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私の好きな人

「落ち着くのよ真理子、まだ慌てるような時間じゃない…」

40歳の売れない声優村上真理子が、ある朝20歳の自分に戻っていた。

顔に触れて、そして体のあちこちを触る。

「夢じゃない…。20年前に私は戻っている」

ブブブ…。バイブの音がしたので振り返ると携帯電話がメールを受信していた。

「懐かしいな…。この携帯…」

携帯電話を握って受信メールフォルダを開く。メール受信の日付は信じられないことに20年前。送信元は所属している声優養成所からだった。次回のレッスンに参加するか否かの連絡メールである。

スケジュール表も兼ねているカレンダーを見つめる。バイトの日程等が書かれているが声の仕事は一件も書かれていなかった。

「そっか…。このころはレッスンだけで正式採用されていなかったし…」

携帯電話を握ったままだが、さらにメールが届いた。

「え…!」

それはかつて愛していた男、真理子が『ヤスさん』と呼んでいた男からだった。

「ヤ、ヤスさん…!」

すぐにメールを開けると

『真理子へ、今日の訓練、少し遅れる。13時半には行くので先に始めていてくれ。急で申し訳ない』

ぶっきらぼうだが、嬉しくてならなかった。レッスンを訓練と言う。変わっていない。ああ、今日会えるのだ。愛する人に。生きているころのあの人に。

「だんだん思い出してきたぞ…。そうだ、このころの私って養成所とは別にヤスさんから指導を受けていたんだ!」

時計を見ると、7時半だった。

「ああもう!早く来てよ13時半!」


そうはいっても時計の針は早送りできない。真理子は朝食を作る。料理をする自分の体が軽い。40歳の真理子は既往症に糖尿病と高血圧もあったが、今から人生をやり直せるなら、それも回避できるかもしれない。

納豆と御飯、もやしの味噌汁、シンプルな朝食を食べながら部屋を改めて見つめる。本棚にある本の背表紙を見て、自分がいる時系列がより分かってきた。

「本当に20歳に戻っちゃったんだな…」

朝食後、養成所に出席の連絡メールを送信、その後に身支度を整えて真理子は外に出た。約束の13時半まで余裕はあるが、20年前の風景をゆっくり楽しみたいと思ったのだ。


「この景色…。本当に懐かしいな…」

故郷、広島で高校を卒業して上京、駅やバス停からも遠い安いアパートに住んでいる真理子。

親の仕送りはなどない。声優になると言ったが父母は許してくれず、なかば家出で上京した。

前世で40まで生きた真理子、彼女の父母はいまだ元気であるが、ほとんど帰っていない。親不孝もいいところだ。心臓麻痺で死んだのもバチが当たったのだろうと思い苦笑してしまう。

しかし、20年前の風景を楽しんでいても真理子の心の中は愛する男のことでいっぱいだった。

「ヤスさん…。二度目の人生では貴方のお嫁さんになりたいな…」

顔を赤くしてしまう真理子だった。


ヤスさん、名前にあっては中山康臣、現在42歳で真理子より22ほど年上であった。

彼が声優を志したのは早く、幼少のころから市民劇団で活動していたが高校在学中に将来を誓いあう恋人が出来て、収入不安定な声優をきっぱりとあきらめて東京消防庁に入庁した。そして19歳で結婚。子供は娘が2人出来た。

康臣は消防士として優秀な人物で、特別救助隊に配属される。多くの大規模災害にも出動し、やがては国際救助隊やハイパーレスキュー隊員のメンバーに抜擢される。まさに人命救助のスペシャリストである。


幸せな家庭であったが突然不幸が襲う。愛妻が病で他界したのだ。それでも康臣は男手一つで娘2人を立派に育て上げた。次女が高校を卒業して間もなく、康臣は娘2人にとんでもないことを言い出す。

『お父さんは声優になる』

娘2人は唖然とした。何故なら、当の娘2人も声優なのである。


事情があった。若いころは凄惨な現場の光景を見ても、すぐに気持ちを切り替えられた。

しかし、伴侶を失っていた寂しさも積み重なっていたか歳を取るにつれ凄惨な光景に心が悲鳴を上げだした。

惨事ストレスと呼ばれるもので、無論消防庁側も優れた消防士の辞職は重大な損失のため国単位で対策を講じているが、それでもどうしようもないのが心の病と云うものである。惨事ストレスの最たる妙薬は家族の支えである。残念なことに康臣の娘2人では父の心の病を治すことが出来なかった。

それを一番理解して悔しい思いをしていたのもまた娘2人。だから反対できなかった。

いや、むしろ新しい道を歩んで生きがいを見つけてくれて、さらに良き伴侶に巡り合ってくれたらと云う思いもあった。長女は

『分かった。お父さんと共演できる日を楽しみにしているね』

と、微笑んだ。次女も同じ気持ちであった。


住宅ローンはすでに完済し、他に借金もない。愛娘2人は独立、惨事ストレスは快癒していないものの体そのものは健康。気がつけば何の憂いも無かったのである。消防庁を退官すれば当然無収入になるが、娘が巣立った今、たとえ飢え死にしようが、すべて自分一個の責任である。

若き日の夢ふたたび!異色の元消防士の声優だった。


話は戻る。約束の時間となり康臣が指定している練習場に来た真理子。区の公民館のレンタルルームである。みなでお金を出しあってレンタルしている。養成所の仲間も何人か来ていた。

「おはようございまーす!」

「「おはようございまーす!!」」

(みんな…!懐かしい!)

