す』で行く。
事務所のカレンダーを見る。前世と時系列は一致している。
「近日中に、桜井マネージャーが私にキャサリン役を取ってきてくれるはず」
桜井道隆、それが真理子のマネージャーである。元々声優を目指していた若者である。
彼は自ら多くの現場に売りこみに行っていた。原則、声優自身が事務所の許可なしに営業に赴くことは禁止されているが桜井の場合は仕事が取れたら事後報告で良いと事務所に黙認されていた。
結果声優として挫折したが、イーストNは桜井のこの行動力を評価してマネージャーとして登用している。つまり黙認の理由は『あいつ、いいマネージャーになるんじゃないか』と試されていたからとも言えよう。現在は7人の声優を担当している。
真理子の前世でも桜井が彼女の担当マネージャーになっているが、キャサリン役が失敗して以降は放置されがちであった。
前世、桜井が真理子のボイスサンプルを持って売りこみに行ってくれて、キャサリン役が取れた。しかし真理子はこのチャンスを生かすことが出来なかった。どの時点でキャサリンの物語中盤のリタイアが決まったのかは分からない。もしかすると最初から決まっていたのかもしれない。
「必ずシナリオを書き換えさせてみせるわ。そして…」
キャラクターの人気の度合いによって、いくらでも脚本は書き換えられるもの。真理子は携帯電話を開けると、待ち受け画面には愛しい康臣の優しい笑顔。
「ヤスさん、悪いけれど、アナタの自慢の娘を食っちゃうからね」
悪い顔でニィと笑う真理子。そう、その顔はこれから彼女が演じる敵役ヒロインたるキャサリンそのものであった。
その時、事務所のドアが開いて、さらに真理子のいるミーティングルームのドアが開く。桜井だ。
「真理子!『魔法のお姫様☆ロゼアンナ』のライバル、キャサリン役が決まったぞ!」
「わあっ!私、頑張りますぅ!」
おい、私ったら大根やん…。真理子は自分の演技にダメ出しをした。
◆ ◆ ◆
『魔法のお姫様☆ロゼアンナ』の初収録、前世ではこうだった。
「おっ、おはようございますっ!私はイーストN所属、村上真理子です!」
「…中山香織です。よろしく」
圧倒された真理子、同じ年だが経験が違う。中山香織は幼少のころから父と共に市民劇団で活動しており、同劇団を経て本格的な劇団に入り舞台に立っている。
声優デビューは16のころ。モブと端役を演じてきたころから存在感を示し、このロゼアンナ役が初主役となる。真理子と同年といえど、声優界の明日を背負って立つ逸材と言える。そんな香織が演じるロゼアンナの敵役キャサリンを演じるのが真理子。
「キャサリン役を演じさせていただきますっ!あ、あのっ、私は中山さんのお父様と同じ養成所におりまして本当にお世話に…」
香織は新人の真理子を不快そうに見つめた。その表情に気付いた真理子は
「な、なにか?」
父親のことに触れられたくなかったか、と思ったらそうではなかった。
「村上さん、作中で私の演じるロゼアンナと貴女の演じるキャサリンは犬猿の仲です。すいませんが、たとえ収録外でも親しくお話することは出来ません。役に響きますから」
「…………!」
打ちのめされた真理子だった。これが主役を演じるほどのプロなのかと。
そして話は今に戻る。スタジオのあるビルの外観をしみじみ眺めながら真理子は当時を振り返った。
(完全に貫禄負けだったよね…。村上真理子もキャサリンも…)
キャサリンは悪役として足りなかった。それほど主人公ロゼアンナが際立っていて、新人で実力が香織にはるかに及ばなかった真理子では、ロゼアンナと肩を並べる敵役ヒロインを演じることが出来なかった。結局キャサリンは三流の悪役で退場する。
しかし、せっかくやり直せた人生、キャサリンがくれたチャンスを無駄にはしない。
「さあ、行くわよキャサリン。ロゼアンナを食ってやりましょう!」
収録の控室に訪れた真理子、前世と同じ場所に香織が座っていた。
真理子はそっけなく
「…おはようございます」
台本を読んでいた香織も
「…おはよう」
と、そっけなく返す。そして椅子に座り、静かに台本を読む真理子をチラと見て香織は少し微笑んだ。新人のくせに中々たのもしい。そう思ったのかもしれない。
ぶっきらぼうな姿勢を崩さないが、真理子は香織の微笑が内心嬉しくてならない。
(ふふっ、認めてもらえたかな?中山香織に!)
台本を開くと、懐かしいキャサリンのセリフが記されている。とはいえ、香織も真理子も収録前の暇つぶし程度に読んでいるだけだ。もう2人ともセリフは頭に入っているのだから。
その後も控室で一言も会話をすることも無く収録に臨んだ香織と真理子。
ロゼアンナにすさまじく偉そうに啖呵を切るキャサリン、初登場のセリフだ。ここで真理子は40歳村上真理子のすべてを解放する。能ある鷹が爪を出した!しかも、飛び切りの!
『ホーッホッホッホッ!我こそはヴィーナス帝国が皇女キャサリンじゃ!ラクシュミー王国のロゼアンナ姫と見た!さあ、いざ尋常に妾と勝負いたせ!』
スタジオ内の監督やスタッフ、そして共演者たちも一斉に真理子を見た。この一言のセリフで真理子の実力を測るには十分。監督は『こりゃ、すごい新人が出てきた』と云う顔をし、同じジュニアの女性声優たちは真理子を嫉妬の視線で睨む。
『俺の同期の村上真理子はやるぞ』
父の言葉を思い出す香織。台本を手に真理子をチラと見た香織は微笑み
『望むところ!覚悟しなさい、キャサリン!!』
真理子と香織の視線も合った。互いに強気で笑っている。香織もまた真理子の芝居に引っ張られていくようだった。どんどん芝居に熱が入る。主役として、これほどの実力者が敵役を演じてくれるほど幸せなことはない。自分の芝居もどんどん引き出されていくからだ。
(やるどころじゃないよ、父さん!うかうかしていたら私食われるって!ふふっ)
同じく熱演する真理子は
(必ず脚本を書き換えさせてみせる!ロゼアンナと共にラスボスのヴァルキリーを倒すのは私が演じるキャサリン以外ないんだから!)