真理子の前には懐かしい養成所の同期たち。


しかし、声優として残った者は誰もいない。目の前で柔軟体操をしている萩原美津子、彼女は声優の夢かなわず、歌舞伎町の夜へと消えていった。同じく同期の水村幸恵は声優をあきらめて、会社員の男性と結婚して幸せに暮らしている。これが声優になれなかった女の一番幸せな『その後の人生』だろうが、それが出来ない者もいる。無論それは女に限ったことじゃない。


いま、鏡に向かって発声練習をしている田中正也は落ちぶれてパチンコ依存症になったあげく首を吊った。

仲間のその後を知っているのは真理子にとってつらかったが『あなたは何年後にこうなるのよ』なんて言えるものでは無い。また、未来を知る自分が同期のみなを全部助けられる、なんて自惚れてもいない。未来を知っていようが知るまいが、結局はなるようにしかならないのだ。

開き直り、いまは同期のみんなとレッスンを楽しもうと思い直した。

「みんな、ヤスさんからのメール見た?」

「見た。30分遅れるんだったな」

と、田中正也。

「とはいえ、その30分を無駄に出来ないわよ!このレンタルルームだって安くないんだからね」

体を伸ばしながら萩原美津子が言った。

「じゃ、始めましょうか!さ、みんな輪になって!」

水村幸恵の合図でメンバーは輪になり


『『アエイウエオアオ!カケキクケコカコ!サセシスセソサソ!』』

滑舌の練習である。これを繰り返し

「さあ、外郎売!」

と、同じく幸恵が指示を飛ばす。彼女はこの中では年長の23歳であったからだ。

『『拙者、親方と申すはお江戸を発って二〇里上方、相州小田原…』』

外郎売はしゃべることを生業にしようとする者にとって欠かせない稽古である。そして


「遅れてすまない」

中山康臣が練習場に来た。

「「おはようございます!」」

キッチリとお辞儀する。元消防士の康臣は礼儀に厳しい。声優の世界、と云うより芸能界で礼儀知らずはやっていけない。だから仲間にも厳しいのである。仲間たちのお辞儀に合格点を出したか、康臣はやり直しをさせることもなく、そのままレッスンに加わる。


康臣とのレッスンは基本の腹式呼吸や滑舌の練習、そして課題劇をみなで演じる。康臣は幼少から高校時代まで市民劇団で芝居をしており、結婚してからも娘2人連れて市民劇団で芝居を続けていたので舞台経験も豊富だ。

大変な読書家で常識も豊かであり、また消防士であったため多くの災害現場を経験しているので人物的にも深みがある。消防学校の教官も経験しており教え方も上手い。


養成所の講師は課題劇の時に練習生の芝居を見て指導するが、康臣の場合は一緒に演じる。仲間たちは康臣の芝居に引っ張られ、自分の芝居がより上がるのが実感できるのだ。

「幸恵、ちゃんと役になり切ったいい芝居だ。しかし、まだ少し早口だ。あと、もう少し間を考えてみてはどうかな?」

「早口と間、ですね!はい、心がけます!」

「正也、前回は恥ずかしがって女の子たちの目を見て芝居できなかったが、今回は真理子と幸恵の目をしっかりと見て芝居出来ていた。アドリブも中々のセンスだったぞ」

「ありがとうございますっ!」

「だが台詞を言っていくにつれて段々滑舌が怪しくなってくるな」

「たははは…」


よい所は褒めて、さりげなく釘を刺すのが康臣の指導法でもあった。意外にも、これを声優養成所の講師たちは行わない。上手く出来ていても粗を探すように駄目出しをする。落語の世界では修業時代に褒め言葉を言ってくれる者は敵と思えと云う考えがあり、声優とて芸を披露する表現者。褒め言葉を言わずに駄目出しをするのが指導者の心得と、講師なりに正しい指導と思っているのだろうが何事も匙加減と云うことだ。

康臣の指導は上手く出来た時は褒める。立場的には真理子たちと同じ練習生なのだが、そのぶん講師より身近な存在なので、そんなに緊張せずに稽古できると云うのが仲間たちにありがたい。

「さて、真理子。ずいぶんと練習を積んできて今日の稽古に臨んだみたいだ……」

指導を受けている真理子、ただ突っ立って康臣を見ている。

「…?おい、聞いているのか、真理子?」

真理子は康臣をポーとして見ていた。

(あああ…ヤスさん!ヤスさん!アンタ、なんていい男なんだろう!40まで生きたからこそ、アンタの男ぶりが分かるよ!イケメンじゃないから?ボケッ!こんないい男に若いころの私は気付かなかったなんて村上真理子のバカ!アホ!)

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